「歌もの」と「語りもの」の区別、西洋と日本の近世における

何度かに分けて書き継いでいる「即興」問題とも緩やかに関連しますが、西洋でも日本でも、特に近世(16から18世紀)を見るときには、「歌もの」と「語りもの」という区別が大事なのではないでしょうか。

ヘンデル:メサイア(全曲)

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人間国宝シリーズ(14)地歌箏曲

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クラシック音楽にも「語り物」があるし、邦楽にも「歌もの」がある。

オペラは次第に「歌」へ傾斜しますが、オラトリオは「語りもの」。浄瑠璃は言うまでもなく「語り物」で、一方、地歌は組歌など、複数の和歌を手事でつなぐなどの「歌もの」がレパートリーの中核になっている。(和歌は詩であると同時に「うた」なんですよね。日本の「うた」と西洋で言うメロディは、どれくらい意味が重なり、ズレるのか、私はよくわかっていませんが。)

「即興」の話とのつながりで言えば、improvisatore(即興詩人)は、即席で「歌う」人というイメージであり、rhapsodosは、吟遊詩人と言ってしまうとimprovisatoreやtrovatoreと区別がつかなくなってしまいますが、当意即妙な「語り部」なのだと思います。その背後には、「歌」と「語り」の区別があり、文学の概念でいえば、それが、抒情(lyric)と叙事(epic)の区別とリンクしているはずです。

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近世には、ここに、西洋でも日本でも、ドラマ(演劇)が重要な世俗芸能として台頭するので話がややこしくなるわけですが、

いわゆるオペラ(フィレンツェのカメラータが試みたような)は、教会の礼拝での朗唱や宗教劇の影響を受けながらもそれとは違う、演劇的な台詞術を模索していたようで、これがのちのレチタティーヴォへつながっているので、ローマの反宗教改革の一派の熱狂的な説教から発展したとされるオラトリオの語りとは、由来が違うようです。

キリスト教音楽の歴史―初代教会からJ.S.バッハまで

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オラトリオの起源と歴史

オラトリオの起源と歴史

オペラもオラトリオも、そのうち、語り(レチタティーヴォ)と歌(アリア)が交替する形式へ収斂していきますが……、

(アリアariaの語源は、「○○風」というように型・様式の意味だったようですね。opera(作品)という言葉が当初は、××な作品 opera hogehoge という限定付きで使われる用例からはじまったように、ariaも、aria fugafuga というような限定付きでの用例で使い始められたようです。語るように歌うモノディのなかから、ある特徴的な型・様式で隆起したのがariaであった、ということでしょうか。義太夫でも、まさしく「風」という言葉が様式概念として使われるようになっていくことを考えると、イタリアでも日本でも、歌・語りという「息」を操る芸能が、人間の五感に有意に知覚される強度に達した空気の揺らめきである「風」という言葉を、ちょっと違うニュアンスや切り口からであるにしても招き寄せているのは、面白いことだと思います。)

浄瑠璃素人講釈〈上〉 (岩波文庫)

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義太夫節の様式展開

義太夫節の様式展開

義太夫節に「風」の概念があることを知らしめるきっかけになったのが杉山其日庵(=杉山茂丸、夢野久作の父)で、武智鉄二はこの言葉を批評的・理論的に活用した先駆的な人だった、ということになるようです。

その武智鉄二が戦後関西の創作オペラ運動へ参入することになるわけで、彼は、洋楽の専門家ではなかったけれども、歌と語りが交錯するドラマとはどういうものなのか、ということに関して、当時の日本で切実に考えざるを得ない場所にいた希有な人だったということにはなると思います。ここは、音楽・演劇理論的にかなり面白いところだと思うのです。

