訃報と短信

演出家の鈴木敬介さんが22日に亡くなったと知りました。

若杉弘さんに続いて、びわ湖ホールのヴェルディ・シリーズを牽引したお二人が相次いで……。

私は、「エルナーニ」で女性だけの場面になってパッと花が咲いたような雰囲気になるところが好きでした。

1999年に「ドン・カルロス」5幕版と「群盗」をやって、「ジャンヌ・ダルク」、「アッティラ」と来て、「エルナーニ」は、こちらも色々下準備して両日とも観て批評を書いたので、一番印象に残っています。(「シチリア」と「十字軍のロンバルディア」と「スティッフェリオ」は見ていません。最後の「海賊」は観ました。)

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前略

短信その1:

東京から降りてきた興行(東京の人々が主導権を握りつつ関西で行う興行)に対する関西の人間の反応を、「関西vs関東」という図式で捉えるのは、話のすり替えだと私は考えています。それは、ローカルとグローバルの切り替え、使い分けが現実にどうなっているか、どういう結果を生んでいるか、という案件だと私は考えています。

びわ湖ホールは、「関西ローカル」というよりも、「日本全国に広く存在をアピールしている劇場」なのだと私は理解していますし、それでいいと思っています。

(生前の若杉弘さんや鈴木敬介さんと同席して、意見交換をする機会(←何度考え直してもわたくしには分不相応だったとしか思えません)が一度だけあって、そのときに、私は、「ここは、湖上に浮かぶ天空のお城のような場所なのだから、我々がため息をつきながら見上げるような、とことん、現実離れしたことをやってください」という意味のことをご本人に直接申し上げました。)

それから、びわ湖ホールがローカルな企画をいくつか打ちだし着実に成果を上げていることも承知しています。

しかしながら今回の「ボエーム」は「関西ローカル」な活動ではなく、グローバル・モードで開催されたと、私は理解しています。だとしたら、関西ローカルな仕事をしている人たちの反応が薄いのは仕方がない面があるだろう。……という風な現状認識であることは、別の機会に他の方とお話したりしたこともあります。そのときにも、なかなかご理解いただけず、「関西vs関東という古い図式へのこだわり」という風に読みかえられてしまいそうになり、説明に苦労しました。

(いずれに致しましても、「追悼」という特別な文脈に、このようなメッセージをこっそり混ぜるのはどういうものでしょうか。それだけ「関西」への憎しみが鬱積しているということなのでしたら、荒ぶるお心が鎮まりますようにとひたすら祈るばかりです。

日本という国には、言ったことの正否にかかわらず、「今は何も言うな、黙れ」という無言の圧力がかかる場があるということは、私もわきまえているつもりではありますので。)

急告:関西の音楽ジャーナリズム関係の皆さま

先頃、びわ湖ホールのコンヴィチュニー「ボエーム」に、この大変な状況のなかで関東からおいで下さった先生方が、関西に生きる者どもの、とうてい心をもつ「人間」の仕業とは思えぬ非道な無関心ぶりにひどく落胆してお帰りになる、ということもあったようです。本物のヴェルディ・オペラを私たちに見せてくださったびわ湖の恩人、鈴木敬介さんのご冥福をお祈りしつつ、深く反省しましょう。そして、音楽指導の場ではないにもかかわらず、ほぼ全日程の指揮を受け持ってくださった沼尻竜典さんを全力で褒め称えましょう。そのような態度こそが礼節であるとする文化がそこにたしかに存在するのです。わたくしたちは、もう少し「文明」に学ばなければならないようです。

(……お客さま、これでよろしかったでしょうか?)

短信その2:

演奏家が作曲家に対して、「お前は演奏のことがわかっていない」と文句を言うのは大いに結構だし、どんどん議論して、ケンカしていただけばいいと思います。それは、非常に有意義なコミュニケーションだと思います。

でも、「Aという演奏家がBという作曲家についてこういう文句を言っている」と学者や評論家が書く、ということになると、話が変わってくる。学者や評論家が議論の間へ割り込むのは、せっかくのコミュニケーションを疎外する危険があると私は思います。

もしも、当該作曲家をツブしてやろうという邪悪な考えを持っているのであれば、効果テキメンでしょう。でも、作曲家に良かれと思ってやっているのだとしたら、それは、余計なお節介ではないか。

神経の太い作曲家だったら、学者や評論家のご注進(「○○さんがこう言ってましたよ」等々)に対して、「ああそうですか、それじゃあ今度、直接会って、どこがダメなのか聞いてみます、どうもありがとう」と応対するかもしれないけれど、神経の細い人だったら、疑心暗鬼になって、最悪の場合には、その作曲家と演奏家の仲を裂くだけで終わってしまうかもしれないからです。

