大阪の大きいオーケストラと小さいオーケストラの週末

[追記あり、7/16 PM16:30 さらに追記]

今の大阪のクラシック音楽は、頑張って盛りあげよう、と思ったときに、なによりもまず当事者以上にその周囲が賑やかになる構造があるようです。

「関西人は押しつけがましいくらいに冗舌なんだよね」というところへ落とし込むと、役割としての関西、というあまり新鮮ではないお話になってしまいますが、そうではなくて、音楽家・音楽団体が地元でゴソゴソやるしかないのに対して、ホールのスタッフとか、プレスとかは、本社が東京にある企業で「たまたま」今は関西に赴任している、とか、独立して今は大阪で仕事をしている、という人がいて、話題を上手に広げるツボがわかっていらっしゃるのだと思います。

上手にしゃべれないモーゼの傍らに、しっかり、アーロンが付き従っていて、外から見える「大阪」とは、実は、東京に住んでいるあなたのお知り合いの姿、いわば、鏡に映ったあなた自身の欲望の似姿である、みたいなことになっているようです。

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派手に改築された大阪駅がイマドキのショッピングモールのスタイルになって、通勤などで日々利用している一般客を駅の地下へ誘導して外から見えないようにしておいて、駅の上空にプカプカ浮かぶ、鉄道駅の基本機能とはほとんど関係のないショップやら何やらによって、何のために大阪へ来るのかよくわからない方々を吸引しようとしているのと同じ構造ですね。

(そしてこの、上空にプカプカ浮かぶ不気味な巨大建造物こそが、新しい大阪市の言う「都市魅力」なのだと思います。)

こういう方向ばっかりになると物事のバランスを失調しそうなので、誰に頼まれたわけではないですが、収支を中間決算してみます。

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社用の接待で週末にたまにはクラシックのコンサートでも聴きに行こうか、というとき、そのあとで「じゃあちょっと一杯」というのがくっついているのが定番だと思われ、「同伴」と「アフター」のセットはもうそれぞれで勝手にやっていただければいい。主催者としては、目の前を通過していく人々が勝手にお金を落としてくれる素晴らしいシステムなので、だからこそ、ここが充実するのは有難いわけですが……(大阪駅があんなに立派にリニューアルするのですから、景気が悪いといいながら、あるところにはお金があるのでしょうし)、

一方、コンサートそのものを目的として会場に足を運んでくださったお客様に対しては、主催者と音楽家が自分たちの力でなんとかしなければならない。

大阪フィルは、今度の定期から開演前にロビーでプレトークをやるそうで、

http://osakaphil1947.blog66.fc2.com/blog-entry-460.html

ステージ上から一方的に話すのではなく、御質問にお答えするような形になっていたらしいですね。

これで、いつもロビーにいるイケメン・スタッフは演奏部長さんなんだ、ということもわかって、例えば終演後に主催者さんに声をかけて帰るとか、ちょっとしたコミュニケーションの「回路」ができたわけでもあり、結構なことなのではないかと思います。

コンサートの会場に足を運ぶまでのところは「賑やかし」に手慣れた外野が鉦や太鼓を打ち鳴らして(大阪の夏祭り(いままさにシーズンです)のお囃子は元来は大神楽の人たちを雇ってやらせるなど、地元民がやるわけではなかったそうですから、「賑やかし」の外注は都市の基本なのかもしれません)、でも、ひとたび会場へお入りいただいたあとは主催者がダイレクトにケアします、ということで、わかりやすいですね。

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一方のいずみホールの小さいオーケストラのほうは、ホールの座付きで、このホールは隣りにホテルオークラがあるロケーションに恥じない快適な「居住感」が売りであると思われ、お客様への主催者の心配り方面は、むしろ、以前からできることは全部やる、みたいな感じになっているように思います。

(逆に、一時はプレトークがやたら長かったり、サーヴィス過剰のきらいがあるほどで。^^;;)

で、今度の演奏会が注目されたのは、オーケストラがどう、という以上に、どうやらヨーロッパのコンクールに入賞した人の新作初演、という話題性があったようですね。ピアニストやヴァイオリニストはともかく、作曲家がコンクールをきっかけに注目される、というのはちょっと不思議な感じがするのですが、ともかく、火はついてしまったのだから仕方がない。ボウボウと燃えていれば見物人は集まります。