ともあれ、こんな風にレチタティーヴォ+アリアという作法が確立したときに、オペラでギリシャの神々やローマの英雄たちを演じるdramaticな語り方と、オラトリオで聖書を物語るepicな語り方が、どの時点でどの程度区別されていたのか、それとも、現代の我々によくわからないのと同様に、当時の人たちにもいつしか区別がなくなっていたのか、あるいは、理念的・理論的には区別があるべきとされ続けたけれども、現場でなし崩しに区別がなくなっていたのか。

オラトリオや受難曲をロンドンのヘンデルやライプチヒのバッハで考えるだけでは、彼らのやり方がどの程度ローカルなのか、イタリア等でのやり方を踏まえているのか、というあたりがわからなくて……、

ところが肝心のイタリアでは、当時の出版慣習のせいで、一番知りたい17世紀と18世紀のオペラの非常に多くの作例の楽譜が残っていないようですね。

消えたオペラ譜―楽譜出版にみるオペラ400年史

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判断がつかない以上、可能な限り扱いは慎重であったほうが安全で、私は、「語り物」と「演劇」のレチタティーヴォは、かなりあとまで“同じではない(べきだ)”とされていた可能性を大目に見込んだほうがいいんじゃないかと思うのですが、どうなのでしょう? 古楽のほうでも、おそらくそういう想定で取り組まれているのだろうと思うのですが。

イタリアの詩歌 音楽的な詩、詩的な音楽

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つまり、アリアのような有節形式の詩行の作曲だけでなく、9音節や11音節の多様なリズムの可能性がある詩行をどのように「語る」か、ということも、17世紀や18世紀の作曲家にとって、単なる「歌のつなぎ」以上の意義があり続けたのではないか、言い換えれば、イタリア・オペラが本当に「歌重視」の芸能であった、と決めつけて良いのか、慎重であったほうがよくはないか、と思うのです。

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そう考えないと、グルックのオペラ改革の意義の見積りが難しく、ひいては、グルックを精神的な「父」と崇めるドイツ・オペラのワーグナーへ至る系譜をドイツ人が身びいきする論調を相対化できなくなると思うのですよね。ドイツ語を舞台上でどのように「語る」か、を模索したウェーバーからワーグナーへの系譜は、ドイツのオペラにとって、大事なことだったとは思いますが、ルネサンス以来の詩の伝統があるイタリアで、舞台上の「語り」は、ほんとうにそれほどいいかげんなものだったのかどうか。

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で、そういうことを考えるときに、(別に比較が可能だ、というつもりはないですが)日本の文芸と芸能の歴史は、いろいろ参考になりそうな事例の宝庫だと思うのですね。

小林秀雄の恵み

小林秀雄の恵み

平安朝の歌物語というのがあって(橋本治の説では、源氏物語も登場人物が相聞歌においてのみ肉声を語る「歌物語」だ、とのことですが)、

本居宣長にとって「歌」というものがなんであったのかという問題はさておいて、『源氏物語』に於ける「歌」がなんなのかは、簡単に分かる。『源氏物語』に登場する作中人物達の詠む和歌は、作中人物達の「会話」であり「生の声」である。(橋本治『小林秀雄の恵み』、新潮社、2007年、22頁)

登場人物達の「生の声」は、作中歌にしか聞かれない。なぜかと言えば、『源氏物語』は、作中人物に対して作者が敬語を使う物語だからである。

作者から敬語を奉られる作中人物達は、ヴェールの向こうにいる。敬語の度合いが高まれば高まるほど、読者あるいは作者と、作中人物を隔てるヴェールは厚くなる。[……]そのヴェールを越えて聞こえて来る「生の声」は、ただ一つ和歌であり、『源氏物語』の作中歌は、間接話法で貫かれる文章の中に登場する、唯一の直接話法なのである。(同、27-28頁)

能楽(謡曲)にも、和歌や七五調が独特のリズムで編み込まれていますし、能の「ノリ」は、五七五は4/4拍子だ、という松下眞一や最近では吉松隆が言い張っている俗説とは全然別物。平曲から浄瑠璃の語り物が、楽器を琵琶から三味線に置き換える大きな変化を経ながら近世へ続いて、それが演劇に取り込まれたり……。「歌」と「語り」を考える材料が本当にたくさんある、と思います。

