ベッリーニ「清教徒」は素晴らしい音楽である、と言いたい日本の私

ベッリーニ:歌劇《清教徒》 [DVD]

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  • アーティスト: フローレス(フアン・ディエゴ),マチャイゼ(ニーノ),ダルカンジェロ(イルデブランド),グアリアルド(ウーゴ),ヴィヴィアーニ(ガブリエレ),フローリス(ジャンルーカ),ピラッツィーニ(ナディア),ボローニャ歌劇場合唱団
  • 出版社/メーカー: ユニバーサル ミュージック クラシック
  • 発売日: 2011/08/10
  • メディア: DVD
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キャストは違うが、舞台・演出は今回の来日公演と同じプロダクション

[ボローニャ歌劇場の「清教徒」は仕事で公演評を書く予定なので別のことを書きます。]

ふと思ったことなのですが、

「抽象化」というのは思考・哲学の基本的なツールのひとつですけれど、ひょっとすると、これを「純化」や「濾過」と取り違えている人が案外いたりするのではないか。

戦後、西ドイツの音楽学に「絶対音楽」論を批判的に検証する動きがあったようで、それはどういうことかというと、(1) 19世紀のドイツに器楽こそが「純粋な音楽」であるという暗黙の通念があった、(2) そして、言葉や感情や物語を「濾過」(フィルタリングですね)した、いわば音楽の純結晶をめぐる形而上学が展開されていた、それが「絶対音楽の理念」だ、というような話ですが、

これがヤバいとされたのは、このような思考回路が、「純粋なドイツ」を夢見て、人間のフィルタリングを行ったホロコーストと同型ではないか、という疑念が言外にあったのかもしれないなあ、と思います。

シンフォニーの「純粋な」姿が「鳴り響きつつ動く形式」だ、と考えるのはそれほど不自然ではないかもしれないけれど、オペラから舞台や衣装や演技を「不純な」要素としてフィルタリングしてしまうと、それはもはや、オペラならざるものかもしれない。シンフォニーに関する抽象的な議論は、舞台上の視覚効果を度外視して進めても当面支障はないかもしれませんが、「オペラ」の抽象モデルには、舞台や衣装や演技という要素がほぼ必須と見たほうがよさそうです。

それじゃあ、「歌う」という行為はどうなのか。言葉やそれを発するヒトの呼吸は、「純粋な歌」からフィルタリングされても仕方がない属性なのかどうか? たぶん常識的には、それは変だ、というところに落ち着くだろうと思います。言葉をさまざまな抑揚でヒトが発声するのが「歌」である、ということになるでしょう。「歌」の抽象概念には、言葉やヒトの息づかいを何らかのやり方で組み込んでおかないといけなさそうです。

「純粋化」と「抽象化」は別の文脈、用途、目的で適用される操作ですが、「純粋な○○」を予め想定して、それをサンプルとして利用する(=例示illustrateする)と、「抽象的」な議論を進めるときに話がわかりやすくなる利点があったりするようです。

それが、絵入り新聞Illustrierte Zeitungをプロパガンダの主要メディアとする19世紀半ば以後のヨーロッパの習い性というものなのでしょう。「純化」「濾過」という操作は、抽象的な思考に役立つ挿し絵(イラスト)である。「美しい花」を床の間の花瓶に飾ることは、「花の美しさ」をめぐる思索を促す効用がある、と。

ホロコーストは、こうした事情を逆手に取り、「ドイツとは何か」という抽象的な議論をシンプルな形で進めたいがための身勝手な「純化」を行ってしまった、ということになるのかなあ、と思います。

(「花の美しさなどありはしない」という小林秀雄の啖呵は、その種の身勝手を懲らしめる市井の義賊の所作に見えたから大向こうに受けたのかもしれませんね。)

大衆宣伝の神話―マルクスからヒトラーへのメディア史

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さて、そして「音楽とは何か」というのは、政治論や文化論における「ドイツとは何か」というのと同じくらい、ややこしい話なんですよね。(ややこしさの理路はちょっと違っているかもしれないにしても。)

日本語の「音楽」は、江戸以前の用例研究もありますが、とりあえず、明治以後にmusicの訳語として普及・定着したのですから、ほぼ翻訳語と言ってよさそうですが、

それを言うなら、欧米においても、musicはギリシャ語のムシケーがラテン語に入ってきた外来語で、中世のmusicaの語は、いわゆる音楽を指すというより、「数比をめぐるギリシャ流の思考方式」という語感で用いられていたようです。

musicの語は、意味や用例の変遷があって、この語が名指す行為や現象が抽象的な思考・操作を(どの程度/どのように)含有するかどうかについて今では諸説あって一概に言えないと思いますが、それでもなお、「外来語」のニュアンスが残っているのではないかと私は考えています。musicは、抽象概念かどうかは定かではないけれども、少なくともこれを土着語として用いうる民族・集団は、この地上には存在しないということです。

