「中国化」の正体は、挙証責任を他へ丸投げする翻訳主義だったというオチ(『翻訳の政治学 - 近代東アジア世界の形成と日琉関係の形成』)

[3/8 最近の「知識人狩り」について最後に付記。]

「臭いニオイは元から断つ」。得体の知れないものに遭遇したら、ひとまずその出所をつきとめる。……ということで、「中国化」の人、與那覇潤氏の博士論文にもとづく最初の著書を手に取ってみた。

翻訳の政治学 近代東アジアの形成と日琉関係の変容

翻訳の政治学 近代東アジアの形成と日琉関係の変容

まだ、序論と結論しか読んでいませんが、「翻訳」をキーワードにすれば、近代東アジアの外交問題と各種集団のアイデンティティ問題が魔法のようにスラスラと読み解けるようになる、とデモンストレートしている本であるらしい。

「dogとは犬のことである」というのが翻訳なわけですが、著者は、翻訳の論理構造、「AはBである」という語法、AとBという異なるものを同一であることにする=同定・アイデンティファイする営為に着目して、これを当世風の人文学に接続します。

個物同士の比較において、差異のリストは原理的に無限に増殖せざるを得ない。それにもかかわらず、あるものと別のものを同一視するというのだから、これは論理というより決断である、「AはBである」という同定・アイデンティファイは、すべからく恣意性を遂行的に引き受ける政治である、というわけです。

(これは「言語論的転回」以後のいわゆる「構成主義」的な文化理解にありがちの議論でもあって、差異の束とならざるを得ない個物同士の同定が恣意的にならざるを得ないという見解は、ポストモダニズムの言う「翻訳の不可能性」や、分析哲学の言う「翻訳の不確定性」を踏まえていることが序論で示されます。)

そして、アイデンティファイは比喩的な意味で「政治的」なだけでなく、実際の政治においても、様々な局面で問題になる。たとえば、外交における関係国間での諸々の摺り合わせでは「翻訳」(合意文書で双方がどのような語彙を用いるか)がしばしば争点になり、そこでは何と何が異なり、何と何を同じとみなすかが争われていると見ることができる。そして「政治改革とは郵政民営化である」というような断言について、政治改革を郵政民営化ただひとつに代表させて、賛否以前に、政治改革=郵政民営化の強引な等式を有権者に印象づけた「翻訳」力に著者は注目します。

「AはBである」という断言を、ここでは全部ひっくるめて広義の「翻訳」と呼ぼうじゃないかという話になっているようです。

(また、著者は、近代以前の東アジアには双方の主張を「翻訳しない」(双方の解釈の不一致を見て見ぬ振りする)というオプションがあった、むしろそっちのほうが普通だった、と言います。この視点を入れることで、「翻訳」論は一挙に使い勝手がよくなる。どう「翻訳」するか(何と何が同一視・アイデンティファイされているか)、だけでなく、「翻訳」するか、しないか、という軸を加えることで観察の枠組みが立体的になっているようです。)

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ということで、與那覇潤さんは何のプロかというと、あるものが別の何かと同定されたり、そうした同定がはぐらかされたり、あるいは、およそ同じとみなしえないものを結びつけるために新たな枠組みが導入されたり、といった「翻訳」の機微を東アジアの外交史に即して観察した経験の持ち主であり、しかもどうやら、「翻訳」の機微を単に観察するだけでなく、自らも、そうした言い換え・見立てを駆使する弁論が好きであるらしい。おそらく、もともと翻訳・見立て職人と呼べそうな資質があって、得意技を活かす形に博士論文がまとまっていったのではないか、という風に見えます。(秀逸な比喩・たとえ話でウケを取るネット上のネタとほぼ同じ能力を研究に活用できてしまった人だということです。)

そして博士論文がまとまると、いよいよ、本格的な翻訳・見立て職人として世間へ打って出る。

「日本の中流家庭の原像である」という風に翻訳されてきた小津映画を、「麻雀は中国じゃないか」というように翻訳・見立てし直したのが『帝国の残影』。

帝国の残影 ―兵士・小津安二郎の昭和史

帝国の残影 ―兵士・小津安二郎の昭和史

日本の歴史を欧米の歴史観に合わせて、いわば、「英語訳」で語るのが「近代的」とされてきたのを、全部まとめて「中国訳」してみたら景色が一変してなかなか新鮮、というのが『中国化する日本』。この本は、文面上では「これから日本は中国化するぞ」という予言で終わっているけれど、成り立ちから言うと、翻訳・見立てが大好きな與那覇氏が日本の歴史を「中国化した」に過ぎません。

そして「中国化/江戸時代化」と名指されている事象に直接興味がない人にとって、この本は「日本史を中国化する辣腕の著者は私です」という與那覇氏の名刺と受け取られ、世界の流動化を望むのか、固定化を望むのか、というそれぞれの政治スタンスと関係なく、みんなが與那覇氏に群がることになった……。

