「東洋のバルトーク大栗裕」という呼称について思うこと(暫定)

[9/21 国民楽派と20世紀の民族主義の関係など、あちこち加筆。9/20 急いで書いてしまい、意を尽くしていないと思えたので、あちこち加筆。これは、ひとつ前のエントリーから分離・加筆した記事です。]

大栗裕のことを活字で紹介する文章(ほとんどが吹奏楽関係)は、長らく「東洋のバルトークと呼ばれている」と書き出すのが定番になっているようです。

大栗裕からバルトークを連想するのは、どういう経緯によるのか、いずれ情報をちゃんと整理しようと準備を進めているのですが、没後30年の「よくある質問」になりそうな雰囲気もあるので、話の入口部分だけ、とりあえず、メモしておきます。

      • -

「東洋のバルトーク」というキャッチコピーは、マジなのか、そうではないのか、ちょっと微妙なところがあって、リアクション&取り扱いに困るよなあ、と私は思ってしまうのですが、いかがでしょう?

グラナドスを「スペインのグリーグ」と呼ぶのは時代が近く、なんらかの関連があるのだろうと方向性が見えますし、「なにわのモーツァルト」は、単なるおふざけではない何かを感じさせるところがあって、キダタローさんはたぶんそこをツッコムと真顔で怒りそうなキャラである、というのを踏まえた絶妙のネーミングだと思います。あの人ならではの、絶妙のイジり方、イジられポイントですよね。さすが、一家を成す人はいいネタをもっているよなあ、と、いっそ感心してしまいます。

ベイシーが「カウント(伯爵)」、エリントンが「デューク(公爵」と自称するのに近いニュアンスも感じられて、こういう方向へ行くのは、ミュージシャンのツボのひとつでもありそうです。

アメリカ音楽史 ミンストレル・ショウ、ブルースからヒップホップまで (講談社選書メチエ)

アメリカ音楽史 ミンストレル・ショウ、ブルースからヒップホップまで (講談社選書メチエ)

要するに大和田さんの言う20世紀の商業音楽における「偽装」問題、他者の欲望を「偽装」によって受け止めたり、「偽装」によって自らの欲望を仮想的に充足するメカニズムだと思います。ただ、キダタロー先生が何を「偽装」しているかという話題には触れない、というのが万人周知のお約束ですから、これ以上踏み込みませんが(笑……いや笑ってはいけない)。

でも、大栗裕とバルトークという取り合わせは、そういうことなのかどうなのか……。

      • -

わたしには、そういう上手な関西流コミュニケーションはできないので、愚直に順序立てて行きます。

大栗裕を作曲家としてデビューさせた立役者、朝比奈隆は自身がエマヌエル・メッテルに学んだロシア国民楽派系の人で、大栗裕のことを「大阪の国民楽派」と見ていたのではないかと思います。(朝比奈隆の演奏会には、しばしば、大栗裕をラロやチャイコフスキーと組み合わせたプログラムがありました。)

「国民楽派」=ヨーロッパにおける音楽のナショナリズムは、ドイツとイタリアの統一、フランスの第三共和制、クリミア戦争後のロシアの改革、南北戦争など、19世紀後半の政治と連動した現象と見るのが妥当だと思いますし、内容的には、調性音楽の枠組みに行儀良く収まる形で、曲の主題・動機となるリズム・メロディー・楽器法(スペインはカスタネットだ、とか)に「ご当地素材」を使うのが普通だと思います。

音楽の構造だけを見ると、自国の素材を使う国民楽派と、ヨーロッパ外の珍しい素材を使う異国趣味はほとんど同じだということがしばしば指摘されます。ここから、「国民楽派というのは、内なる異国趣味であり、伝統を創造してしまうことにしかならないのだ」という醒めたナショナリズム批判が導かれ、一世を風靡したわけですが、それはともかく、地域と地域の関係ということで見ると、国民楽派や異国趣味は、調性音楽という同じプロトコルに沿って交渉する外交のようにも見えます。どこの国であろうと、晩餐は「外交儀礼」としてフレンチだ、というのと同じように、どこの国の音楽素材であろうと、調性音楽のスタイルにまとめられていた時代です。

(国民楽派のほうは、日本の山田耕筰などもそうだったように積極的に外交プロトコルを受け入れて、ヨーロッパ・クラブのメンバーに入ろうとする動きで、異国趣味のほうは、相手の都合はおかまいなくヨーロッパさんがアジアやアフリカへ乗り込んでいって、自分たちのペースで話をどんどん進めちゃっている感じですね。)

