英国大学教員ニコラス・クックと当世音楽学院生気質(足立美比古訳『音楽・想像・文化』)

[最後に追記あり。]

『ピアノ・ノート』が好評だったせいか、チャールズ・ローゼンの本が次々訳されていますが、ロスの20世紀音楽史、コッホのバッハ、ロックウッドのベートーヴェンなど、最近目につく本格派っぽいクラシック音楽本は「合衆国製」が多くて、なんだか、ラトビア出身のユダヤ人アレクサンダー・ストローク(1877-1956)が北米から有名ソリストを次々日本へ送り込んでいた昭和前期に逆戻りしたかのようですね……。

こんな風になる前から、一部音楽学者の間で「人気」があったらしいニコラス・クックという英国の大学教員(音楽学者?)について、です。

音楽 想像 文化

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●どんな本か?

『音楽・想像・文化』の原著は1990年刊行。2年後には足立美比古の訳が春秋社から出ています。

音楽分析における「音楽学的な聴取」と「音楽的な聴取」、演奏・聴取におけるリアルな知覚と「想像的な知覚」、作曲における「内なる耳」と「外なる耳」といったキーワードを使いながら、音楽を、一方の規範や理念(「大陸のドグマ」として英国の経験論では懐疑されると通俗的に言い習わされているような)と、五感で知覚される世界像(自然科学的・認知心理学的な)の間に「想像」される「文化」として定位するのが、この本のストーリーということになるかと思います。

本の趣旨は、この手の書物を書くとしたら大抵ここへ落ち着くだろうと思うような、穏健で常識的なものです。

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ヘンリー8世とアン・ブーリン(ドニゼッティの「アンナ・ボレンナ」ですね)の結婚を認めない(前妻との離婚を承認しない)トマス・モア。カトリックの神を背景にしつつ、これこそがアングロ・サクソンのコモン・センスの原点ということになるのでしょうか。

●誰が読んだのか?

でも、この本は「中庸のコモン・センス」で読まれたわけではなかったように思われます。

本書にはこれとこれとこれが流れ込んでいる、と解題する訳者の足立美比古先生は、ご自身も博覧強記なところがあり、いわゆる「ポストモダン」のデータベース的な読解の欲望を存分に満足させてくれる書物として、原著に惚れ込んでいらっしゃったようです。

(同じ頃、ドイツ文学の杉橋陽一先生が、ダールハウスこそアドルノの真の後継者だと思いこんで翻訳に力を入れていたのに似た感触があります。)

また、当時、これから音楽学で学位を取ろうとして研究テーマを探している院生たちの間でしばしば彼の名前が出たのは、レコードの音響をコンマ何秒の単位で計測したデータにもとづく演奏論、あるいは、認知心理学の数々の成果といったものを論述に織り込んでいたからではないかと思います。新しいことをやりたい日本の音楽学の若手さんにとって、ニコラス・クックは、対象をクールに処理する目新しい手法に理解がある、いわば「話の分かる学者」と思われ、歓迎されたようです。

この人の論述の大枠は常識的ですが、緩やかな連想でつなぐようにして具体例を次から次へと投入する饒舌な文体であることも、「散漫な聴取」こそがクールなんだ、と言いたかった当時の若手さんには、好ましく思えたのかもしれませんね。

ニコラス・クックは、ちょうど英国製カルト映画がアート系シアターで支持されるようにして、1990年代の日本の音楽学院生というニッチな層に熱心に読まれていたわけです。

●文脈から突出する細部への「萌え」

「ポストモダン」なデータベース消費、レコード演奏の計測、「散漫な聴取」など、ニコラス・クックの読者層は、渡辺裕に随伴する層とぴったり重なります。阪大音楽学の渡辺ゼミでニコラス・クックを講読する様子は、傍目には、なんだかファミコン・ゲームに耽溺しているかのようでした。ある種の人たちにとって、この人は「懐かしき青春の日々」であるようです。

ニコラス・クックを「話の分かる人」だと思いこむことができたのは、ある学説を俎上にのせることと、その学説に同意し、その学説に依拠することを曖昧に混同していたからであるように想われます。