中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史

中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史

英米が崇拝されていた時代には、英語の通訳というのはカッコイイ仕事だったようです。(與那覇氏が『帝国の残影』で言及する木下恵介の映画「日本の悲劇」でも、敗戦後8年経って洋裁学校に通っている姉は塾で英語を学び、塾講師の妻を「故意の誤訳」と形容できそうな小芝居でからかい、最後は塾講師と不倫・駆け落ちする。こういう人物は、「晩春」におけるように「嘘をつくこと」が物語上の一大事である小津安二郎には出てこないタイプかもしれません。)

日本の悲劇 [DVD]

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「アメリカではそんなことシマセン、ニッポンおかしいネ」とカタコトで指摘するガイジンさんがかつては(今も?)文化人扱いされて、良い思いをしていました。

だったら今度は、中国が一番偉くて、みんなが「中国基準」で考える可能世界に塗り替えてしまえばいいんじゃないか。そうすれば、今度は中国通が天下を取れるじゃないか、ちょうど最近、中国経済が台頭しているし! ということでやってみたら、えらく受けたということみたいです。

(わたくしの直前2つのエントリーは、與那覇さんのマネをした「中国訳」の試作品です。なるほど、モノゴトを「中国訳」してみると、色々なことがスラスラと言えてしまうご時世であるようです。)

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巧妙というか、ズルイよなあ、と思うのは、あくまで「翻訳」であり、書き手である與那覇さんは「訳者・通訳者」なんですね。

相手に向かって、「お前の母ちゃんデベソ」と著者が直接言っているのではなくて、書物全体が、「(○○さんは)「お前の母ちゃんデベソ」(と言っています)」という二重底になっている。

『中国化』本に「オリジナルな研究」への参照が逐一ついているのは、実はもっと勉強したい読者への便宜であると同時に、というか、実はそれ以上に、「私自身が言ってるわけじゃないよ」という風にすべてが告げ口であるが故の構造上の必然なのかもしれません。こういう構造だから、言葉が軽いんですね。

(また、実証主義における冤罪裁判では、同一人物が同時に複数の場所へ存在することはできないことを前提に、犯行時刻に被疑者が別の場所にいたことの立証を犯行現場への不在証明(アリバイ)とするわけで、膨大な証拠集めが必要になるわけですが、與那覇流の翻訳・見立て主義は、「真犯人は別にいる(ことにする)」というように翻訳する=事件の構造自体を書き換えることで、裁判そのものを無効にしてしまおうとしているようです。日本史のなかの数々の論点・争点に対して、まるで怪事件を解決する名探偵コナンくんのように、ばっさばっさと「真犯人」が名指されていく。『中国化する日本』には、パズルを解く快感があると言えそうです。

実際の事件では、こういう形で劇的に解決する(したように見える)ケースは稀で、多くの場合、こういう形で「真犯人」にだどりつけたりはしないからこそ、みんな苦労しているのだと思います。

與那覇さんがやっているのは、もうメンドクサイから、全部、最後に無罪釈放を勝ち取る法廷ドラマ=「物語」に書き換えちゃえばいいんじゃね、ということなんですね。爽快に楽観的ではありますが、やや話がうますぎるかもしれません。

危機的な災害が起きると答えのないパズルのように情報が錯綜することを体験してしまった直後でもありますし、「AはBである」と同定する推論を積み重ねることなど徒労ではないか、という雰囲気がある。そこへ與那覇氏の、いいかげんな翻訳でなんとかなってしまったり、翻訳しないで見て見ぬふりをする世界としての近世像が差し出され、なんだか、魅力的に見えてしまった、ということなのかな、と思います。実際には、それは、すべてを魔女や悪魔のせいにしてしまう「最強・最悪の翻訳」が復活するリスクと裏腹なんですけどね……。)

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かくして、『中国化』本の大ヒットを受けて、「プロのオリジナルな研究」を一般人向けにわかりやすく翻訳・見立てする「史論家」の看板を掲げる事業展開がはじまって、今日に至るようです。

(出発点の博士論文には、もうちょっと違う「何か」が含まれているかと思ったら、非常に純化した形で、右のものを左へ移す「翻訳」だけが展開されていたので、私は正直がっかりだったかも……。かなり高価な本だったのに……。いつか沖縄のことを勉強するときに使うことにします。)

3冊ともキャッチーな「翻訳」(わかりやすいたとえ話)が満載なので発想を柔軟にすることの役に立ちそうですが、その「翻訳」にのっかって大丈夫なのかということは、「告げ口」を鵜呑みにして親友と絶交するのも、間に「通訳」を入れずに直接問いただすのも、個別に各人が自己責任で考えるしかない。ソフィスト・デマゴーグに踊らされるかどうかは、あなたの「リテラシー」次第、というありきたりでパッとしない結論にならざるをえないようです。

與那覇史観を壮大に拡大解釈するとものすごく殺伐としたヴィジョンを描くことも不可能ではありませんが(http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20120302/p1)、勝手に扇動されて現代の紅衛兵として戦場へ向かう人間を「一介の翻訳者」である與那覇氏が祝福することは、たぶん、ない。合成の誤謬といって、善意で猪突猛進する人が周囲からはちょっと迷惑だったりすることがありますが、「善意の翻訳」(與那覇氏本人はいい人っぽく見える)が免責されるとはかぎらない、と私は思います。