大げさすぎる喩えかもしれませんが、ビートルズが来日したらヒルトンホテルの周囲にファンが殺到して大騒ぎになるだろう(←最近「週刊朝日」で湯川玲子さまの自伝連載を読んで、ようやくどういう方なのかわかりました、女子力の元祖な人なのですね!)、みたいなことのようです。

たぶん、ホテル並のサーヴィスを普段から普通にやっています、というホール従業員目線で言うと、ビートルズが来ようが酒井某が来ようがいつもと何も変わらないのが一番かっこいいのだろうと思いますが、演奏会へ行っていないので、実際がどうだったのかは、よくわかりません。

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今回は純粋にスケジュールの都合で行けなかったのですが、私は最近いずみシンフォニエッタから足が遠退きがちで、それは、チラシなどで予告を見ても、マーラーとか、ドビュッシーとプーランクとか、たしかに20世紀ではあるのだけれども、これで「現代音楽」というか「同時代音楽」の団体を自称するのは、ちょっと苦しいのではないか、と思ってしまうところは正直あります。

そういうものと新作委嘱を組み合わせるので帳簿の上では収支が合っているのかもしれないのですけれど(2012と1920を足して二で割ると1966(単位:年)になって前衛音楽真っ直中、みたいな)、でも、歴史は四則演算できませんからそんなのは錯覚で、20世紀の前半と現在とがあって、その間がすっぽり抜けている、ということだと思うんですよね。

今から振り返ると「悪い時代」であったところの20世紀後半は、なかったことにする(笑)、という今の世間の風潮と話が噛み合いすぎているような気もして。(参考:http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20120708/p1

色々なことをやるのだけれど、いずみホールの最初の10年間に岩城宏之さんなどが中心になってやっていたような分野だけは、もうウンザリだから止めておこう、という暗黙の申し合わせができつつある風に見えないこともない。あの人たちが夢見た「音楽の未来」は、実現しなかったんだし、もうちょっと寝かせて骨董的価値が出るまでは、倉庫の奥にしまっておこう、みたいな(笑)。

これはこれで、ひとつの判断だと思うので、そのつもりで行けばいいのだ、とリクツではわかるのですが、私は、「現に存在するものを、あたかも存在していないかのようにやりすごす」という優雅な態度が苦手です。

色々大変なことにはなるけれども、前任者の十八番であったブルックナーを指揮して、ひとつのケジメをつけておこうと判断する人のほうが(大植英次がテレビ取材で朝比奈さんに言及したときに流した涙の真意が何だったのか、ということについては、番組製作者の間でも意見が分かれて、私は、直前に亡くなったご自身のお父さんと重ね合わせてしまって思わず泣きそうになった、ということだったのではないかと解釈していますが……)、ベタではあっても、わかりやすいと思ってしまいます。

でも逆に、「現に存在するものを、あたかも存在していないかのようにやりすごす」という心の動きは、どこかしら三つ星ホテルを定宿にしそうな方々の優雅な文化を垣間見させるかのような雰囲気を振りまいて(1920年代アヴァンギャルドといえば、シンガー・ミシンのご令嬢のポリニャック公爵夫人が大パトロンだったわけですし)、間違っても私設ブログでクダを巻いたりしないようなライフスタイルにはぴったり。ハープとオルガンとエリザベート王妃、美しい組み合わせです。

たとえそれが夢か幻か錯覚であったとしても、手の届かない高みを仰ぎ見て、足下の一切が視界から消える快楽、というのは確かにある……のでしょう。

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「もうひとりの酒井さん」の通天閣本には、1970年代初頭にまだ廃墟だった城見町界隈が出てくるこの映画(ポルノへ転じたのちの日活です)が大きく取り上げられていて、
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釜ヶ崎と砲兵工廠を結びつける想像力は10年前の大島渚にさかのぼるそうですから、
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通天閣といずみホールを突き合わせて、その落差を鑑賞するのが、21世紀の真の貴族趣味なのかもしれません。

出でよ、なにわのヴィスコンティ!(←意味不明)