20世紀になって話がややこしくなるのは、言い出しっぺのヨーロッパが、バロック以来300年で耐用年数が切れたということなのか、第一次大戦による一時的な自信喪失なのか調性音楽というプロトコルを疑い始めただけでなく、特にフランスでは、ドビュッシーが調性音楽から離脱するときにスペインやロシアやアジアや(アフリカ系の)アメリカ音楽を利用したり、そこへつけこむようにストラヴィンスキーがパリへ乗り込んで大暴れして、非西洋の音楽がヨーロッパの藝術音楽を更新する活力源であるかのような情勢になったからだと言えると思います。

バレエ・リュスがパリで受けたのは、フランスとロシアが結託して、ドイツを東西から挟み撃ちする外交戦略のようなものだと思うのですが、ストラヴィンスキーに便乗するようにファリャやバルトークやコープランドが出てきて、独仏伊以外の国の音楽家は、独仏伊の伝統をどこまで根本的に揺るがすことができるかを競争しているような雰囲気になる。民族性を前衛へ鍛えあげるのが藝術で、調性音楽と調和させるのは通俗だ、という感じになっていく。

そしてこの価値観を過去へ遡って適用して、19世紀の異国趣味や国民楽派は通俗だ、ということになったのだと思います。ムソルグスキーは、リアリストだったからなのか危険な感じを秘めていますが、ドヴォルザークやグリーグは、19世紀の定番的な手法に準拠していて、漫然と聞いていると通俗的に思えてしまいます。

朝比奈さんは「オーケストラは国力の象徴だ」と言って、19世紀以来の外交プロトコルを守った人なので、大栗裕を「国民楽派」扱いして平気だったわけですが、いちおう彼の作曲スタイルは調性の枠内に収まらないところがありますから、(所詮通俗だ、と貶める意図で言うならともかく)19世紀風の「国民楽派」のカテゴリーに入れるのは、普通の感覚だと、ちょっと違和感があると思います。

ドヴォルザークとはあまり似ていませんし、強いて言えば、ムソルグスキーの音楽はおそらく嫌いじゃなかったように思えますけれど、ムソルグスキーっぽい感じがどこかにある、というのは、むしろ、常識的な「国民楽派」に収まらないところがあることを示唆していると見るべきだと思います。

      • -

そして従来の「国民楽派」ではなく、大栗裕は20世紀の民族主義だ、という意味を込めてバルトークなのだと思うのですが、困ったことに、バルトークについては日本国内だけでも、一家言ある人がたくさんいます。その最たるものが、昨年あれこれ調べましたが(いずれこういうことになるだろうと予想されたので……)、バルトークを守護聖人と仰いで戦後を生きた柴田南雄だと思います。

しかも、バルトークは民族性の前衛化に見事に成功して、ストラヴィンスキーやシェーンベルクと並ぶ第一次大戦前後の「新音楽」の旗手と見られているわけですね。ハンガリーの民族主義から大出世した現代音楽の「偉い人」です。

さらに言えば、バルトークの「偉さ」は、本人に立派な業績があるだけでなく、ハンガリーでは国民的作曲家ですし、日本でも、日本の偉い人である柴田南雄らが尊敬することによって格付けが上がり、「偉さ」が累乗倍になっている。そんな信用のネットワークが作動しているようです。

バルトークの周囲はそういう上昇気流が渦巻いているので、大栗裕のように、ちょっとだけフォークロアを取材したり、印象派を応用した日本音階によるモーダルな和声を使う程度のことでバルトークの名前を持ち出すのは、畏れ多く不敬である、ということになるのだと思います。

吹奏楽関係の皆さまを中心に、素直な尊称というか愛情表現として「東洋のバルトーク」と言ってくださっているのだと思うのですが、みだりにバルトークの名前を出すと、現代音楽関係の先生方が眉をしかめるんですよね。ややこしいことに……。

(たとえば、一昨年のNHK大阪の公開録画で上田早苗アナが「東洋のバルトーク」という言葉を出したとき、西村朗は、表情こそかえませんでしたが、そんな言葉を使うな、というオーラを全開にして、かなり恐かったです。^^;;←オンエアではこのやり取りはカットされて、西村朗のダークサイド(?)は電波に乗りませんでしたが。)

よかれと思って「東洋のバルトーク」を打ち出していると、偉い先生方を怒らせてしまって、その怒りは、大栗裕自身より先に、そんな物の言い方をしている人間のところへ向かって、お前は世間というものがわかっていない、と説教されそうな気配があります。

バルトークは、日本のある種の音楽知識人のご神体になっている感じがあるのです。(そしてそのような気圧の発生元は、ほぼ間違いなく柴田南雄だと思います。)