実際には、あれこれ新奇な手法が紹介され、彼自身も色々なことをやってみせるわけですが、読み進めると、紆余曲折あって、それだけでは上手くいかないということになって次に移ることがしばしばです。

でも、ニコラス・クックを「好き」な人たちは、そういう論述の文脈にはあまり関心がなく、レコードの計測とか、曖昧な記憶のままにピアノをまさぐった結果の採譜といった新奇かもしれない手法が出てきたら、それだけで嬉しいらしい。まあ、こういう楽しみ方もまた、1990年代風だったわけですが……。マーラーはホルンのベル・アップをスコアに指定しているぞ、とか、○○のCDでは金槌を3回叩く、とか、今度はユーフォニウムとマンドリンだ、とか。

そして、書物の全体の構成が穏健で常識的なことは、そうしたディテールへの関心に後ろ指を差されないための隠れ蓑になっている。自室に籠もって、受験勉強をしている体裁で、参考書の下に隠したマンガを読みふける、みたいな構図になっていたようです。

●文献参照への違和感

上述の阪大渡辺裕ゼミでは、『音楽・想像・文化』の次に出たベートーヴェンの「第九」論(1993年)の最初のほうを読んでいましたが、そのときには、たとえばいわゆる「自律美学」の話題で、ハンスリックの名前が出て、そのあとは、次から次でとイギリスの論者のオンパレードだったことに閉口した記憶があります。ベートーヴェンがロンドンに縁があったことは確かだけれども、そういう本筋の伏線というわけでもなく、単に「自律美学」とはどういうもので、それが、いかに影響力があったかを例証する脇筋なので、読書効率を考えればさっと読み流して次へすすみたいところだし、それで大勢に影響はないはずなのに、そこで講読が停滞してしまったりするわけです。

同じようなことは、『音楽・想像・文化』でも起こります。例証に、やたらとイギリス人やアメリカ人が出てきます。(例えばこの本を読んでいると、20世紀の信頼に足るチェンバロ奏者は、カーク・パトリックただひとりだったのか、と錯覚しそうになる(←言葉の綾、錯覚しませんけど)。)

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パリでナディア・ブーランジェに学ぶとともにランドフスカ、ドルメッチに師事してチェンバロの道へ。スカルラッティの「K.」番号の人ですが、有名な研究書と普及版楽譜「60のソナタ集」の刊行と平行して録音した本人の演奏は……、ランドフスカの弟子で「モダン・チェンバロ」のスタイルに聞こえますね。

Domenico Scarlatti

Domenico Scarlatti

巻末の文献表をみると、文献はすべて英語、もしくは、英語翻訳のあるものばかりなんですね。

「第九」論の最初のほうをちょっとだけ読んだ感触でも、素性のはっきりした資料へ遡って歴史的な考証をするという手続きにはこだわりの薄い人であることが推察されますが、それでも、シェンカーの、英訳が存在しないベートーヴェンの後期イ長調ソナタ分析を文献表に挙げているので、英語文献だけですべてをまかなっているわけではなさそうです。(ケンブリッジの教授が母国語以外はまったく読めない、というのは、日本の国文学者じゃあるまいし、考えにくい。)

どうやら、『音楽・想像・文化』は研究書というより啓蒙書として綴られており、啓蒙書では母国語以外の書物への参照を避ける、というような配慮が働いているような気がします。(この配慮が著者個人のポリシーなのか、出版社の編集方針なのか、英国では一般的な出版慣習なのか、私にはよくわかりませんが。)

例えばやたらとカーク・パトリックが出てくるのは、著者が彼を評価しているというより(評価していないわけではないでしょうけれども)、例証の素材を母国語文献に求めた結果なのではないか。もしかしたら著者は外国語で書かれた別の例を知っていたかもしれないけれども、『音楽・想像・文化』という書物は、そのような他の言語で綴られた事例が参照されることのない「島国的」な製品として製作されているのではないか、と思うのです。

楽譜の風景 (岩波新書 黄版 250)

楽譜の風景 (岩波新書 黄版 250)

