「キタハマ、キタハマ、キタハマ……」と連呼する大栗裕の交声曲

連休中にあと2つ大栗裕関係でやらねばならないことを抱えて時間がないのですが、

昭和天皇のお誕生日に、かつての通産省時代に日本万国博覧会の段取りをつけたとされ、今は橋下徹のブレーンだと言われる堺屋太一が旭日大綬章を受章したそうなので、大栗裕の1970年代の交声曲について、簡単に情報をまとめておこうと思います。

日本の交声曲は、記念碑的な奉祝音楽ですから。

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交声曲という言葉は、いまではあまり使われませんが、カンタータの訳語です。

バロック時代のカンタータはそれほど大規模ではない作品もあるようですが、19世紀になると、ドイツではベートーヴェンの「第九」を範とする記念碑的なカンタータ交響曲に何人もの作曲家が挑戦しています。メンデルスゾーンの「賛歌」とか、リストがワイマールで書いたファウスト交響曲とか、マーラーの声楽付き交響曲とか。(そしてワーグナーの「楽劇」という理念も、「第九」なしには生まれなかったはずで、あれは、オペラの新機軸というより、カンタータ交響曲の劇場化と受け止めたほうがわかりやすい一面がありそうです。)

フランスでも、パリ音楽院のローマ賞コンクールは、最終課題がカンタータで、こちらは、グランド・オペラを書く力があるかどうかを試しているのだと思います。

ドイツの器楽作曲家にも、フランスの劇場作曲家にも、19世紀末には、記念碑的な作品を書くノウハウが蓄積して、カンタータは巨大化の一途をたどっていたようです。

日本で「交声曲」という訳語(交響曲と対になるような文字面)が定着したのは、こうした独唱・合唱と大管弦楽による音のモニュメントとしての19世紀末型カンタータを踏まえたのだろうと思われます。

昭和に入って、1934年、昭和天皇のご長男、今上陛下ご生誕の折には、橋本國彦が「昭和八年十二月二十三日……」の詞ではじまる「皇太子殿下御生誕奉祝歌」を作曲したり、昭和前期が、信時潔の皇紀二千六百年(1940年)の交声曲「海道東征」を頂点とする奉祝カンタータ量産時代だったことは、片山杜秀さんなどが既に熱く伝道していらっしゃる通りです。

1970年代の一連の交声曲は、ハコモノ行政に似た助成金バラマキの公共事業などと言われますが、たぶん、同時に戦前の壮大な祝典音楽の記憶に連なるところが(1970年代にはまだ)あったのだろうと思います。

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「人類の進歩と調和」を掲げる大阪万博(日本万国博覧会)をやり遂げた私たちの国は、これで伸び盛りの成長期・青春時代を卒業して、安定・成熟の時代へ移行したのかもしれません。70年代には、和製ジャズの草分け服部良一による「おおさかカンタータ」(1974)、1960年代から「大阪の秋」国際現代音楽祭の主要メンバーだった松下眞一による交響幻想曲「淀川」(1978)など、関西でも来し方を振り返る大作が上演されました。商都大阪を象徴する証券取引所の100周年記念曲もそのひとつ。(一部加筆・修正)

先日の大栗裕没後30年演奏会では、交声曲「大阪証券市場100年」(作曲:1978年5月29日 初演:1978年6月11日、証券100年記念演奏会、フェスティバルホール)について、こんな風に解説させていただきました。

大阪府・大阪市・財界(現在は大阪21世紀協会)が共同で開催している大阪文化祭の特別公演として「おおさかカンタータ」を委嘱された服部良一(戦時中に上海を拠点に大陸で活躍したことは有名)は、これだけでなく、晩年には多種多様な祝典交響楽(カンタータであったり、コンチェルトであったり、シンフォニーであったりする)を書いていたようです。

そして大栗裕「大証100年」全5楽章の冒頭、第1曲「記念祝歌」は、「ばらの騎士」みたいなホルンのファンファーレに、「ドン・ファン」みたいなタタタ、タタタ……の輝かしい刻みが続いて、リヒャルト・シュトラウスを下敷きにしていることがバレバレの音楽です。R. シュトラウスは「日本の皇紀二千六百年に寄せる祝典曲」の作曲家だ、というような連想が背後にありそうです。戦争中に東京のオーケストラにいて、奉祝音楽を色々経験したであろう大栗裕にとって、交声曲というのは、こういうものなんですね。

そして式典の様式を整えた上で、「北浜、北浜、北浜……」と地元の地名を連呼する衝撃の歌詞になっておりまして(詩:石濱恒夫)、戦前の交声曲とはまた違った意味で、最良の交響楽と、再演には時と場所を選びそうな歌詞が組み合わされております。そういう一筋縄でいかないトレードオフを内包しているところを含めて、これが祝典交声曲というものなのだと思います。