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2012年7月14日は、いずみシンフォニエッタがあんまり近づきたくないと思っているかもしれないジョン・ケージを小さく大々的に回顧するコンサートが芦屋であったので、全体としてバランスは取れていたのでしょうか。

http://ooipiano.exblog.jp/18189296/

事前に新聞社が一社くらい大井浩明を面白がってプッシュしてもよかったのではないかと思いますが、それは難しかったのか……。そこが一番残念だったかもしれません。

現代音楽批判を虎視眈々と準備する音楽評論家がいずみホールへ派遣されてしまう、というのは、ベタな言い方で恥ずかしいですけれども商業メディアの歪みだと思うし、彼に本気で次の音楽論を書かせたいのであれば、出版社が原稿料を前貸しして1年間の生活を保障して聴きたいものだけ聴けるようにする、といった大盤振る舞いをするべきではないか。

http://blogs.yahoo.co.jp/katzeblanca/23381468.html

[追記]

いずみシンフォニエッタについては、2年前にこんな文章を書いたことがあります。

よくわからないけれどスゴイこと いずみシンフォニエッタ大阪10周年に寄せて 音楽評論家 白石知雄

大阪ビジネスパークの超モダンな空間に足を踏み入れて、およそベンチに見えない円形のオブジェと、宇宙交信アンテナみたいな照明灯が点在するホール前の広場に立つと、大阪万博の会場にタイムスリップしたかと錯覚してしまう。この近未来空間にはシュトックハウゼンやクセナキスが似合うはずだ、といつも思う。

でも、正直に言えば、過去10年の定期演奏会がいつも面白かったわけではない。むしろ、力を出し切れていないとイライラしながら帰宅することも少なくなかった。(たとえば、2002年第3回定期のジェフスキー「パニュルジュの羊」で作者が仕掛けた挑発は、なぜ曖昧にやり過ごされたのか?)

時代が変わったのは確かだろう。今はもう21世紀だから、前世紀の作品を「現代音楽」とは呼べない。それに60年代の前衛たちが予見した未来は来なかった……。

でも、「太陽の塔」が屋根を突き破って屹立するのを見上げたときの、あの「よくわからないけれどスゴイ」という感覚をときどき思い出したくなる。あの手応えは、バッハのわざの冴えや、ワーグナーの大言壮語と同等にユニークな何ものかだと思う。21世紀に敢えて「現代音楽」するのであれば、かつての異様な熱気と不透明なパワーにそろそろもう一度、現在の視点から本格的に向き合うことがあっていいかもしれない。

「現代音楽」も、たとえば人(作曲家)や国に着目すると、わかりやすい特集を組むことができる。いずみシンフォニエッタ大阪の公演でも、武満徹を特集した2006年第14回定期の演奏は美しかった。そして次の公演はイタリア特集。普通に楽しく咀嚼できるメニューを作るノウハウができあがりつつあるようだ。ここに、「世界初演」や「日本初演」など、音楽の初もの、ボジョレヌーヴォを添えれば、ほぼ確実に華やいだ雰囲気を演出できる。

10年の経過で、いずみシンフォニエッタ大阪はそういう路線に着地しつつあるのかもしれない。もしかすると、「ミレニアム2000年」という晴れやかな年に生まれた21世紀のグループなのだから、20世紀への負い目を感じずに、のびのびやればいいのかもしれない。

でも一方で、音楽監督の西村朗がいずみシンフォニエッタ大阪で初演した室内交響曲三部作は、改めてCDで聴き直すと、大阪城東生まれの作曲者の個人史的な何かが、澱のように溜まった音楽だと私には思える。「現代音楽」は、そろそろ「五十年もの」の熟成銘柄になりつつある。それにふさわしいドロリした濃厚な感触や、ツンとした刺激のある発酵臭、簡単には飲み込めない異物感を私は待望しているのだけれど、これは少数意見なのだろうか。

「Jupiter」からの依頼原稿で、PR誌にこういうのを出すか、とホール関係者には不評だったそうですが、これでも書き直して表現を柔らかくしておりまして、今回はまさしく「お国もの特集」+「新作ボジョレ」でお客様にお楽しみいただいたとのことですから、「やっぱりそういう団体なんじゃないの」と読み返しながら、そのように思ったりもしております。

これはまったくの結果論ですが、もし2000年の段階でここ2,3年のようなプログラムを打ち出していたら、メンバーの巧さ+演奏機会の少ない20世紀の古典の紹介、ということで関西では抜群に冴えたプロダクションになり得たのではなかったかと思います。手堅く着実に成功する内容で足場を固めて、「いずみシンフォニエッタがやることに間違いはない」という信用を得ておいてから、リゲティとかケージとかジェフスキーとかファーニホーとか、けったいなものを機敏に混ぜていく、という順番だったら(つまり実際のいずみシンフォニエッタの歩みと逆の順序で内容が変遷していたら)、随分印象が違っただろうなあ、と妄想してしまいます。