      • -

一方、片山杜秀さんがいずみホールの『Jupiter』で大栗裕のことを書いたときには、大阪主義という見方を提示していました。

ヤナーチェクはチェコというよりモラヴィアの人であり、ファリャはスペインというよりアンダルシアの人、ヴォーン=ウィリアムズは大英帝国というよりイングランドの人である、というように、20世紀の作曲家は「国民国家」(土着民nationによる政体state)の創設・発展という19世紀風の理念を背負った大事業を丸ごと代表するのではなく、「地域」に軸足を置くことがある。日本で言えば、北海道主義、沖縄主義、金沢主義、広島主義というような「お国」(かつての藩くらいの規模か)の作曲家が、各地にいていいのではないか、大栗裕は、そういう意味での大阪主義だろう、という趣旨です。

ネーションではなくローカル、という当世風の考え方だということと、バルトークのような国際派のビッグネームではなく、ファリャなどの名前を出してくるところと、両面で冴えた指摘だと思います。

19世紀の「国民楽派」と、20世紀の、国際派民族主義としかいいようのないバルトークの間に、大栗裕と比較するのに手頃であると思われる地域主義の作曲家が色々います。朝比奈隆が大栗裕の作品をヨーロッパで紹介したときにも、現地の批評は、実はバルトークだけでなく、ハチャトゥリアンなど、様々な名前を挙げています。

「前衛」というのが無条件に価値ありとは見られなくなっているご時世ですし、そのうち、シェーンベルクやストラヴィンスキーやバルトークを語るときの力点が変わって、ひょっとしたらこの三人が並べて語られることすら少なくなるかもしれません。

(たとえば、第一次大戦後の音楽シーンは、ウィーンのユダヤ人コミュニティから来たシェーンベルクや、ロシアの亡命貴族ストラヴィンスキーに、トランシルヴァニア生まれの紳士バルトークやモラヴィアの野心家ヤナーチェク、マドリードの保守派に反旗を翻したアンダルシアのファリャ、プロヴァンスのユダヤ人ミヨー、というように、一癖も二癖もあるマイノリティが蠢いているようにも見えます。30年代に強烈なカトリック信者のメシアンやフランス人によるフランス人のためのエスプリへ立てこもるフランセが出てきたり、ドイツやソ連が「退廃藝術」を排除する文化政策に転じたのは、たぶんその反動なのでしょう。「シェーンベルク/ストラヴィンスキー/バルトーク」の3つの名前を取り出して、メイン・ストリームが仮構されるのはさらに情勢が反転した第二次大戦後で、なかでもバルトークをクローズアップするのは、日本特有である可能性を疑ったほうがいいかもしれません。)

そうなると、いずれは、「東洋のバルトーク」という言葉に西村朗がどうして動揺したのか、そのニュアンスがわからなくなる時代が来るかもしれませんが(笑)、

当面、偉い先生方を怒らせることなく日本の音楽史に大栗裕を登録するときには、地域主義というような言い方が安全で平和的なのだろうと思います。

(ローカルに徹して普遍へ至る、というバルトークへ一脈通じるかも知れない「世界戦略」を構想したのは大栗裕自身ではなく、大栗裕や朝比奈隆を巻き込んで文字通り一芝居打った武智鉄二。戦後の「中国化」((C)與那覇潤)した大阪の熱気が一番はっきりしているのは、大栗裕で言うと、器楽作品より歌劇ではないかと思います。大栗裕の歌劇を「地方オペラ」と括られると違和感があるけれど、大栗裕の器楽を「地域主義」と見るのは、それほど違和感がないかもしれません。)

なるほどバルトークは立派な作曲家ですし、1960年代には大栗裕自身がバルトークのことを彼なりに研究した形跡があり、彼自身がバルトークを意識していなかったわけではないので、やや事情が込みいってくるのですが、大筋としては、大栗裕のことを話すときに、この名前に「あやかる」形にしないほうがむしろ見通し・風通しがよくなるのではないか、と私も思います。実は大栗裕は、基本的に「都会の人」であって、バルトークのように農民音楽へ肩入れするストレートな文明批判の含みはなさそうですし、若い頃の「青ひげ」のあと純器楽に力を入れた「書斎の人」バルトークと違って、大栗裕は最後までオペラや広い意味での劇音楽を書き続けていましたし……。

(そして逆に、本当に「東洋のバルトーク」と呼べるのは大栗裕ではなく○○だろう(小倉朗とか間宮芳生とか、色々な意見があるようですが)、というのは、今の政治家で織田信長に匹敵するのは誰だ、とか、うちの社長は戦国武将で言えば……、みたいな言い方に似ていて、ひとつの「歴史の見方」ではあると思いますが、いわゆる「大作曲家中心主義」の変種普及版なんでしょうね……。)

ということで、「東洋のバルトーク」は、取り扱い要注意なキャッチフレーズであるという風に、私は思ってしまうのです。

「東洋のバルトーク」問題は、実はあまり似ていないのにどうして大栗裕からバルトークが連想されてしまったのか、両者の差異を乗り越える語り手の欲動は何だったのか、という視点で見ていったほうがいいのかもしれませんね。

関連するお話 → http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20120415/p1