聴像論 Theories of Auditory Image は思考を刺激するか?

映像論序説―“デジタル/アナログ”を越えて

映像論序説―“デジタル/アナログ”を越えて

パラパラと眺めただけなので読み間違っているかもしれませんが、複数の映像が同時多発的に存在する状態が「デジタル」の典型とされ、これとの対比で、瞳が単一の映像を凝視する状態は「アナログ」である。この本は、そのような対比を念頭に置いて読み進めるといいみたいです。

(私は、まだ「読み方」の見通しを立てることができただけで、実際には読んでいません。複数の読み書きを同時多発的に平行させなければ仕事が片付かない「デジタル」な状態に追い込まれて、大変なのです。^^;;)

そういえば、2000年代のアメリカ映画では、画面に複数の映像が填め込まれたシーンをよく見かけるような気がします。とりあえず、そのような画面構成はいかにも「9.11以後」である、と言えるのかもしれませんね。

もちろん、『映像論序説』は、そのような陳腐で通俗的な「デジタルの新奇さ」に飛びつけばいいという論旨ではまったくなくて、そうした新しさの安易な礼讃に慎重すぎるほど慎重に一歩ずつ話が進んでいるみたいですが。

マイノリティ・リポート 特別編 [DVD]

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画面への別の映像の貼り込み、として私がまっさきに連想したのはこの映画でした。凡庸な映画体験しかなくてすみません。

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そこでふと思ったのは、この話を聴覚に転用できるだろうか、ということです。

映像の「デジタル」なありようが思考を刺激するのは、わたしたちが、2つの瞳によって把握する視覚世界を「単一の映像」と表象することに慣れているからなのだろうと思います。(典型的には遠近法でしょうか。)複数の映像が同時多発することで、視覚像は単一である、という常識が揺らぐんですね、たぶん。

一方、わたしたちは、2つの耳によって把握する聴覚世界を通常「単一の像」とは表象しないような気がします。われわれを取り巻く環境は、日常的に、さまざまな発信源からの音が同時多発しつづけている。そのように表象するのが常識的であるような気がします。

たとえば、「ランドスケープ」(眺望)をもじった70年代の造語「サウンドスケープ(音の眺望)」が新鮮な発想だと受け止められたのは、聴覚世界を(「音楽」という特殊な営み以外では)「単一の像」と見る構えに慣れていなかったからではないか、と思います。

試しにGoogleで検索してみると、

  • visual image → 約 201,000,000 件 (0.15 秒)
  • auditory image → 約 7,650,000 件 (0.12 秒)

auditory imageはvisual imageより二桁少ない。

映像論(デジタルな)は刺激的だけれども、聴像論(デジタルな)は、それがどうした、と言われてしまいかねないところがありそう。これって、視覚と聴覚の異質性を考察するひとつの切り口になるのでしょうか。

サウンドスケープ論と共闘するような形で、儀礼の場や計画都市(教会の鐘楼が中央広場にそびえ立つヨーロッパの城壁都市や、平安京の「音の宇宙」)など、様々な「単一の聴像」が発見されましたが、そうした発見は、それらが特別な場所であったり、非日常の空間であることを再確認することだったように思います。

雅楽を聴く――響きの庭への誘い (岩波新書)

雅楽を聴く――響きの庭への誘い (岩波新書)

この本を読むと、雅楽・舞楽が開陳されることで生まれる「響きの庭」も魅力的な聴像なのだなあ、と思います。

また、サウンドを制御する機器の「革新性」は、しばしば、利用者が欲する音だけを発し、利用者が欲しない音を消す(ノイズ・キャンセリング)といった機能を誇り、聴像の「単一化」を指向している印象があります。

こういうのは、一見、映像の複数化と逆行しているかのようですが、

(複数の映像を自室に配置する環境が現在では一般的ですが、わたしたちは通常、複数のオーディオ機器を同時にプレイしたりはしません(よね?)、コンピュータのマルチ・ウィンドウは複数的だけれども、サラウンド・オーディオは単一の聴像(音像)を目指す、そしてマルチ・スピーカーによる複数の像の同時多発は、様々に試みられ続けているのを承知していますが、決して批判ではなくフラットな現状認識として、「まだ」(?)電子音楽の実験室を出ることができていないし、ひょっとすると、実験室の中(外界から遮断されたコンサートホールを含む)だからこそ意味を持つ試みなのかもしれません、)

日本の電子音楽

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でも見方を変えると、映像の複数化と聴像の単一化が、視覚と聴覚の関係という一段高い次元における「デジタル」(視覚と聴覚の離散・乖離)を実現しつつある、というような言い方になるのでしょうか? 部屋のなかで複数の映像ディスプレイに囲まれて、その背後には別のBGMが流れているとか。

ジャン・コクトー/オルフェ [DVD]

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(「アナログ」とされた古典的な映画に出現する鏡は、別のイマージュの割り込み(イマージュの複数化)なのだろうか?とか、「9.11」より何十年も前から実用化されているマルチ・トラック録音や、ラジオ放送が初期段階から試みて早々に実用化した多元中継(アナウンサーのコメント入りの)や、AMラジオで70年代以後当たり前の演出形式になったパーソナリティとリスナーの電話でのやり取りはどう位置づければいいのか、

恐怖のメロディ [DVD]

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もっと遡れば第一次大戦前後のアヴァンギャルドのコラージュ・モンタージュとの関係はどうなるのだろう、等々と思いますが、そうした問題群の一部は『映像論序説』のなかで当然ある程度検討されているだろうと期待されるので、ここで中断。続きは、実際に本を読んでから考えることにします。)

ローマの休日 [DVD]

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visualに対応する形容詞がどうしてauditoryという語形なのだろうと考えているうちにこの映画を思い出した。……オーディトリー・ヘップバーン(も、申し訳ない)
大人のための「ローマの休日」講義―オードリーはなぜベスパに乗るのか (平凡社新書)

大人のための「ローマの休日」講義―オードリーはなぜベスパに乗るのか (平凡社新書)

……でも、北野圭介さんはこういう本も書いていらっしゃる。