でも実際は、最初のうち、これでもか、とマニアックに「現代音楽業界もの」をバカスカやって、徐々に穏健なところへ着地して今日へ至っているんですよね。

これは想像ですが、地元出身の西村朗にしてみれば、大阪城東側のかつての「人外地」にアートが根づくとは思えなくて、酔狂な保険会社がお金を出してくれているうちに、自分のやりたいものをさっさとやってしまおう、みたいな感じにはじまって(=橋下徹が目の敵にするタイプの、お大尽からアーチストがお金をむしり取るやり方としては定番ですね)、

金と芸術 なぜアーティストは貧乏なのか

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ところが、ホールのスタッフやプレイヤーを手配する人たちが予想に反して本気に行動力があって、いつしか10年以上続いてしまった。だったら息の長い活動ができるように軌道修正しなければならない、ということじゃないでしょうか。

(「女子力」ということが言われる以前から、ここのホールや人材の手配を請け負うマネジメントでは女性スタッフさんが獅子奮迅に奮闘していらっしゃいます。)

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で、結局のところ究極的に問われるのは、やっている人たち自身が面白がっているか、意義を感じているか、ということだと思うんですね。

フリーランスの人たちが年に数回の雇われ仕事としてやっている感じなのか、そのような契約形態はそれとして、何か面白いこととしてやっているのか。

「上手い」と誉められたとしても、正直な話、自分たちがどの程度上手いかということは、プロの演奏家だったら、当人が一番よくわかっているはずですし、それで終わるんだったら、文化やアートではないような気がします。

何人か積極的に面白がっている人がいて、ちょっと勘違いしてるんじゃないの、という感じがありつつ奮闘する人もいて、その他に、ここに参加していることが経歴・ステータスになるかもしれない、という計算をしている人たちとか、とりあえず仕事だから、ということで来ている人がいて……。プロですから、それなりの形にするし、それなりの形にしてくれる人たちだ、という目算のもとに集められているわけだけれども、1回の公演をまとめあげたことで、お客さんだけでなく、演奏している皆さんが何かいいものをもらって帰る形になっているのかどうか。そういう無形の何かを生み出せる場所・陣容になっているか、ということだと思います。

酒井さんという人は、イマドキの若くて優秀な人っぽいみたいですから、一緒に仕事をすることで何かを得られるという期待があったのでしょうし、評判が良かったということは、たぶん実際に、会場で「何か」が起きたのでしょう。

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外野が賑やかすぎたり、舞台裏がガチャガチャしていると、「天使が通り過ぎる瞬間」を取り逃がす(ベンヤミン臭い言い方で申し訳ないですが)。

大植英次が「ブル8を振っているときに朝比奈隆の姿が見えた」と興奮のあまり口走ってしまう、とか、「ハープの妖精・内田奈織」(←大変通俗的ではありますが、昨年、茨木市音楽芸術協会ではそのようなタイトルのコンサートをやって、不肖・白石が素人の恐いもの知らずでステマネを務めさせていただいきました)、とか、そういうオカルトめいたことではなく、でも、「天使が通り過ぎる」ことはある。

そして本当にそういうことが起きたのだとしたら、「天使の足跡」は、次へつなげる宣伝として有効利用しようとか、称讃(自賛・他賛)とか、社交辞令的なご挨拶の取り交わしとか、というのとは違う種類の言葉で記録と記憶に留めておいたほうがいい。

百数十文字のネットワークコミュニケーション上のつぶやきがいいのか、そういう言葉を探すことを職業としている物書き(通常それは評論家と呼ばれている)に頼むのがいいのか、よくわかりませんし、私自身は、この週末の大植・大フィルについても、いずみシンフォニエッタについても、批評は書かないということを数ヶ月前から決めているので、何もするつもりはないし、いずみホールには行ってすらいないので、何もできませんが。

(大植英次のマーラーは、もはや「音楽監督引退興行」ではないですし、この先この人がどうなっていくのか、最初の一歩であって、機会があれば、5年後や10年後に振り返って何かを言うことがあるのだろう、と気長な構えで聴きました。だから今は何も言わない。)