ニコラス・クックがカーク・パトリックを何度も引用するのを読んでいると、ひと頃の日本の音楽学者が、いわゆる「読者への親しみやすさ」への配慮から、まるで彼の発言が洋楽演奏家の代表ででもあるかのように、岩城宏之の「フォトグラフ的暗譜」等々のエピソード(音楽家は他人をもてなすのが商売ですから、たいていこういう「ネタ」を持っている)をやたら引用していたのを思い出します。)

そしてこの本における文献参照にこの書物の「商品としての設計思想」を読み取るのが妥当だとしたら、私たちはさらに先へ進んで、この本のそもそもの構成、筋立てについても、同様の制約が働いている可能性を想定するべきではないか。シェンカー理論や認知心理学の成果への検討に多くの紙数が費やされて、足立先生の見立てによると、英国の想像力論の系譜に連なる議論がそこへ組み合わされていることになるらしいのですが、そのような話題・文脈・系譜の選択は、「著者の思想」であったり「著者の関心の反映」であると見なすことが本当にできるのかどうか。これらは、著者個人の思想や関心を取り囲み、飲みこむようにして英語で流通している一般的な言説であるという理由で選択されているだけのことではないか、と思うのです。

ワイドショウなどの穴埋め企画として、いわゆる「一流シェフ」が一般家庭に抜き打ちで訪問して、冷蔵庫のありものだけでアイデア料理を作ってみせる、みたいなのがありますが、ニコラス・クックを読んでいると、そういう企画を連想してしまいます。そのようなワイドショウ企画は、フレンチのシェフがお醤油とニボシを使って、あら不思議、おしゃれなヌーヴェル・キュイジーヌ風の魚介スープを作ったりすると番組が盛り上がるわけですが、ニコラス・クックがシェンカー理論や認知心理学をさばく手つきはそういうのに似ている気がします。フレンチのシェフは、確かにお醤油とニボシを使っているけれど、冷蔵庫の食材だけを使うのはこの番組のルールであって、彼がお醤油やニボシを食材としてどの程度評価しているかどうかということは、この企画だけではわからない。ニコラス・クックの啓蒙書も、英語で流通している議論を次から次へと俎上にのせますが、そこから著者の関心がどこにあるか、ということをうかがい知ることはできません。(この配慮・原則が著者個人のポリシーなのか、出版社の編集方針なのか、英国では一般的な出版慣習なのか、書物だかから判別することはできないからです。)

ニコラス・クックを「好き」だと公言する人がいたりするのですが、その人たちが「好き」なのは、このアクロバティックな「料理」の手さばきのほうなのか(Nicholas Cook、今気づきましたが、彼の名字は「料理」なんですね(笑))、それとも、実は彼らの関心事はむしろお醤油やニボシが冷蔵庫にあるというドメスティックな現実のほうであって、クックの書物に英語圏読者層の(認知心理学やシェンカー理論に目移りする)ドメスティックな好奇心が回収されているのを目の当たりにすることで、自分自身の雑多な好奇心が承認される可能性が開けたかのような幻想を抱いたのではないか。ニコラス・クックへの傾倒には、著者の手さばきへの関心と、想像的な自己承認欲求の両方が混ざっていたのではないか、という気がします。

●英国から日本へ

最後に、これは若干の話の飛躍と私の推測を含みますが、

単に個々の細部に「萌える」のではなく、ドメスティックな議論と好奇心だけを「食材」として、それを裁く手つきの冴えに自らの知性を賭ける態度をニコラス・クックから感得することができた人は、「クックは素晴らしい」と言い募るだけでなく、自分自身の環境でクックのようにやってみよう、と考えたのではないか。ひょっとすると、クックの書き方は、日本人読者へ向けて、日本語の資料・文献だけを使って音楽を論じる「ゲーム」の誘因になったのではないか、とも思われます。

渡辺裕の指導下で、阪大から、伊澤修二を論じる奥中康人が出て、東大から、演歌を論じる輪島裕介が出て、この二人は渡辺裕が選考委員に入っているサントリー学芸賞をもらったわけですが、改めて考えてみると、彼らの受賞作は、いずれも、上で素描したゲーム(日本人読者へ向けて、日本語の資料・文献だけを使って音楽を論じるべし)のお手本のような仕事かもしれません。