そういうことに、わたくしが興味を持ち始めたきっかけは、大正から昭和初期の大阪の旦那衆の義太夫ブームのなかで、武智鉄二が異様な情熱で豊竹山城小掾の語りを聞き込むところから演劇へのめり込んでいったことをちゃんと理解したいと思ったからですが、

二世豊竹古靱太夫(山城少掾)義太夫名演集(DVD付)

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芸十夜

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三味線音楽というのも、楽器・器楽としてのプレイ&サウンドの面白さより、「歌」や「語り」の併奏者としてのあれこれが、私には、それこそ「奥深く」思われるんですよね。

そしてこのあたりは、西洋音楽のピアノ演奏も、一番面白いのは独奏ではなく、リートやコレペティなどの「伴奏法」なのではないか、と昔から思っているのと同質で、一人遊びより、協同作業を音楽に期待してしまう私個人のバイアスがあるかもしれません。

歌手の傍らでソング・ブックをその場で移調しながら弾くおじいちゃんとか、劇場に何十年も住みついていてオペラを知り尽くしたコレペティさんとか、なんか、そういうのに憧れます。

(インストルメンタルというのが、凄い演奏はもちろん凄いわけですが、どこかしら自閉的な一人遊びに傾きがちであることは否めず、そればっかりだと息が詰まる感じがするんですよね……。で、色々調べてみると、18世紀以前のヨーロッパの音楽は器楽偏重ではなかったことがわかって、わたしは本当に救われる思いがしました。

「絶対音楽」という閉じた世界への志向が強い理念を標榜するとされる西洋藝術音楽は、民族音楽学の相対主義や、カルスタの知識人批判・教養主義批判という「外圧」で、外側から無理矢理に壁をぶち破るような乱暴狼藉をしなくても、落ち着いて歴史を調べたら、ちゃんと内側から外へ出る「出口」がある。学生の頃、『絶対音楽の理念』という本を読んでもの凄く感動したのは、少なくとも私にとっては、これが「絶対音楽」を顕彰する本ではなく、そういう窮屈な考え方の「外」への抜け出し方のヒントに見えたからだと思います。今もこの考えは変わっていません。

聴衆の誕生 ポスト・モダン時代の音楽文化

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だからそのあとで『聴衆の誕生』を読んだときには、外側から鍵をこじあけなければ「出口なし」であるかのような幻影にとらわれた古くさい態度を無理矢理目新しく見せようとしている気がして、これではちょっと……、と思ったのでした。(この本は「新しい聴衆」が出現したぞ、といって、古くさい教養主義を脅迫する書き方になっています、渡辺裕の本は、いつでもそういう風に、読者へ新動向を「告げ口」するスタイルですよね。「新しい聴衆」が来たぞ、の部分が、「音楽は人間的なふりをしているけれど、実は機械だぞ」とか「大阪の少女歌劇をバカにしてると大衆を理解できないぞ」になり、「一緒に歌わないと国民にはなれないぞ」に置換されるだけで……。先日、『聴衆の誕生』のあとがきを読み直したら、『歌う国民』のあとがきとほとんど同じ文章が出てきて、びっくりしました。ポストモダンの素晴らしき永劫回帰なのか、堂々巡りなのか。^^;;)

すぐそこに出口があって、鍵は開いているのに、それを見ないようにして七転八倒するのは、どういう倒錯プレイなのだろう、という疑問が、西洋近代器楽にはつきまとうんですよね。)

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岡田暁生は、近代人は嵐の中で船のマストに縛り付けられたオルフェウスだ、と謳いあげるわけですが、その縄には結び目があって、ちゃんとほどけるようになっていると私は思います。私たちは、オルフェウスというよりも、ジョニー・デップのスパロウ船長なのではないか、と思うわけです。
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