《作品名》と書かない音楽研究の清々しさ(細川周平編著『民謡からみた世界音楽 - うたの地脈を探る』)

民謡からみた世界音楽―うたの地脈を探る

民謡からみた世界音楽―うたの地脈を探る

「世界音楽」という言葉がエレガントに生きている企画だと思いました。所収論文を起点に色々な方向に考えを広げていくことができそうです。

以下、本の内容の手前の話。

「テーマと執筆者に偏りがあるのは編者がよくわかっている。どんな知的活動も人脈に左右される。」(3頁)

という言葉が序章にあり、本書の「脈」に連なってはいないけれども当該テーマに興味津々の一人としてドキリとしたのですが……。

翻って、この本のもとになった研究会のメンバーの何人かが参加していたにもかかわらず全国大会シンポジウムで「世界音楽」という言葉をエレガントに活かすことのできなかった日本音楽学会が、せっかくの人脈を活かすことのできない場所なのだとしたら、ちょっと哀しいかもしれませんね。

なによりもこの本は、作品名や曲名を《》や〈〉で囲む(『』や「」ではなく)という、おそらく日本音楽学会機関誌が歴史的経緯から音楽之友社の編集方針を踏襲して、そのまま惰性で続いているに過ぎないと思われる書式規定(美学会など一部の芸術学系学会でも使用されてはいるけれど、こんな音楽・藝術の名前だけを麗々しく特別扱いする一方的なルールの押しつけが広く受け入れられるはずもなく、音楽家や出版界でも認知度は低く、結局のところ、「《》や〈〉を使う人=日本音楽学会の息のかかった人」という目印以外の機能を果たさなくなっている)を当然のように無視しているところが、清々しいと思いました。

制服強制で校則の厳しい公立伝統校から、思い思いの私服で通学するインターナショナル・スクールへ転校して、子供たちは大喜び、みたいな感じでしょうか。細川周平さんらしいな、と思います。(ミネルヴァ書房さんが、そんな奇妙なローカル・ルールなど知るはずのないまっとうな出版社だ、というだけのことかもしれませんが。)

歌劇《蝶々夫人》より〈ある晴れた日に〉

とか、理由がよくわからない業界ルールは、面倒だから、この際全部やめにしませんか?

(『音楽学』の書評は、本をサボらずに隅々まで読んだことの証明として誤記の指摘を最後に並べるのが習慣になっているらしいので、是非ともこの本を書評で取り上げて、約物の使い方を機関誌の書式規定に照らして417頁分すべて「訂正」して列挙する、というようなデモンストレーションをやって欲しいです(笑)。同じ書式規定を採用していると伝え聞くNHK交響楽団『フィルハーモニー』編集部と共同でやるのも可。(NHKが参入すると、「旋律」の語をすべて「メロディー」へ書き換えるなどのきめ細やかな検閲が特典として付いてくると思われるので、さらにお得かも知れません。))

[付記]

美術においても音楽においても、作品の「名前」とは何なのか、というのは厳密に考え始めるとややこしい話だと思うのですが、そのややこしい曖昧さに割り込むようにして、美術・音楽など(『』を使う習慣が確立している文学を除外した、藝術のそれ以外の諸ジャンル)について、『』ではなく《》を使おう、という動きがどこかではじまったらしいのです。

私が知る限り、音楽では音楽学会と音楽之友社がこの習慣の発信源であるようです。

美術で《》を使い始めたのがどこのどういう団体なのかは未調査。音楽が先なのか、美術が先なのか……。(ご存じの方がいらっしゃったら教えてください。)

ボーマルシェの『フィガロの結婚』がモーツァルトの《フィガロの結婚》の原作である。

↑これは無理矢理でっちあげた悪文ですが、たとえばこういう風に書けば、文学(戯曲)と音楽(オペラ)の見分けがついて便利である。というのが、《》推進派の言い分だろうと思われます。

でも、こういう約物の手本になったと思われる欧文にはそんな区別をする習慣はないですし、約物が同じでも文脈でわかるように書けば済むはず。上のでっちあげの悪文は、「ボーマルシェの戯曲『フィガロの結婚』がモーツァルトの同名オペラの原作である」、あるいは「モーツァルトのオペラ『フィガロの結婚』の原作はボーマルシェの同名の戯曲である」と書けば、語の無駄な繰り返しがなく、かえって読みやすそうです。

新訳 フィガロの結婚―付「フィガロ三部作」について

新訳 フィガロの結婚―付「フィガロ三部作」について

それに、じゃあ、ボーマルシェ→『』、モーツァルト→《》はいいけれど、ダ・ポンテのオペラ台本について語るときはどうするのか。

諸ジャンルが連携した作品を扱おうとすると、『』と《》の使い分けは煩雑なだけなんですよね。

そして逆に、『』と《》を使い分けたい人は、文学・美術・音楽みたいに、ものごとがすっぱり仕切られた状態を無意識に願っているのだろうと思います。

だから、音楽専門出版社や、日本の音楽研究の元締めを目指した組織が自分の扱うジャンル専用の記号を求める欲望は、いかにも、という感じではあります。「一国一城の主」になりたくて、文学・書物の『』という記号に対抗して、日本における藝術宗家の《家紋》を作りたかったのかも。「江戸時代」な心理ですね、たぶん。

(この話題、以下へ続きます。→ http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20120330