「記譜されたもの」の補集合を「即興」と一括できるかどうか問題。
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とりあえず思いついたのは、
- 想像力(構想力?):今日「即興」と呼ばれている演奏実践の多くは、かつて自由な「fantasia」と呼ばれていた。人前でこれをやる習慣は、20世紀=演奏が録音される時代に急速に失われた、という理解でいいでしょうか。文学にも、その場で作る、というのがありますよね。俳句・和歌でも、西欧のサロンでも。
- [追加!]憑依力:何をどういう順番でやるか、実装は任意であるような話、役柄などの設定の束。音楽を特定のスタイルで「演じる」ときには、ラプソーデのような語り部のそうした話術、「別れたがっている女と引き留める男」というようなお互いの役柄・状況だけを決めて行う俳優のエチュードなどに近いところがあるのではないか。「話」・「役柄」・「状況」が降りてきて、自らのうちに設定の束がロードされると、あとはすらすら進行するというような……。
- 即応力:適切で効果的な語彙・言い回しをその場で選び取ること。通奏低音から、コンチェルトの華麗なオブリガート(モーツァルトやベートーヴェンは自分で演奏するときにはピアノパートを記譜しなかった[注:カデンツァだけでなくオケと一緒に演奏する「本編」のピアノパートにも、譜面が空白で即興的に埋める箇所が少なからずあったようです)を経て、コロラトゥーラ歌手やヴィルトゥオーソの「即興的な装飾・変奏」へ至る道は、これではないか? 落語家さんが客を見てネタを決める、というのに近いかもしれない、客との対面パフォーマンスの駆け引きとレトリック。ジャズ・セッションも、ルーティーン化すると、かぎりなく、これに近くなるのでは?
- 即席力(賄い力?):在り物をかきあつめて、その場で手早くやりくり・編集する力。足りないところだけ作ることにすれば省力化が可能。しかし、切れっ端で作った「賄い料理」が実は一番美味いとの説もある。このやりくりができないと、ギョーカイで通用する作曲家・音楽家にはなれない(らしい)。かつてはオペラ作曲家もこれでやらないと、とうてい間に合わなかった。リミックス全盛時代になってよかったね。(^^)
下の三つは、今でも普通に(もしくは潜在的に)生きていると思う。
これらを引いて残るのが、1960年代の「爆発する藝術」としての即興でしょうか。
才気走った煌めきを追い求めると、凡庸さの底力が見失われる。どこにでもありふれているものを手早く集めて、ロードして、周りを観察しながらことを進める。音楽も日常も実は同じなのではないか。
美学が「基礎理論」という特別席に安住して、悪しきエリート主義を助長・延命させる悪弊を憂う。
[追記1]
各論をやっている人間が総論の担当者に期待するのは、周辺領域へ接続する広がりと開放性であり、抽象度の「高さ」は、広い視野を確保するための選択肢のひとつに過ぎず、必要不可欠ではないと思う。たとえば、大所高所からの高説と性急な断言によってではなく、フラットなネットワークとマネジメント力でこれを実現する可能性が考えられていいはず。過剰な「高さ」を競うのは、格好の標的となる危険な願望(プラグマティックというよりシンボリックな)であるというのが、「9.11」の教訓のひとつであったような気がするのですが、十年ひと昔でもう喉元を過ぎちゃったのか?
[追記2]
もとはといえば、「即興」というユートピアへの憧れは、一方の、音の「高さ」(←あ、「高さ」だ(笑))と長さを二次元にマッピングする窮屈な楽譜なるものと、他方の、無慈悲な録音再生技術に挟み撃ちされ、窒息寸前であると感じた60年代が、音楽における「第三世界」として想像的に生み出した不在の楽園のようなところがありますし。
[付記]
ちなみに私は、フランツ・リスト(生誕200年で「旬」ですね!)の「超絶技巧」は、transcendent(超越的)という語に力点があり、人間界を越えようとする錬金術的なロマン主義の一種だと思っています。19世紀のヴィルトゥオーソを「即興」の典型とみなして考察を進めるのは、むしろ混乱の元凶として避けるべきだという立場です。あれは、自由なファンタジアの典型というより極北、Marsへと旅立ったジョン・コルトレーンとともに、天空に不動点として燦然と輝く「お星さま」になってしまったのだと思います。