古典音楽を学んで普通に良かったと思うのは……

音楽形式学で、発展と並列、すなわち、論理的首尾一貫性とバランス感覚という好対照な2つの原理がある、と書いてあるのを読んだとき。

(唐突にこういう話を何故書くか。内容としては前にも何度か書いた気がする話ですし、「人間がむしゃらなだけでなくバランスが普通に大事、今更何を」という方や、「普通に良かった」「普通に大事」という日本語の乱れが普通に気にならない方は、普通に放置(笑)してくださいませ。普通が普通に重要だという普通に普通の話をしているに過ぎないということで。m(_ _)m)

発展とか論理的首尾一貫性は、だいたいわかりますよね。ベートーヴェンの交響曲第5番の第1楽章における主題の統一とか、ワーグナーの楽劇におけるライトモティーフ、とか、シェーンベルクの発展的変奏とか、近代ドイツ音楽の近代ドイツ音楽たる所以とされる技法のことです。(『主題発展の時代 Zeitalter der thematischen Entwicklung』という、タイトルを見るだけで何をどう論じているのか、だいたいの内容がわかってしまうハードな研究書もありましたが。)

ブラームス:交響曲全集

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曲目解説では、ブラームスをまとめて書く機会はめったにないので、楽曲分析のスケッチのようなことだけをひたすら書きましたが、どうだったでしょうか……。動機労作という作曲技法史におけるブラームスの位置を見極めつつ、そこに回収できないところまで突き抜けるとしたら、ああいうコメントになるんじゃないかと思ったのですが。

並列というのは、ロンド(ABACAD....A)とかメドレーとかを面白く作るセンス、統一ではなく多様性をうまく塩梅するコツみたいなもののことです。ロンドとかメドレーは、途中でパターンが読めると飽きられてしまいますし、そうかといって、やりすぎるとあざとくなるし、さっと目先を変える呼吸、匙加減が大事。

あと、発展や論理的首尾一貫性は、全力で全方位的に綿密にやればやるほど価値が高いとするガンバリズムと親和的ですが(ブラームスの第3ソナタとか第1交響曲とか初期のシェーンベルクとか……あとワーグナーは和声の発想自体を変えてしまって声部進行の自由度を通常の調性音楽より格段に高めているのでやや反則かも)、一方、並列・バランスの妙味はホドホドであること、力を入れるところと抜くところの塩梅が大切ってなことになるのだと思います。

たとえば、ここはメロディーを聴かせよう、と思うところではハーモニーやリズムの情報量を少なくしておいたほうが効果的で、せっかくの素敵なメロディーも、凝りに凝った和声進行とかを入れてしまうと、お互いの効果を打ち消し合ってしまうかもしれない。味の濃い料理ばっかりが続くと、途中で味覚が飽和してしまうから、「手抜き」ではない、良い意味での箸休めが必要なんですよね。

概して、モーツァルトとかショパンとかドビュッシーとか、そういう系統の人はこっちが巧妙で……、

モーツァルト:交響曲 第38番-41番

モーツァルト:交響曲 第38番-41番

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モーツァルトは隙間なくびっしり音楽が詰まっているので、何曲も続けられると私は聴き疲れしてしまうのですが、でも、あの疲労感はモチーフを加工する頭脳労働の疲労とは質が違うと思う。

ひとつのテーマを中心に据えるタイプの音楽でも、変奏曲というのは、ソナタの展開部などと違って、どういうヴァリエーションをどう並べると面白いか、というのは、並列・バランスのセンスが問われるところだろうと思います。

ベートーヴェン:変奏曲集(紙ジャケット仕様)

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ベートーヴェンだって、ハ短調の32の変奏曲みたいに一直線に突き進む曲もあれば、op.34のように多彩なキャラクターが「並んでいる」曲もある。好き嫌いで言うと、ベートーヴェンの音楽のなかで私が一番好きなのは、このF-durの変奏曲かもしれません。そしてグールドの演奏が素晴らしい。

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音楽論でも、ガンバリズムで押し切ろうとする失敗例というのは結構あるもので、ABAの三部分形式で、AとBとの対比を何らかの辻褄として説明できないものかと知恵を絞って黄金比とか言い出したり、ABACAD....というようなロンドのエピソード(B、C、D....)の部分に関連性を見つけ出そうとこじつけてしまったりするわけですが(シェンカーやレティはそこが理論としてダメなところだと思う)、

つながらないものはつながらないし、つながらないから面白いということがある。

ショパン:ワルツ集

ショパン:ワルツ集

いつも「並列」の話をするときに例に出すのですけれど、ショパンのワルツは小さな16小節とか32小節とかのユニットが巧妙に「並ぶ」構成で、動機の統一・発展では説明できない。サッとシークエンスが切り替わることで音楽の鮮度と輝きが保たれるのだと思います。

そしてガンバリズムな方は、楽曲分析というのは「論理」の解析しかできない、この種の並列やバランスについてはエッセイ的に書くしかないのだと思いこむ傾向があるようで、頭が硬い人に限って、エレガントな音楽に関するフランス系の美文や演奏家の警句を過剰に珍重なさるようですが、

ショパンやドビュッシーの音楽を分析的に語ることは可能だし、現に幾つかそうした業績は存在します。音楽を触る己れの手つきが不器用であることを対象の側へ責任転嫁してはいけない(笑)。だって、ショパンやドビュッシーが分析できないなんていうことになったら、ポップ分析は絶対無理ということになってしまうじゃないですか。それは分析的知性の怠慢だと思います。……と少なくとも私は思うようにしているつもりです。

「濡れないのはお前が不感症だからだ」とか言われたら、女性が可哀想というもので(←その発言は要らない)。

なかには往生際の悪い人がいて、発展と並列の両方を所有したいというわけで、「統一のなかの多様/多様のなかの統一」という格言を持ち出したりしまして、これはもう価値観の問題なので、そういうのが好きな人はそれでいいけれども、世界は広いし、「統一なき多様」が面白いこともある。

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以上のお話の出所は、ドイツのギムナジウムの音楽の教科書(ディーター・デ・ラ・モッテ)。古典音楽には、こんな風に応用の利く知恵がつまっているんだよ、と教えようとしたようですね。

旧西ドイツの「進歩派」の音楽論者は、こんな風にベートーヴェン/ワーグナー崇拝を解毒して、いわば音楽における脱ナチ化をやろうとしていた、ということなのだと思います。

西ドイツは連邦制で各州に権限が委譲されている部分が大きかったし、EUをずっと推進していた国でもあるし、統一と多様性を、「上位レヴェルでの統一などということを言わずに」(←ここが重要)TPOで使い分けようとしていたのかもしれませんね。

ドイツは観念論哲学の国でもあるけれど、バウハウスの国でもある、ということなのかな、と思います。

おフランスのエリートさんのように絢爛たるレトリックにくるまないし、経験の束がヒトの認知限界を超えて増殖するアングロ・サクソン風の粒子化にも、気持ちはわかるけれどもうんざりしてしまう私のようなものには、話をコンパクトな道具箱に収めてしまう感じが合っているようです。

そしてここまでの文章と直接はつながりませんが、「本郷」や「上野」は高台=山の手なんだ、と初めて知って、高いところへ昇る衝動は因果なものなのだなあ、と改めて思いました。普通にバランスを保つノウハウのない人がそんなところへ行ったら、そりゃあストレスが溜まるだろうと。

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