そして、前のエントリーは、作曲家と演奏家のケンカを具体的に想像した上で書いているつもりでした。

(なお、ご指摘の件は、過去の大演奏家が過去の大作曲家のオーケストレーションを「下手だ」と言ったケースですが、

  • (1) 一般論として、当事者が死んでしまって「歴史」となった言葉の解釈には最大級の慎重さが必要である。
  • (2) 当該ケースが興味深い発言となり得ているのは、名指された大作曲家がオーケストレーションの名手とされているからであり、彼を「下手」だと言った大演奏家も、本気でプロの名に値しないヘタクソと思っていたわけではなく、一種のレトリックだと考えられる。(そちら様もこの批判をレトリックとして解釈して、「現実に演奏が上手くいくオーケストレーションとは別に、いわば未来の演奏の在り方を指し示し、演奏の現実を変革するためのオーケストレーションというものがありうる」ということを示す例だ、等々と読み解いていらっしゃいますよね。)
  • (3) 私は、当該演奏家による当該作曲家への批判が、そちら様のおっしゃる解釈の妥当なケースであるかどうか、判断は保留しますが、いずれにしても、私の先の文章は、事態の基本的な見取り図を仮説的に、できるだけ単純化してスケッチしたいと考えて書いたものであり、私が想定した見取り図の単純さ/複雑さの想定水準に比べて、そちら様が持ち出してこられた論点は、細部の極めて微妙な綾に関わるものであり、いわば「細かすぎる」と思われます。

以上ような考察をもとに、ご指摘のケースはどこかで何かの役に立つ教訓ではあるかもしれないけれども、わたくしが先の文章で素描した見取り図に変更を迫るものではない、と判断させていただきたく思っております。ご理解ご了解をいただければ幸いです。

そして余談ながら申し添えさせていただくならば、そのように、当該の議論の話題とうまく合致しない「右斜め上」の高尚な教訓話をもちだして、時間のかぎられた話し合いの場を混乱させることへの倦怠感というのは、しばしば「会議」の場で見られるものであり、柴田南雄が学者の世界にうんざりした理由のなかには、まさにこのような、「博識の知恵者」が介入することによる意図せざる遅延行為が含まれていたのではないかと、私は想像しております。)

話を戻して、演奏家と作曲家のケンカというのを具体的に想像してみます。両者が、ある音楽の演奏効果について議論することになったときに、その議論が実りあるものになるとしたら、どういう形になるでしょう?

演奏家が作曲(音楽の設計図)に文句を言うときには、ここがこれこれだからダメなんだよ、という風に話が具体的なポイントへ収斂するはずだし、それは、楽譜なり何なりをベースにした議論になるのではないか、と私は想像しながら、あの文章を書いていたのです。

(演奏家が感覚的な言い方しかできなくて、作曲家側が「お前の言ってること、意味わかんねーよ」と逆ギレして物別れ、ということもあるかもなあ、とは思いますが、それはそれで、当事者たちの「熱さ」を感じさせる、ある種ほほえましい(当事者はマジで切れてるにしても)イイ話ではないかと。……「イイ話」の大物タレントさんが「引退」した直後に言うのもナンですが。)

そういった情景を想像しながら書いた文章なのだということは、「会社」の比喩のなかで書いているので、類推可能であろうと思っていたのですが、言葉足らずではあったかもしれませんね。すみません。

学者なり評論家なりが、ある作曲の「演奏への配慮のなさ」を指摘するのであれば、演奏家の威光を借りるのではなく、ここがこうなっているからダメだ、と直裁に書けばいいと私は思っているのです。そういう風に話をシンプルにしたほうが、物事が前向きに動く可能性が高いだろうと思うからです。

(そしてたとえば、岡田暁生がクライバーのリハーサルを引き合いにだす口ぶりは、私にはどうしようもなく不愉快なのです。あの映像自体は本当にステキなのに……。

でも、あるいはひょっとすると、こういう種類の「現場感」を振りかざす人間は、すべからく「引退」を考えるべき時節なのでしょうか。そんなことになると、文字通り死活問題になって困るのですが……。私がデジタル化を怠ってテレビを観なくなっているここ数週間の間に、日本の「空気」は、そのように、おちゃらけた物言いを徹底的に摘発するモードへと激変しているのでしょうか? 真剣に不安です。

私は、1960年代の柴田南雄や吉田秀和の行動と文章から、かつて日本にそのような「熱く」「直裁」に物の言える時代があった手応えを強烈に感じ、その「熱気」に学びたいと考えているのですが……。)

そういえば、南西ドイツ放送では、毎年、年末にあの「こうもり」のリハーサルを好例で放送していたのだとか。シュトゥットガルトでは、クライバーのあの映像がアメリカ人にとっての映画「素晴らしき哉、人生」と同格だったんですね。……でも、怒り心頭でいらっしゃる方の前で、こんな風に話を脱線させると、火に油を注ぐ結果になってしまうでしょうか。

相変わらず日中は暑いですが、朝夕に、わが家の周りでは既に秋の虫が鳴いています。

敬具