大栗裕のものは大栗裕へ、吹奏楽のものは吹奏楽へ

http://coral-b.tea-nifty.com/ver2/2012/04/post-3b08.html

どうやら間逆に受け取られてしまったようで当惑しております。

「大栗裕の代表作は吹奏楽であり、関西の吹奏楽関係者こそが率先して大栗裕を盛り立てなければならない」

というような言い方が関西の吹奏楽で四半世紀くらい続いてきたわけですが(含む「東洋のバルトーク」説)、

私は、大栗裕がどういう音楽家だったのか、徐々に情報が出揃ってきたので、没後30年の節目を機に、(a)大栗裕を語ること、と、(b)吹奏楽とはどういう活動なのかという議論、両者をそろそろ一度切り離した方がいいんじゃないか、と考えています。

「大栗裕が大阪市音に天の岩戸の神話を託した」というのは、吹奏楽全般の話ではなく、上記(a)と(b)を切り離したとしてなお、へその緒のように残ってしまう大阪市音楽団という団体固有の歴史の問題として、指摘させていただいたつもりです。(http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20120406/p1

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さて、そして本日はフィルハーモニック・ウインズ大阪の大栗裕特集演奏会で、解説をたくさん書けというご指定でしたので(8000字というのは、演奏会の合間に読み切れる分量ではないだろうと驚いたのですが、そのままCDのライナーに流用する前提でこの文字数なのだそうです)、それなら、ということで、従来曖昧であったり、各種資料に照らして辻褄が合わない通説について、現時点での私なりの意見を、根拠を添えて、かなり踏み込んで書かせていただきました。

朝比奈が吹奏楽に深く関わった時代には、森正、外山雄三、渡辺暁雄などの指揮者が[関西の吹奏楽コンクールの]審査員に名を連ね、オーケストラと吹奏楽は密接に連携していた。大栗裕に課題曲が委嘱されたのは、吹奏楽出身者だからという以上に、西日本を代表するオーケストラの管楽器のスペシャリストだったからだと思われる。

とか、

彼の名前はなかなか関西圏外までは広がらなかった。しかしこれは、直接会って話が通じる率直な人間関係、信頼で結ばれた堅い絆を大切にした裏返しでもある。[……]大栗裕は、商家の長男でせっかく商業学校を卒業したのに家業を継がず、音楽の道へ進んだわけだが、長年の顧客にオーダーメイドで譜面を届けるところは、不特定多数に既製品を売る量販店が出てくる前の、昔気質の商売人を思わせる。

とか、大栗裕(や朝比奈隆)にとっての吹奏楽は、自分の子供のような戦後世代がすくすく育つのを温かく見守っている、というのが基本のスタンスで、彼は吹奏楽を大切にしてはいたけれども、吹奏楽の「中の人」=戦後生まれのドライな現代っ子とは違うところが色々あったことが明確になる書き方を心がけたつもりです。全文はいずれ発売されると思われるCDをお買い求めください。

(大栗裕と、より積極的に吹奏楽に関わった兼田敏(や保科洋)は、吹奏楽作品を頼まれるようになったのはほぼ同じ昭和40年代からですが、年齢は、兼田・保科のほうが10歳以上若いです。

関西で大栗裕を積極的に盛り立ててくださっている木村吉宏先生や辻井清幸先生は、さらに下のはずです。朝比奈隆と大栗裕は10歳違いで、兄弟のようだったと言われていますが、大栗裕と木村・辻井両先生はもうちょっと年が離れていて、どちらかというと親子に近い年の差だと思います。

朝比奈隆・大栗裕は、戦前から音楽活動をしている戦後関西楽壇の創業者第一世代で、木村・辻井両先生は、吹奏楽部門を受け継いだ第二世代。先代のやってきたことを冷静に判断できるだけの距離があったからこそ、大栗裕の没後、思い切ったやり方で大栗作品を吹奏楽界へ投入できたんだと思います。

今現役で吹奏楽活動をしている人たちは、その下の第三世代か、さらに次くらいだと思います。大栗裕の没後30年は、先生方の来し方の集大成にふさわしいタイミングであると同時に、これをひとつの節目として、これからは、吹奏楽の若手の方々が別の展開を模索する転機にする、という考え方もあるはず。

私が具体的に介入すべき事柄ではありませんが、情報を整理してお出しすることで、物事を自由で柔軟にとらえるお役にたてば、と思っております。)

[付記]

たとえば大栗裕は1969年に大阪音楽大学吹奏楽団第2回演奏会のために「吹奏楽のためのディヴェルティメント」を書いています。それまで管楽器専攻生が少なかった音大が待望の吹奏楽をできるようになって、しかも、大栗の少年時代に大阪市音の若々しいクラリネット奏者だった辻井市太郎のご子息がヨーロッパ留学から帰国してその指揮者になったのですから、大栗裕は、それこそ、我が子の成長を喜ぶように嬉しかったんだと思うんです。たとえ、この世代の若者の学生運動に大学人として手を焼いたとしても、そういう反抗を含めて、これが「親」(比喩的な意味ですが)になるということだ、と思ったのではないか。