[さらに追記]

http://twitter.com/MegumiMorioka/status/224714300021936128

足が遠退くのと同時に、予定がなかなか合わない、ということもありはするのですが、

そしていずみホールの森岡さんとは、どこまで行っても話が噛み合わなくて、「ああ、こういうお仕事があって音楽ホールは成り立っているんだ」という風に話の噛み合わなさ加減から教えられるところが色々あって有難いことだと思っているのですが、

それはともかく、

今回、作曲の酒井さんが冒頭に短三和音を鳴らすのは、大変に勇気が要った、と発言していらっしゃるようですが、「短三和音」といっても、当然ながら一種類ではないわけですよね。

バッハが通奏低音で短調の和音を指定するときと、ワーグナーの音楽劇のなかで流転する音響が不意に短三和音へ収斂するときと、ドビュッシーが白々とした古代遺跡のように短三和音を響かせるときと、無調音楽のなかにしかるべき決意で短三和音を挿入するときでは、意味も効果も、たぶん鳴らし方も全然違う。(酒井さんが期待した短三和音も、ここで初演することを前提として、この人たちだったらこういう音が出るはず、と想定して書いた短三和音だったのだろうと思います。)

そして「上手い演奏家or演奏団体」といっても、そのすべてが上手であるような怪物のような存在はありえない、ということを、わたくしたちは過去十数年の経験で悟ったように思います。

いちばんわかりやすいのは、古楽やバロック・古典派のいわゆるピリオド演奏が市民権を得てジャンルとして独立したことだと思いますが、

ほかにも身近なところでは、たとえば、大阪交響楽団の児玉宏さんは「2管編成といったって、古典派が基本だと考えるのは間違っている」と宣言して、ブルックナーや知られざる後期ロマン派以後の作品に専念しています。これは、裏を返せば、今のこの楽団の現有能力(指揮者である自分の適性を含む)では、モーツァルトの短三和音を売り物になるレヴェルで作るのはしんどい、という認識があるのだろうと私は想像しています。

(デュメイを招いて古典派のコンテンツに取り組んでいる関西フィルとは好対照なところが面白いですよね。)

プロの演奏団体を運営する、というのは、「何を演奏するか」ということを考える=「これができる、あれもできる」と領土を広げることだけでなく、「これは演奏しない/できない」ということを冷静に判断する仕事なのだろうと思うのです。

で、いずみシンフォニエッタは、色々と試行錯誤はありましたが、現状では、一番近くにいる作曲家である西村朗と、世紀前半の新古典主義の周辺の作品が一番据わりが良くて、あとは、色々な作品を「ふーん、こういう曲か」ということがわかるように演奏できるので、それを適宜企画にまとめる、ということなのかな、と認識していたのですが、違うのでしょうか。

(それだけでも一定の意義があるのだろうと思いますし。)

だって、バロック集団がルクレールやコレッリを「研究」するような仕方で、ケージやクセナキスやシュトックハウゼンの語法とその最適な演奏法を検討する人やノウハウを持っているというわけではないし、標準的な音楽家教育を経たうえでの「上手さ」によって短期間に無手勝流で対処できて、その場にいる人たちがおおむね納得できる落としどころは、上に挙げたあたりなのかなあ、と思っていたのですが……。

(あるいは、例えば、テーマ作曲家を決めて、本人やそのスペシャリストみたいな人を招いて、数日間のワークショップ込みで公演を作る、というようなことをしたら、また違った展開になるかも、とは思いますが、それだけの時間、奏者を拘束するとなると、滞在費を捻出するためにギャラを抑えて、メンバーをもうちょっと若手で時間的な余裕のある人に変えていかないと難しいですよね、たぶん。

そういう風に発想が柔軟で学習能力の高い「いずみシンフォニエッタ別働隊 ver. 2」を組織したら、これはこれで面白いかも、と思いますが。

20世紀の音楽にも、歴史的な前提を踏まえたピリオドアプローチがそろそろ必要ではないか、という声を最近耳にするようになりましたから。

人を「入れ替える」のは何かと大変なのでしょうから、新しいのを作っちゃうということで(笑)。

同様に、様々な民俗楽器の「実習」プラスそれとゆかりのご当地作品の演奏にプロの音楽家が取り組む、というような企画をやれば、伊東信宏先生などが喜んで協力してくれたりするのではないでしょうか? 音楽家たるもの複数の楽器を演奏できなくてどうするか、という楽師気質を現代の音楽家に再インストールする試みということで。)