渡辺裕自身は、宝塚歌劇を素材として、「日本人読者へ向けて、日本語の資料・文献だけを使って音楽を論じる」研究で東大の学位を取ろうとして果たせず、

宝塚歌劇の変容と日本近代

宝塚歌劇の変容と日本近代

結局、ドイツへ1年行ってまとめたベートーヴェンの演奏論を東大へ提出したわけですが、

西洋音楽演奏史論序説―ベートーヴェン ピアノ・ソナタの演奏史研究

西洋音楽演奏史論序説―ベートーヴェン ピアノ・ソナタの演奏史研究

自分が果たせなかった夢を二人の弟子が実行した形になっていて、だからこの二人をプッシュした。そのように観測することはできないでしょうか。(ご本人も、遅ればせながら「歌う国民」で芸術選奨を得ていますし。)

国家と音楽 伊澤修二がめざした日本近代

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創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史 (光文社新書)

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歌う国民―唱歌、校歌、うたごえ (中公新書)

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●まとめ

サントリー学芸賞を輪島さんと同時受賞した大和田さんのほうはアメリカに滞在したときの成果を反映した著作になっていて、分野が違うので一概に比較しても仕方がないかもしれませんが、

アメリカ音楽史 ミンストレル・ショウ、ブルースからヒップホップまで (講談社選書メチエ)

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「偽装」という喚起的なキーワードを案出しているところや安定した構成・記述など、書物としての仕上がりは、大和田さんのほうが上だと思います。マスコミ的な反響はともかく、内容的には、輪島本には「次点」感があり、だからこそ、そうまでして入賞……?という感じが残ってしまったわけですけれども、それはともかく、

英米人がどういう風土で書物を製作しているかは知りませんが、テーマや対象によって、「日本人読者へ向けて、日本語の資料・文献だけを使って音楽を論じる」という手法が成功する場合もあるし、多種多様なソースと言語が入り混じるやり方でのみ究明できる課題もある。母国語に素材を限定することが、かえって窮屈で不自由な足かせになる場合もあるし、多言語ソースを駆使することが、読者にとって、ペダンティックで見通しの難しい障壁になる場合もある。これはもう、ケース・バイ・ケースと言うしかない。

ニコラス・クックは、与えられた条件・環境で上手に振る舞い、良識のあるところへ着地している人だとは思いますが、そこまで特別扱いして称讃し、熱狂し、萌える対象なのかどうか……。

ニコラス・クックを英米音楽書ブームの先駆けにして典型、という風に見ることはできないかもしれませんが、少なくとも、この人に対する私の感想は以上です。

[追記]

先にも述べたように、ニコラス・クックの書物が「英語圏の読者へ向けて、英語の資料・文献だけを使って音楽を論じる」という形で製品化されているのが何故なのか、その背景が私にはよくわかりません。(著者のポリシーなのか、出版社の編集方針なのか、英国出版界の通例なのか……。)

でも、現在の日本の若い知識人予備軍が、その日本版をやりたい、と思う欲望は、わからないことではないような気がします。

学問を離れて、マス・メディアに流通する言説に目を向けると、海の外の言語や文化がナマで露出しないように丁寧にフィルタリングして、あたかも日本の言説と文化が自給自足できるかのような配慮がゆきとどいています。この環境が「私たちの国」であり、ここに安住することを当たり前に信じて育ってきた子供たちにとって、国内では誰も使っていない言語を習得したり、肌の色や文化・風習が違う人たちのことをあれこれ考えるのは面倒だし、場合によれば、そんなことは不快であったり、恐ろしかったりするのでしょう。必要な「情報」は入ってくる、ことになっていますし……。日常性の哲学とか、メディア研究とか、あるいは、クール・ジャパンな国産文化の称揚というのは、言語/文化的な自給自足の幻想に立てこもることのできる福音に見えるのだと思います。