現在は、仮に「中国化」の時代であるとしても、三国志の英雄たちが実在するわけではない、ということですね。

高邁な理想を語る独裁者の元で自由な帝国を目指すのがいいのか、小さな組織へ繊細に分割統治するのがいいのか、私にはそう簡単に判断はつきません。

でも、今現在の政治家が悪しきデマゴーグなのか、希望の未来を指し示す指導者なのか、という判断を含めて、政治をめぐる言説において一介の「翻訳者」に人々がすがりつく状況が奇妙なのは確かでしょう。彼は、儒者や賢者ではもちろんなく、制度上では研究者であるといっても、自らの所見を自前で体系化する機会のないまま今日に至っている32歳に過ぎないのですから。

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以上、数回にわたることになってしまいましたが(目次はこちら→http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/archive?word=%2A%5B%C3%E6%B9%F1%B2%BD%5D)、與那覇氏の3つの書物をわたくし流に「翻訳」する「中国化」シリーズは、出発点から効果までひととおり見終えたので、たぶんこれで打ち止めです。

戦後の世の中の動きをこの島の長い歴史のなかにどういう風に位置づけたらいいのか、色々な見方があることを再認識できましたし、私なりにこれから勉強するヒントになるアイデアを色々いただいたように思っています。

そして私自身は、調べれど調べれど、我が暮らし楽にならざり、じっと手を見る貧乏な実証で地を這うことにします。

西にデマゴーグが出れば、行って話を聞き、東にソフィストが出れば、その本を買う。デマゴーグやソフィストをデマゴーグやソフィストであると同定するためには、身体を張ってだまされて、その結果がどうなるかを確かめてフィードバックするしかない場合がある。自分がデマゴーグやソフィストを試みて、どのような反応があるのか確かめることが有効な場合もある。実証はそこまで行くぞ、と改めて覚悟した次第でございます。

[3/8 付記]

最近遅ればせながら「東大話法」というレッテルを貼って知識人狩りをする風潮があるのを知り、與那覇さんを東大卒っぽいと見るにせよ、東大卒らしからぬ、と見るにせよ、その枠組みは嫌だなあ、と思っております。

むしろ、手近なところにいる「大学教授」を見境なく現場へ投入する報道と行政の「学徒動員」体質が私は気になります。

さしあたり、マスコミによって持ち上げられた「大学人」の系譜を考えてみると、

クオリア(←死語ですか?)の茂木健一郎氏は、さすがオタク第一世代だけあって、周囲から白眼視されようが我関せずで平然としていられる筋金入りの「天然」さん。東浩紀さんは、衆人環視の場で年長の論客とケンカすることを辞さない「狂気」の人。大学人とはちょっと違いますけれど宇野常寛さん(←與那覇潤愛知県立大准教授と一歳違い)は、学級の影のフィクサーだったんだよ〜ん、と公言したりするいじめっこキャラの人。

それぞれにそれぞれのやり方で生き延びそうな、簡単に死ななそうなタイプであるようです。

でも、與那覇さんの「翻訳」力は、窮地に陥ると別人格が憑依して「預言」を語り出す、いじねられっこの虚言癖の系譜のように思えてしまうのです。

もちろん、與那覇さんが本当にそんな弱い人なのかどうか、ということはわからないし、そんなことを勝手に決めつけるのは失礼な話だと承知しています。あくまで、語りのタイプを私が勝手に見立てているだけのことです。そして本人がどうかとは別に、この種の語りに移入するのは、心が脆くて現実逃避の欲動のあるタイプだろうという思いが、私にはあるのです。

だから、彼の書いた本については、面倒でもちょっと丁寧に読んでから判断したほうがいいのではないかと思ったのです。

(さきほど「学徒動員」の語を出しましたが、ひょっとすると、大東亜戦争のシンボルになった東条英機とか、このタイプだったのではないか? ちなみに與那覇さんは、泥沼の日中戦争のなかで「大東亜」という「中国的」な理念をとりあえずであれ立てたということで、翼賛体制を組織した近衛ではなく、しばしば悪しき軍部の病巣のように言われる陸軍の東条のほうを評価します。)

でも、マスコミさんは、言葉のノリに沿って読んでしまう論評がほとんどみたいですね……。こういうタイプの発話(発話者)を「現場」(戦場?)へ動員するのはなんだか残酷で、マスコミは容赦しないんだなあ、と私は思う。マスコミという場所は、現在の日本のなかでも、結構「江戸時代」度数が高い環境なのかもしれないなあ、とそんなことを思います。

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心に闇を抱えるが故に「言葉の政治」へ希望を託す翻訳・通訳者といえば、シドニー・ポラック最後の監督作品「ザ・インタープリター」。わたくしは、ニコール・キッドマン様がご出演していらっしゃるものをすべて無条件に肯定してしまいますが(←バカ)、先の「日本の悲劇」の英語に惹かれてしまう姉と、どこかで一脈通じるところがありはしないでしょうか?