少し前まで「先端的」だったかもしれない人文科学系音楽論のいくつかのキーワード:まとめ

[2013/12/29 「現代文化研究」とオペラ、舞踊の項目を追加、2013/4/17 「音楽とナショナリズム」の項目を追加、2013/1/2 いくつかのリンクを追加]

ほぼ1年にわたって少しずつ「最近の音楽学」の復習をして参りました。まとめです。極私的な動機による復習リハビり期間中に、ブログやtwitterのつぶやきなどで、数々の考えるヒントを提供してくださいました方々に、お一方ずつお名前を挙げることはしませんが、心より感謝します。

(0) 実学としての音楽学

日本の音楽学は、音楽学校が大学制度・音楽家養成・音楽ジャーナリズムの交点で平衡状態を保つべく「創った」場所であるという、自分たちの「足場」を、まずはちゃんと認識すべきだと私は思う。

それなりの理由があって伝承されているスキルとノウハウがあって、これがひとまず基本。ここをちゃんとしていないと、どこかで息切れすることになる。

ただし、これだけでは当座のお金を稼げないことがあったりするので、どこかに付加価値をつけねばならず、とりわけ世間のバブルが弾けたかわりに大学院バブルになった1990年代以後に流行った付加価値・拡大再生産技法の数々が、以下の緒論ということだったのかなあ、とひととおり駆け足で復習して、そう思いました。

参考:

人文科学とは何なのか?:

大学・学校とは何か?:

日本の人文科学は何をやってきたのか?:

(0b) 《作品名》という書式の悪習について

音楽学会(そしておそらく学会誌を当初から編集している音楽之友社)には、作品名を《》で括る、という奇妙なローカルルールに固執して今日に至っています。(0)と関連して、この件については以下をどうぞ。

(1) 複製/再生産技術論、音盤/録音/レコード歌謡

「家具」としてのラジオと蓄音機:

音盤・録音論:

ジャズとレコード歌謡:

歌謡曲とモダン・デザイン:

これはつまり、音楽を運用する数々の新しい技術をめぐる論考だと思います。大事そうです。ただし、

教訓:

  • 調査段階では、20世紀は既に歴史であるということを肝に銘じ、歴史学の基礎に立ち返ったほうがいいのではないか。具体的には、(a) より新しい現象に前のめりで焦点を当ててしまわないこと、(b) より新しい価値観に引きつけてより古い現象を裁いてしまわないこと。
  • 研究成果をアウトプットする際の話者の設定(語り方)は、研究の成否に意外に大きく作用する。「機械好き」という男子の性向、自分たちの「足場」のひとつである音楽産業への過剰な擦り寄りで、話者の語りのバランスが狂わないように気をつけたほうがよさそう。

(1b) 技術の哲学

そして(1)と関連して、『技術の哲学』という本を読んだことは、技術をもっと大きな枠組みで考えるために実に有益でした。

参考:

片山杜秀が素描する技術者とファシズムの関係

和声法・対位法という技術の「型」教育は誰のためか

(2) 「近代化」とその批判

誤解してはいけないのは、「近代」ないし「近代化」とその是非を論じる営みが、実証的な歴史学ではなく地政学であるということ、すなわち、私たちの国が今も合衆国の傘の下にいるという現状をどう考えるかというイデオロギー論争だということではないでしょうか。

そしてこのようなイデオロギー論争において「歴史」を消去してしまわないためには、「近代化」がデフォルトの価値基準として確立してしまった1960年代以前に、自らの視線が届いているかどうか、そこがポイントになると思います。

「近代」という言葉は、しばしば何でもありのマジックワードになってしまいます。自身の立論のなかの「近代」の語を他の言葉に言い換えることができるかどうか、チェックするといいかもしれませんね。

