岡田暁生「独創としての編曲 -- ストラヴィンスキーと《プルチネルラ》の美学」(『美学』173、1993年)

とある必要があって、自宅の学会誌の山からひっぱりだして、久々に読み直してみました。

岡田暁生が阪大音楽学の助手だった頃の美学会全国大会の発表にもとづく論文です。

ピアノを弾く身体

ピアノを弾く身体

  • 作者: 近藤秀樹,小岩信治,筒井はる香,伊東信宏,大久保賢,大地宏子,岡田暁生
  • 出版社/メーカー: 春秋社
  • 発売日: 2003/04/01
  • メディア: 単行本
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このあと、やはり美学会全国大会でやったホロヴィッツの発表は、ほぼ同じ趣旨を発展させた文章が『ピアノを弾く身体』に入っていますが、ストラヴィンスキー論文はおそらく単行本未収録。

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岡田暁生は、この頃はまだ『ばらの騎士』論を出版してはいませんが、周囲はみんな彼がリヒャルト・シュトラウスを研究していることを知っていましたし、ドビュッシーやマーラーなど世紀転換期の音楽論を雑誌に寄稿したりしていたので、「後期ロマン派」の人だと思われていたはずです。

それが突如ストラヴィンスキーのことをやりだして、しかも、モダン・アートがさかんに論じられていた美術の世界ではともかく、音楽のほうでは、ストラヴィンスキーというと、日本語ではサントリー学芸賞を得た船山隆先生の本くらいしかない時代ですから、非常に新鮮でした。(少なくとも私は、こういう論法があるのかと目の醒める思いでした。)

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序論で、ヨーロッパにおける編曲・パロディの位置づけを「独創性美学」との対比で鮮やかにまとめているところは、助手時代の岡田暁生が、ドイツ留学中に西洋音楽史を古いところに遡って集中的に勉強していて、のちに中公新書の『西洋音楽史』にまとまることになる音楽史の概説講義のノートをコツコツ準備していたのを思い出します。

西洋音楽史―「クラシック」の黄昏 (中公新書)

西洋音楽史―「クラシック」の黄昏 (中公新書)

それから、編曲・パロディを「オリジナル」より低く見る価値観をひっくりかえす論文の構想との関連で、この頃、彼は音楽著作権の成立史についてもひととおり調べていたようです。

このころ音楽学研究室へ入ってきた増田聡がのちにポピュラー音楽のほうでパクリや著作権の問題をやったのは、ひょっとすると、助手時代の岡田暁生に刺激を受けた面があるんじゃないでしょうか? ヒナ鳥が最初に見たものを親だと思うように……。

(「パクリのオリジナリティ」みたいな逆説論法は、特定の人間のオリジナルではなく、当時いかにも誰かが言い出しそうな話題だったということですね。)

その音楽の<作者>とは誰か リミックス・産業・著作権

その音楽の<作者>とは誰か リミックス・産業・著作権

他にも、「身体性」や「異化効果」など、岡田暁生のその後の文章で鍵になる言葉が既に出てきています。だから逆に、のちのち、「ピアノを弾く身体」とか言い出したときには、ああ、なるほどあの話がこういうところへつながったのか、と思ったのでした。

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それにしても、どうして「プルチネルラ」だったのか?

彼がドイツへ留学する直前で私が大学院へ進学した直後の1988年初め頃、伊東信宏・現阪大准教授と自宅でこの曲を弾いていたのを目撃したことがあります。(伊東さんは学部時代、学生オケのコンマスをやっていて、大学院時代にも、ピアノを弾くのが大好きだった谷村晃先生のご指名でたまにヴァイオリンを弾いていました。ちなみに、伊東さんの次の阪大オケのコンマスは、先日のABCの大植英次番組のプロデューサーさん。朝日放送のクラシック番組は、そうとうコアな方々が作っているようです。)

