ワーグナーとウェーバー、ワーグナーと合唱

今日の日経夕刊大阪版に先日のびわ湖ホール「タンホイザー」評がでているはずです。(既に神奈川公演が終わったあとのタイミングになってしまいましたが。)

絵本のような舞台を観ながら思ったことは2つ。

ひとつは、評では具体的に書けませんでしたが、ワーグナーがドレスデンで書いたオペラは相当にウェーバーを意識していたのだろうということ。

ローエングリンがオイリュアンテの一種のリメイクなのは比較的分かり易いと思います。善玉の騎士&お姫様と、悪玉の騎士&悪女、という対立の構図があって、そこに、彼らを見守る王様がいて、指輪とか幽霊(オイリュアンテ)とか、白鳥の騎士と禁じられた問い(ローエングリン)とか、ロマンチックなメルヘンらしいアイテムが絡んでくる。

タンホイザーは、今回観ながら改めて思いましたが、「魔弾の射手」を換骨奪胎したお話と解釈することができそうですね。

人物の身分や時代が大きく違いますし(「魔弾の射手」は三十年戦争時代のボヘミアの村、「タンホイザー」は中世の騎士歌人の世界)、音楽劇としての様式も違いますが(ウェーバーはオペラ・コミックとメロドラマとジングシュピールが混淆したようなロマンティック・オペラ、ワーグナーは本式の通作で、19世紀後半の改訂によってグランド・オペラや楽劇のなかに入れてもおかしくないかたちへ建て増しされている)、

でも、話の骨組みだけを取り出すと、善男・善女を人里離れたところに潜む魔法使い(ザミュエル@魔弾の射手やヴェーヌス@タンホイザー)がたぶらかすお話で、そうした異教的な環境との対比で、キリスト教が物語の展開の鍵になるところも一緒です。

(それに1幕後半で騎士たちがやってくる背景にホルンが雄々しく鳴るのは、ウェーバーだ、と思わざるを得ません。中世の騎士とホルンは本来あまり関係がないですし、牧童が右往左往して、まるで、狩人たちが出てきそうじゃないですか。)

そして、物語を結末へ至らせる決定的な動因が何なのか、よく考えると曖昧なところも、この2つの作品に共通しています。

舞台上では、ヒロインの犠牲的な行動に注目が集まるわけですが、そのような個人の行為・思いと、異教vsキリスト教という大きな対立のどっちに力点があるのか、両作品とも微妙です。そしてヒロインの犠牲的行為とキリスト教の重みが、2つの作品でちょっとずつ違うんですね。

ウェーバーでは、アガーテが悪魔の弾に撃たれて死んだのかとマックスが錯覚するだけで実は彼女は死んでいないのですが、ワーグナーでは、エリーザベトが本当に死んでしまいます。

また、「魔弾の射手」の完成版では、僧侶[←隠者ein Eremitですね]が最後に出てくるだけなので、キリスト教のお説教はとってつけたような機械仕掛けの神に思えますが、ワーグナーでは序曲からずっと、ヴェーヌスvsキリスト教という二つの世界が基本設定になっていて、その間を人が行ったり来たりします。

「魔弾の射手」では、ヒロインの犠牲というテーマも、悪魔vsキリスト教という対立も中途半端で、ワーグナーのタンホイザーは、問題を「深化」させ、作品世界に奥行きを与えて、従来のロマン派オペラを乗り越えた、とするのが定石的な説明でしょうか。

でも、実は「魔弾の射手」も、フリードリヒ・キントの台本の段階では、僧侶[隠者]とアガーテが会話するプロローグがあったんですよね(ウェーバーが効果的でないと判断してこの場面をカット)。

そして「タンホイザー」は、よくよく考えると、巡礼の合唱が音楽として印象には残りますが、彼らが物語に不可欠な「駒」として絡んでいるわけではありません。キリスト教は背景であって、(キリスト教と対立する側は、巡礼の合唱と対比できそうなバレエ/合唱だけでなく、エリーザベトと対立してタンホイザーを奪い合う「三角形」の頂点の一つであるヴェーヌスがいて、「背景」と片づけるのは難しそうなところがこのオペラの微妙なところではありますが……)「魔弾の射手」のように、僧侶[隠者]が自らの言葉でちゃんとお説教するようなシーンはありません。(エリーザベトが祈るのは、ヴェーヌスと対抗しうる信仰者の行為なのか、アガーテが迷信におびえるのを受け継いだかのような「自我の脆さ」、背景の磁場へ染まって個人として立っていない兆候なのか、解釈が難しそうです。)

ウェーバーもワーグナーも、キリスト教が物語に関わるけれども、宗教劇ではない。宗教が絡みつつ物語の焦点がそこから少しズレている微妙な設定を、ワーグナーはウェーバーから受け継いでいるかのように見えます。(ウェーバーのようなものを意識したのか、中世の伝説のオペラ化しようとするうちに、いつのまにかウェーバーと似たところへたどりついたのか、そこはよくわかりませんが。)

[それに、キリスト教といっても、教団・教会組織を直接扱うのではなく、隠者や巡礼のように民衆の習俗へ溶け込んだ現象が扱われているのが、両作品に共通する特徴かもしれません。]

今回の舞台を観ながら、ドイツ文化とドイツ・オペラの話ではあるけれども、日本ワーグナー協会様とは関心の方向がずれていきそうな領域がまだ色々ありそうだ、と思いました。

ワーグナーは、次から次へと想像的に仮想敵を乗り越えていく人なので、特に19世紀半ば以後はベートーヴェンとかショーペンハウアーとか、藝術や哲学のビッグネームと対決しているかのような議論を仕掛けますが(=大きな相手と対決している自分は同等に大きいのだ、と大物ぶりをアピールしているように見えなくもないやり方)、ドレスデンにいた頃、具体的に乗り越えなければならなかったのはウェーバーだったんでしょうね。

そして後世から振り返ると、声の大きなワーグナーの向こうに隠れて、ウェーバーのことがよくわからなくなっている……。

(でも、タンホイザーをこういう風に美しく上演できるんだったら、ウェーバーのメルヘン・オペラもやりましょう! 「3人のピント」というスペイン物だってありますよ!)

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そしてもうひとつは、ワーグナーの合唱嫌いです。

台本から音楽・演奏・演出など音楽劇のあらゆる面を藝術家(=ワーグナー)が掌握しようとしたときに、一番やっかいだったのが合唱だったんだろうなあ、と、今回の書き割りのお人形みたいな合唱を観ながら思いました。

合唱(コロス?)は藝術の敵である。そしてこれを、大衆が教養市民を脅かす、と読みかえるところが、20世紀のワーグナー受容にはあったかもしれませんね……。

合唱は藝術をコロす……お粗末。

参考:集団が一斉に歌うのは難しい http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20120314/p1