参考:日本の洋楽における「近代化」論の典型として、柴田南雄と吉田秀和についても別途あれこれ調べてみた。

(2b) 近代化論の変種としての「つくられた説」

昔から当たり前にあると思われているものが、実は近代になってからつくられたものなのだ、というレトリックは、(2)の近代化論の変種と言ってよいでしょう。

水村美苗は、ベネディクト・アンダーソンなどの新左翼によるこうした議論が、反転して、いつまでも「近代」のままでいてほしい気弱な保守主義に転化する日本の知識人の風土を、かつて「日本語が亡びるとき」でやんわり揶揄していましたが、渡辺裕一派については、とりあえず、これが私なりの総括のつもりです。

(3) 言語・言説分析とメディア分析

音楽をめぐる言語とメディアの分析は、一見、検証可能な地平で議論を展開する「科学」であるかのような体裁でわたしたちの前に差し出されていますが、その実態は、情報社会を生きるための実践的な世界観・人生観を鍛える教義と修行の体系だと思います。

ですから、入信・出家するつもりであれば生涯そこへ留まってもいいですが、在家の人間にとっては、一種の通過儀礼と受け止めていつまでもそこで堂々巡りせず、「阿片」の過剰な服用に注意して、次の段階へ進んだほうがいいような気がします。

それにしても、あらためて考えてみると、

分析哲学とメディア分析は、1960年代に情報社会へ移行しつつあった北米におけるプロテスタンティズムとカトリシズムのせめぎ合いだったように思えてなりません。今もその影響下にわたしたちが生きている「情報の神学」には2つの宗派があるということですね。はじめに「言葉」があったのか、それとも、「霊媒Medium」へと我々の身体を接続するのか。

参考:

分析哲学への入信が、上記(1b)の技術者系とは違うタイプの世界制覇の妄想をもたらすかもしれないことについて:

自然言語の森で瞑想するのではなく、人工言語の記号論から出発する逆転の発想の可能性について:

(4) 英国びいきと洋楽論における「自前の思想」

特段の補足なし。

(5) 音楽とナショナリズム

前提その1:ネーションの差異を盛りつける土台としての音楽の Common Practice について

前提その2:「個人の生き方をめぐる信念」(イデオロギー)と、人同士の調整・折衝(政治)の区別、そしてナショナリズムは後者(政治)ではなく前者(イデオロギー)である

前提その3:音楽とナショナリズムを取り扱うには、言説史(膨大な文献に怯まない読書力)だけでは不充分、文化史の視点が欠かせない

各論その1:フランスのナショナリズムをドイツとの敵対関係のなかで考える

各論その2:ドイツのナショナリズムを帝国主義時代で止めるのではなく、20世紀まで視野に入れて捉え直す

各論その3:20世紀の中欧における「赤いインターナショナリズム」とユダヤ人の移動の問題

各論その4:吹奏楽と日本

(6) 「現代文化研究」の研究

カルスタ(CS)は、今やホットな研究方法と見るのは難しい。それ自体が20世紀後半を彩る歴史現象のひとつであったと考えてはどうか。話は、社会学との付き合い方に及ぶ。

(7) オペラ:演出・訳詞字幕・劇場など

オペラを考えるときには、音楽と組み合わされる諸要素のほうがむしろ気になる。

オペラの歌唱・演出に見る「詩」と「散文」

劇場としてのバイロイト

演奏会形式の周辺

日本のオペラ公演における字幕導入史

(8) 舞踊考

「詩と音楽と舞踊」がアート(美しい諸芸術)の基本と言われて、「詩(言葉、演劇を含む)」と音楽の関わりは継続的に考察対象になる一方、「音楽と舞踊」は、舞踊論が充実してきて、ようやくこれからなのかもしれません。

安直に「身体性」とか、「リズムの根元的な力」とか、「総合芸術」とか口走ってしまわないための歯止めをどこに見いだすか、がおそらく舞踊論のポイントだと思う。

以上。あとの細かいことは、若い人たちで好きにやってください(笑)。

番外:即興論

最後に、あれこれ考えるのが面倒だからといって、「即興」という名の何でもありへ逃げ込まないこと。「即興」もまた歴史的構築物なのですから。