のちの「神話」が大阪市音へ託した曲であるように、「ディヴェルティメント」は次代を背負う期待のかかった音大生のための曲なんですよね。そしてこういう風な思い入れで曲を作るところが、大栗裕の「らしさ」であると同時に、戦後の人たちから見れば、「鬱陶しいオヤジたちの発想」だったかもしれない。

そしてその後の吹奏楽の展開には、オヤジたちの「思い入れ」を受け止めたところもあれば、うっとうしさを踏みにじってしまったところもある。

面倒くさい話ではありますけれども、そういう愛憎入り混じる経緯を消去してしまうと、「歴史」が消えてしまうと思うし、そういう愛憎が割合「丸見え」で、でも、だからといって無神経にそこへ触っていいものだとは思えないところが(なにしろそこには、まだオトナになりきっていない未成年が関わるのですから)、吹奏楽の取り扱いの難しさだと思うのです。

[付記おわり]

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なお、今回の解説では、この際だからと思って、

「大阪俗謡による幻想曲」も、朝比奈隆がベルリン・フィルハーモニー管弦楽団で演奏する新作を提供することは1955年中に決まっていたはずなのだが、楽譜は、従来推測されてきた1955年ではなく、1956年の2月末以後に一気に書き上げた可能性が高い。しかもこの曲の場合は、当初の計画を途中で変更する苦心の末の完成だった。

と書きました。

これは、いってみれば、米粒の山を眺めて、目分量でおよそ1000粒だろう、と言われていたものが実際に数えてみたら897粒だった、みたいな話で、何度数えてもそうなのだから、そうとしか言いようがないのですが……、

「俗謡は1955年に作曲されて1956年に初演された」ということでないと都合の悪い事情が私の知らないところにあるようで、本日の司会のオリタ・ノボッタさんは、

「インターネットを見ると、この曲は1955年作曲となっています」

とおっしゃっていましたね(笑)。ウィキペディアをご覧になったのでしょうか?

わたくしとしては、CDのライナーも本日の解説と同じ文章のままで行きたいと希望しておりますが、実際に発売されてみたら、ウィキペディア用語で言うところの「独自研究」が10行分削除されて、

「大阪俗謡による幻想曲」は、朝比奈隆がベルリン・フィルハーモニー管弦楽団で演奏する新作として1955年に作曲された。

と書き換えられていたとしても、それはそれで、私の知らないミステリーゾンが世の中には厳然と存在する、ということで面白そうなので、判断はオオサカンの皆さまにお任せしたいと思います。

(片山杜秀さんのナクソスのCDは2000年頃の文章なので仕方がないとして、片山さんと細川周平さんというマニアの間でも信頼されているお二人が編集した2008年の書物『日本の作曲家―近現代音楽人名事典』が(おそらく既存の吹奏楽関係の文献をもとに)1955年説を採用してしまったのが悪く作用して、「俗謡1955年説」を生き延びさせてしまっているのかもしれませんね。)

日本の作曲家―近現代音楽人名事典

日本の作曲家―近現代音楽人名事典

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演奏会の感想としては、

「序奏と舞」は、能のお囃子がどういうものなのか、具体的に知ったうえでないと、曲の狙いをわかって演奏するのが難しいんじゃないかと思いました。(ピッコロとパーカッションは、おそらく、大栗裕が誰かに「羽衣」のお囃子を演奏してもらって、それを録音・採譜して、丸ごとそのまま使ったんじゃないかと思います。)

「日本のあゆみ」は、たとえば最初の君が代のパロディのような箇所で日の丸の旗を揚げるとか、初演では、なにか、野外演奏ならではの演出があったんだろうな、と思いながら聴きました。戦争の描写というのも、現在のお客さんにどう受けとめてもらうつもりなのか、よほど考えないと扱いが難しい箇所ですね。内海重典に負けないハイセンスな演出家を起用して、合唱やマーチングを効果的に使って上手に「見せる」工夫をしないと、美しき日本を賛美する国粋主義のプロパガンダかと誤解されてしまいそうです。

この曲は昭和40年作曲。この曲や同年末に京都で初演された「歎異抄」は、わたくしが生まれた年の作品なので妙な親近感を抱いてしまうのですが(東京オリンピックのファンファーレ直前の、サン=サーンス「オルガン交響曲」みたいになる箇所でぐっと来てしまいます……)、実際に上演するとなると、色々と扱いが難しいですね。

創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史 (光文社新書)

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輪島さんがどうして五木寛之に拘泥するのか、今日はちょっとだけわかりかけてきたような気がしました。

レコード歌謡のものはレコード歌謡へ、全共闘のものは全共闘へ。