浅田彰が、ポストモダンは世紀前半の新古典主義の焼き直しではないかと言っていましたが(あるいは、ハイ・アートの世界は、第一次大戦後から既にポストモダンだった、という言い方だったでしょうか)、ニューアカ現象で一世代上の人たちが華やかに活躍するのを横目に見ながら、世紀前半のアヴァンギャルドを仕込んで登場の機会を窺う、というのは、今から思えば、当時の若手芸術史研究者の間では、比較的よくあることだったのかもしれません。

(長木誠司さんも、博士論文はブゾーニですし。)

フェルッチョ・ブゾーニ

フェルッチョ・ブゾーニ

ポスト・ニューアカ世代が中年を過ぎてもずっとストラヴィンスキー好き、ピカソ好きであり続ける、というのは、そのうち20世紀末を「歴史」として総括するときには、世代論というか、文化史的なトピックとして立てられることになるかもしれませんね。

(どういうわけかこの人たちは、ストラヴィンスキーやピカソを絶賛した返す刀で、そのあとの動向を「既にすべてが終わったあとの残りカス」として切り捨てる。不思議な心性です。参考:http://yakupen.blog.so-net.ne.jp/2012-07-12。「大衆性」のレッテルを貼られることを極端に嫌う感じがあるんですよね。きっと皆さんお育ちがおよろしいんでしょうね。私は品性が賤しいのか、「エル・サロ・メヒコ」も「アパラチアの春」(←YouTubeには初演のバレエの映像がアップされている!)もクラリネット協奏曲も市民のためのファンファーレ(←大阪城西の丸庭園で聴くと結構感動的だった)も、全部ひっくるめてコープランド好きです。リンカーンとか、いいじゃないですか。参考:http://blogs.yahoo.co.jp/katzeblanca/23372791.html。王様のいる島だから、「品格」について暗黙の譲れない一線がある、時代の強制力よりもはるかに根深い「島の掟」がある、ということなのでしょうか??)

アーロン・コープランドのアメリカ

アーロン・コープランドのアメリカ

とはいえ、コープラン好きだからといって、私は同性愛者でも共産党シンパでもないですが。

岡田暁生をはじめとする人文研の人たちが「第一次大戦」にこだわるのも、たぶん、そういうことでしょう。全共闘世代が1968年にこだわるように、この世代は、1920年代を語るのが冴えたことであったような「青春の日々」に、できることなら戻りたいのだと思います。「第一次大戦再考」というと大所高所から近代史を論じているかのようですが、その内実は、カムバック青春!バブルへGO!!の偽装された懐古趣味だと思います。

クラシック音楽だと、「今更、おゲイジュツかよ」となるし、絢爛豪華な世紀末藝術はあまりにもバブルの時代の気分とくっつきすぎて、ちょっとオヤジっぽい感じ。でも、ピカソやストラヴィンスキーだったら大丈夫。「シュミラークル」(でしたっけ)が跋扈するバブルを経験した世代にとってのアートの最大公約数的なイメージは、ちょどこのあたりなのかな、という気がします。アナクロになる恐れや羞恥心なく、物欲しげにポストモダンのジャーゴンを使うこともなく、第二次大戦後の実験のように貧相で汚らしい(?)ものと一線を画した「アート」を知的に語るとしたら、1920年代が一番やりやすい、みたいな感じが、あの世代には共有されているようです。

……そして確かに、バブルが崩壊してソ連が消滅してしまった1993年に、ヨーロッパから帰ってきてストラヴィンスキーの「編曲の詩学」を語る、というのは、鮮やかでした。

バブル崩壊後の不景気な世の中にハイアートで生きていくには、「目の醒めるように鮮やかであること」が必要だったんですね。

私は、それもひととおり行き渡ったようだから、もうそろそろ、いいんじゃないかと思っていますが。

知覚の宙吊り―注意、スペクタクル、近代文化

知覚の宙吊り―注意、スペクタクル、近代文化

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