(祝典交声曲は、愛国心や郷土愛や愛社精神と音楽の壮麗さが骨絡みになっていて、「音楽の良さ」だけを取り出して聴くことができないジャンルなのです。

余談ですが、ウェーバーもこの種の合唱と管弦楽のための祝典音楽を書くのが得意でした。ほかにも、ゴセックの「勝利の交響曲」とか、ベートーヴェンの「ウェリントンの勝利」とか、フランス革命からナポレオン戦争を経て王政復古までの時期が、こうした政治と芸術を骨絡みにする近代市民社会型祝典音楽の原点なのでしょうね。)

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「大証100年」を含めて、大栗裕は1970年代に奉祝もしくは祝典のカンタータを3つ書いています。

  • 太子讃 聖徳太子千三百五十年御恩讃仰曲(四天王寺の委嘱により、1971年5月6日、「聖徳太子千三百五十年御忌記念 新作をささげる演奏会」で初演、山岡重信指揮、読売日本交響楽団)
  • 春江花月夜(大阪音楽大学の委嘱により、1975年11月17日、大阪音楽大学第18回定期演奏会で初演、宮本政雄指揮、大阪音楽大学管弦楽団)
  • 大阪証券市場100年(大阪証券取引所の委嘱により、1978年5月29日、証券100年記念演奏会で初演、朝比奈隆指揮、大阪フィルハーモニー交響楽団)

「太子讃」は残念ながら自筆スコアが行方不明で、ヴォーカルスコアと録音(初演を記録したオープンリールテープ)だけしか残っていません。録音を聴くと、オーケストラによる情景描写が入念で、“東洋のバルトーク”テイストの入った本気の大作、と思います。

「春江花月夜」は大阪音大創立60周年の委嘱作品。この年、大阪音大が中国への演奏旅行を計画しており、そのため張若虚の詩に作曲されたそうです(中国行きは実現せず)。これは、自筆スコア、初演時パート譜、初演の録音(オープンリールテープ)が残っています。大栗裕が中国を題材にしたのは、1957年の交響的物語「杜子春」以来で、珍しいです。

そして「大証100年」(自筆スコアのコピーが残っていて、初演実況はLP化され関係者に配付された)がリヒャルト・シュトラウスですから、3曲とも作風が違っています。

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先にも書いたように、大栗裕は「戦争中に東京のオーケストラにいて、奉祝音楽を色々経験した」と思われます。(私は具体的にどの作品をいつ、と特定できるデータを発見できていないのですが、片山杜秀さんはナクソスCDの解説で、彼がホルン奏者として伊福部昭などの作品の初演に参加したはずだ、と指摘していますね。)

でも、おそらく式典音楽との縁は、大阪における吹奏楽の花形で各種イベントにひっぱりだこだった1930年代の天商バンドに遡るんじゃないかと思います。彼の音楽体験は、最初から晴れやかな祝典の記憶と一体だったのではないかと思うのです。

そして、(私はまだ楽譜を実際に確認していないのですが)大栗裕の従来の作品表では、1955年に「天商讃歌」を作曲した、とされています。作曲家としても、「赤い陣羽織」と同じ年に、最初から祝典音楽を書いていることになりそうです。

没後30年演奏会では、1963年に医学総会のために書いたファンファーレが演奏されましたが、このあと1969年には、「2000人の吹奏楽のために」という西宮球場でのマーチング・イベントのための讃歌を作曲しています。このイベントの演出は1961年の第1回からずっと宝塚歌劇の内海重典で、彼はこうした野外イベントでの実績を買われて、翌年の日本万国博覧会開会式典のプロデューサーに抜擢されます。そうして、内海が演出した開会式典で大栗裕の「EXPO'70讃歌」が披露されました。

大栗裕の祝典音楽は、母校の式典からスタートして、万博へ至り、その実績を背景にして70年代の3つの交声曲を受注した、と見ることができるかもしれません。「わらしべ長者」のようでもあり、個人商店を一部上場企業に育てていくような感じでもありますね。(本当に「証券取引所」から作曲を受注したのですから、会社を大きくするという比喩が、比喩なんだか何なんだか、よくわからなくなってしまいます(笑)。)

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大栗裕の2歳上の柴田南雄は、70年代に来し方を振り返る音楽を書くときに、これはメタムジークだ、と理屈をつけたわけですが(「ゆく河の流れは絶えずして」)、この頃、各地で何人もの作曲家がこの種の音楽を書いているはずです。もしかすると、1970年代は、1940年前後に次ぐ、日本の交声曲の第二のピークだったかもしれません。戦前の作例と比較しながら「1970年代の交声曲」についてまとめるのは、ちょっとした研究テーマになるかもしれません。

(一柳慧も、いつの間にか交響曲や協奏曲をたくさん書いて、作品表がいまでは保守本流の人であるかのような感じになっています。こういう現象を語る上でも、「1970年代の交声曲」というトピックは、押さえておくべきだと思うんですよね。)