去年のクリスマス・イヴはアドルノ、ベンヤミン総ざらえをやったので(http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20101225/p1)、今年は「46歳からはじめる分析哲学」(笑)でどうか、と思っていたのですが、昨年6月の明治学院大での武智鉄二シンポジウムがようやく本になって出たので、こっちにします。
表紙は、実験工房の「月に憑かれたピエロ」ですね。http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20110122/p1
- 作者: 小田幸子,西澤晴美,児玉竜一,志村三代子,権藤芳一,中村富十郎,茂山千之丞,笠井賢一,坂田藤十郎,川口小枝,岡本章,四方田犬彦
- 出版社/メーカー: 作品社
- 発売日: 2011/12/23
- メディア: 単行本
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このシンポジウムのことは、終わったあとで森彰英『武智鉄二という藝術』が出てから知ったような次第でしたが、
- 作者: 森彰英
- 出版社/メーカー: 水曜社
- 発売日: 2010/12/25
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中村富十郎さん、茂山千之丞さんのコメントは、いずれもこのあと亡くなったので貴重な遺言というべきものだと思いますし、シンポジウム後の追加で、坂田藤十郎さんと、武智鉄二の三人目の妻・川口秀子の長女・小枝さんのインタビューが収録されています。
シンポジウムの事前告知だけ読むと、
武智鉄二氏は、青年期から伝統演劇に親しみ、活発な評論活動を行って劇界に衝撃を与えるとともに、戦後、能・狂言・歌舞伎の前衛的な演出に挑戦し、古典の現代への再生を達成。その後、映画の製作、監督にも取り組み、検閲問題をめぐって映倫と対立するなど、数々の問題作を発表しました。
今回のシンポジウムの開催により、日本の演劇、映画界の巨人とも言える横断的な営為の全貌が浮き彫りになり、さらにはその一貫した前衛性と反権力の姿勢が、多面的に捉え返されるはずです。また武智氏と交流があり、共同作業を重ねられた歌舞伎俳優中村富十郎氏、狂言役者茂山千之丞氏をお招きして、壇上で貴重な思い出を語っていただきます。
「一貫した前衛性と反権力」とか、富十郎さんや千之丞さんを「共同作業を重ねられた」と形容する語感に微妙な違和感があり、大丈夫だったのかなあ、と思っていたのですが、出来上がった本の四方田犬彦のあとがきは、残された映画だけ観て、「ちょっとチープなアヴァンギャルドの人」と即断しているわけではないトーンだったので、ほっとしました。
2007〜2008年に「美の改革者 武智鉄二」と銘打って映画が一挙上映され、その後DVDが出たりして、たしかに60年代以後に生まれ育った人間にとって、武智鉄二は愛染恭子のホンバン映画の人だったのは否定できず、まずは、そのイメージをとっかかりにして掘り起こすしかなかったのだろうと思います。(私も、こういうの→http://www3.osk.3web.ne.jp/~tsiraisi/musicology/article/takechi-tetsuji200803.html を書いていた調べはじめの頃は、いかがわしげな人だけれど、大丈夫なのか、と半信半疑で、そのいかがわしげな感じを面白がりたいところがあったような気がします。)
でも、実際にシンポジウムをやって、富十郎さんや千之丞さんや権藤芳一先生がその場にいて、話をして、客席にも関係者が顔を揃えて、そういう体験があって、そのアヴァンギャルドな感じの向こう側にあるものが、単なるお題目でなく見えてきたから、こういうしっかりした本になったのではなかろうか、と思いました。
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以前、いずみホールで「隅田川」とブリテン「カーリュー・リヴァー」(岩田達宗演出)の二本立てをやったことがあって、同時に聞き比べられるのは面白いに違いないと思って行ってみたら、もう、前半の「隅田川」が圧倒的に凄くて、ブリテンがかすんでしまったんですよね。
そのときのシテは観世銕之丞さんでした。
http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20111120/p1
たぶん、今年の東京文化会館の「古事記」で語り部に銕之丞さんが起用されたのは、演出の岩田さんに、「隅田川」の記憶があったからではないかと思います。