そしてこれはもしかすると、偏差値による振り分けで隔離されてしまった「普通の人たち」(とエリート予備軍には思える人々)と自分とが「想像上の共同体」の構成員として、つながりを保ち得ているという安心感にもつながるのかもしれません。(それが、東大教授渡辺裕の切望して止まない「歌う国民」であり、「考える耳」の天声人語風の文体なのでしょう。)

とはいえ、英国をモデルにして言語/文化的な自給自足を構想しても、たぶんそれは、太平洋戦争で勝利のシナリオを描くくらいの無理があると思います。

英国の大学人が英語文献だけを参照する倒錯したゲームでそれなりに穏健な地点に着地できるのは膨大な翻訳の蓄積があるからだし、そのように膨大な翻訳の蓄積があるのは、かつて植民地だった北米をはじめとして、大英帝国の遺産で、自国の外部に英語文献を生産する国や地域が広大に存在するからだと思います。広大な配下を擁する文化的宗主国である恩恵をそしらぬ素振りで受け入れながら実現しているのが、英国大学人の「自給自足ぶりっこ」だと思います。ニコラス・クックはケンブリッジの人ですが、一時、香港大学にも赴任したらしい。大英帝国は健在。階級社会のエスタブリッシュメントはこうでなくっちゃいけません。(^^)

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でも、日本は、外国文化を翻訳して受け入れてきた蓄積があるとはいっても、英語圏におけるほどぶ厚いものではないですし、自国の伝統とひとまず見えているものも、ちょっと掘れば、すぐに日本海の向こうの大陸や東シナ海の南の島や太平洋の反対側からの影響が見えてきます。そういう底の浅さが露呈しない範囲で「自給自足ぶりっこ」をやろうとすると、1960年代以後の半世紀に視界を限定するしかない。「伝統の創成」や「想像の共同体」という枠組みが、(ナショナリズム批判という新左翼的な動機付けと切り離して)執拗に反復されているのは、北米流の「近代化」の傘の下にいた1960年代以後の薄い皮膜のようなところから業績を吸い出すのに便利だからだと思いますが、資源は無尽蔵ではないですし、はたして、このような吸い出し作業がいつまで続けられるのかどうか。

参考:http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20111217/p1

(クール・ジャパンの掛け声は、この資源を継承しつつ拡大再生産する目論見なんですよね、たぶん。

どこかしら文化の大東亜共栄圏を思わせるこの構想は、昭和中期の軍事侵略(この過程で東洋音楽学会が出来た)と、昭和後期の経済進出(これにあわせて文化人類学が栄えた)に続く三度目の挑戦と言えるかと思いますが、どこまで有望なのかどうか。三度目の正直なのか、二度あることが三度あったりするのではないか、と心配になるわけですが、雑多なものを取り込んでまとまりのあるパッケージを作るインターフェイスがキモだから、知覚・認知・感性から参与する余地があるというのは、わからないではない気がします。

が、この手の大規模プロジェクトは、失敗しようが成功しようが、「大本営」の偉い方々には責任追及の手が及ばないものである、ということを私たちは過去の経験から学んでおりますので、よほどせっぱ詰まるまでは手を出したくないと思わざるを得ませんよね……。)

一方、「21世紀は英語の世紀だ」という経済アナリスト風の掛け声は、言語/文化の輸入元を英語一本に絞って、国内向けのフィルタリングを効率化しようということで、畢竟、21世紀版の「長崎出島」大作戦なのだと思います。

最初に述べたような英米音楽書の流行は、個々の書物にはそれなりの良さがあるとは思いますけれど、英語圏こそが私たちの命綱、とばかりにすがりつくようで、ちょっと哀しい感じがしますし、

大和田さんの『アメリカ音楽史』が最後にヒスパニック、ラテン系音楽文化の無視できない「影」を指摘していたり、輪島さんが実はもともとブラジル音楽をやっていた人だったり、というように、表向きの「英語・北米」一本化の掛け声の裏で、別の回路に保険をかけておいたほうがよさそうな気配も感じられます。

インテリの皆さんが、表向きは英語文献を翻訳した日本語言説/文化の自給自足を言いつつ、その裏で、こっそり自分だけまんまと逃げられる準備をする、というような陰惨な「裏切り」がなされないことを願うばかりです。