「純粋な音楽=music」を表象しようと試みることは、ひょっとすると、バベルの塔を建設するようなものなのかもしれません。音楽が表象不可能な概念だ、とか言っているわけではなく、「純粋化」という操作でアプローチするには向かない概念なのではないでしょうか。

しかも、音楽=musicは、シンフォニーやオペラや歌を総称する上位概念である、という関係にはなっていません。

シンフォニー(19世紀ドイツでは「絶対音楽」を指し示す格好の事例とされていたというのがほぼ通説)とオペラ(その後のイタリア・オペラの原形になった17世紀中葉の諸作品を最近の研究では「dramma per musica」と呼ぶことが多くなっている)は、それぞれのやり方で音楽=musicと関わっていますが、どちらがより「本質的」であったり、「純粋」であるか、ということを問うのは、たぶん不毛なのだろうと思います。

それは、ドイツ人とイタリア人はどちらがより「ギリシャ的」か、と議論するようなものです。現実のギリシャは、そもそもヨーロッパなのかどうか、よくわからないところがある境界的な地域ですし、ドイツやイタリアを「純化」しても、ギリシャになるはずはない。「古典ギリシャ」へ寄せる思いは、精神的・理念的な跡目争いの「抽象論」だと思います(といっても、空論としてバカにしているわけではないですが)。

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ある行為・現象の「純化」や「濾過」によって崇高な抽象の世界へ到達しうる(いわば、ある行為・現象のわかりやすい「挿し絵(イラスト)」を描くことが抽象(アブストラクト)への道である、挿し絵とは抽象である)という逆説を、ワーグナー自身が本気で考えていたかどうかは知りませんが、楽劇信奉者のなかには、そのように通俗化された、絵入り新聞時代の「絶対音楽」論が成分として少なからず含まれているような気がします。

そして、音楽をめぐる「純化」や「濾過」を「抽象化」と混同しがちな思考回路を装填している方は、ワーグナー信者になってしまう潜在的な気質・体質があると注意したほうがいいのかもしれません。

幸か不幸か、イタリア・オペラは、それをどこまで「純化」「濾過」しても、その先に抽象の世界が開けているとは信じられそうにない場所に花開いたジャンルであるような気がします。そしてその感じは、ワーグナーが「ザ・ワーグナー」になってヨーロッパを席巻した以後の世界と触れあいながらオペラを書いたヴェルディやプッチーニよりも、まだワーグナーを知らない世界を生きていたロッシーニやベッリーニやドニゼッティのほうが、よりはっきりわかるようになっているのかもしれません。

……ものすごく壮大に無謀な遠回りをしましたが、

びわ湖ホールで「清教徒」を見て、非常に面白くて、でも、この面白さを言葉にするのは大変なことだなあ、と思ったのでございます。

いいオペラ公演だったと思いますし、歌やオーケストラだけでなく、舞台や衣装や芝居や演出を含めたうえで、ということは、およそ抽象の世界へ誘われるのとは違う地平で、しかしそうかといって、イタリア・オペラという土着の郷土芸能を観光するのとは違った構えで、「いい音楽だなあ」と思った。とりあえず、そんな風に言ってみたらどうだろう、と。

(公演評ということになると、ランカトーレは中音域にエグい声で乗り切る音があって、不調?という印象だったり、色々ありますけど。)

ヴァーグナーの「ドイツ」―超政治とナショナル・アイデンティティのゆくえ

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↑この本は本文と直接の関係はありませんが、

でも、愚かな教養主義がオレ様の電光石火の早業の足を引っ張っている、くそったれ、という語法は、チョビ髭の「指導者」への第一歩のような気がしないでもない。

抽象化という操作には、個別の列挙という作業が暗黙にではあれ必須の前提であるはずだし、事前に個物への恣意的な濾過・フィルタリングを施すのは不正操作。思考・哲学には、安易な「電光石火」を抑止する機構が装填されている、ということに過ぎず、俗物的教養主義はたぶん関係ない。言いがかりはいけません。

ウェーバー 歌劇《オイリュアンテ》カリアリ歌劇場 2002年 [DVD]

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そしてベッリーニの生地シチリア島からは海で隔てられた向こう側ですが、サルデーニャで上演された「オイリュアンテ」が悪くない。「ワーグナー以前」には、ドイツでもこういう風な「いい音楽」がありえたということでしょうか。