あの声と所作(武智鉄二や今回の本で藤十郎さんが使っている言葉で言えば「息を詰めた」古典の藝)は、ちょっとやそっとのことでは吹き飛ばされてしまいそうな存在感があるんですよね。井上八千代の上方舞であったり、豊竹山城小掾であったり、武智鉄二の原点はそこで、アヴァンギャルドをやるときにも、いわば藝術の「丹田」に息を詰めるような姿勢があったのではなかろうか、と思うのです。
美術や前衛劇や映画から入っても、しばらく見ていると、ああ、そこか、と気づかざるを得ないし、武智鉄二の話はそこから、なのでしょうね。
藤十郎 私らは義太夫を語るんじゃなくて、芝居するほうですけどね。でも、息を詰めるというのは、発声のときに大事ですからね。息が詰んでないと、大きなだけの声になったり、浮くんですよね。(320-321頁)
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日本のオペラの歴史を書こうとすると、関西歌劇団や日本オペラ協会で、どうしても武智鉄二の名前が出てこざるを得ないわけですが、オペラの側から眺めているだけだと、やっぱり、なかなか捉えにくいようで、曾根崎心中を武智鉄二が演出したと勘違いしてしまったり、「歌舞伎調オペラ」とか言ってしまったりすることになったりして……。
歌舞伎といっても、團十郎の荒事とか、山田耕筰がアプローチしたような江戸長唄とはスタイルが違うものがあり、
山田耕筰:長唄交響曲「鶴亀」/交響曲「明治頌歌」/舞踊交響曲「マグダラのマリア」
- アーティスト: 山田耕筰,湯浅卓雄,東京都交響楽団
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武智鉄二は、そっちのほうが歌舞伎の基礎・原点だったと考えていたようです。で、そうした、彼(とその周辺)が原点と信じた「息」の話をしているわけで……。
関西歌劇団の皆さんは、「お蝶夫人」や「修禅寺物語」を演じるために、ちょうどこの本で藤十郎さんが桜間金太郎から教わったように、ただひたすら歩く(腰がすわるように)、というのをやったそうです。
そしてこれは、秘伝とか、門外不出の一子相伝とか、まして、「関西人でなければわからない血」とかいう話ではない。(ひょっとすると、「創られた関西人の心?」ではあるかもしれませんが、閉鎖的に囲い込む意志はない話であるようです。)
武智鉄二の主な著作は全集にまとめられていますが、そこにはちゃんとオペラ演出に関する文章も入っていて、なにをどうやったのか、やろうとしたのか、ということを整然と述べています。事実関係には、調べずに記憶で書く人らしいので、色々不整合はあるかもしれませんが、おおよその方向性や勘所は、読めばわかるようになっています。
美術の人も演劇の人も映画の人も、手順を踏んでアプローチすることで、そのあたりの武智鉄二を捉える土台みたいなところについては、共通認識にたどりつきつつあるような気がします。
息が詰んでないと、大きなだけの声になったり、浮くんですよね。
どーして、音楽(オペラ)の人(だけ)は、関西の話をするときに浮き足立ってしまうのか。東京のオペラ好きは、太棹をデンと打つ義太夫狂言をお気に召さず、古典芸能というより近世邦楽、清元とか、そういう「粋」のほうへ行ってしまうということでしょうか。
言葉では「歌舞伎」と言いつつ、具体的にイメージしているのは新派の清元だったりする、ということが案外あるのかもしれませんね。そういう泉鏡花が似合いそうなイメージを、「夫婦善哉」などに出てくる義太夫の唸り声へ補正していただくと、武智鉄二やその背景をつかみやすくなるんじゃないでしょうか。
渡辺保先生もあとがきで絶賛ですが、戸板康二と武智鉄二の関係というか立場は微妙にズレるところもあるのかなあ、とこの本を読みながら思うところもありました。
- 作者: 戸板康二
- 出版社/メーカー: 講談社
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戸板康二は、義太夫の丸本(院本)を土台にしながら、人間が演じる歌舞伎ならではの工夫がそこへ積み重なっている現行のスタイルを丸ごと肯定する立場(結果的には現行の歌舞伎に寄りそう立場)で、武智鉄二は、現行のあまりにも役者の仕勝手が積み上がりすぎている歌舞伎を再検討して、人形浄瑠璃のほうがむしろ優勢で、さらにそれ以前の狂言などから継承したものが色濃く残っていたスタイルを歌舞伎の「原形」と想定して、その姿を見てみたい、と欲望する人だったような気がします。井上八千代や豊竹山城小掾に心酔しつつ、西洋音楽の新古典主義や新即物主義をレコード収集で同時代の藝術思潮として会得した人が、日本の芸能にも一種の「古典」があったはずだと想定して、そこを「丹田」にして、演出や批評を組み立てようとしたのではないかと思います。
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来年2012年は大栗裕の没後30年で、武智鉄二の生誕百年ですね。