田中久美子『記号と再帰』

記号と再帰: 記号論の形式・プログラムの必然

記号と再帰: 記号論の形式・プログラムの必然

先に読んだ木村大治『括弧の意味論』のなかで、

脱稿後に出たので論旨を盛り込めなかった本(いわば括弧にくくられた「穴」)として言及されており、サントリー学芸賞で紹介文を見て気にはなっていたので、読んでみました。

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自然物をお手本にして人工物を制作する、という理念は今も昔も強力で、日常性の哲学だってその現代版のようなところがあり、人間という生物を手本にして人工知能が研究されたり、プログラミング言語という人工言語は、自然言語を手本にして「可読性」を高めようとしたりするわけですが、

主として自然言語の観察によって構築されてきた記号論の混沌を、プログラミング言語という人工言語の記号運用の観察から照らし返すことで整理しようというわけですから、この本はベクトルが逆向きなんですね。

人間を模倣することでその似姿としてのロボットの開発を進める、というのではなくて、ロボットを固有の存在と認めて、その有り様を観察することが人間という不可解な生き物への理解に貢献するのではないか、というわけですから、ヒューマニズム系空想科学小説(男の子の大好物)の長年の悲願(鉄腕アトムの哀しみやデータ少佐の人権)が、学問として日の当たるところへ出てきた、みたいな感じがありますね。

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ソシュールとパースの記号論の相互対応関係を整理して、両者を等価と論証する、という、めんどくさそうな話が、プログラミングにおける関数型とオブジェクト指向の話に変換することで手品のようにきれいにまとまっちゃいますし。

(記号論における大陸派と英米派の不毛な趣味論争はもうやめよう、ということですね。

しかもこれは、幾何学の問題を等価な微積分の方程式に置き換えて、これを代数的な各種の記号処理技法を駆使して解く、という初等数学でもおなじみの、数学の基本的な方法論のデモンストレーションでもあるわけですね。論証の技術として、数学的方法というのは、やっぱり強力なものであるなあ、ということを文系な人間も納得せざるを得ない。「これは文系の特権的なフィールドだ」と思っていたソシュールとパースの「けんか」が、すっきり収束しちゃうのですから。)

次に、「再帰」が人文系と理系をつなぐ強力な概念であるらしいことになっていて、社会学系の人などが護符のようにこの語をよく使いますが、『括弧の意味論』で「それは部分が全体を参照してしまう再帰ではなく、カプセル化や埋め込み可能性と言えば済む」と総括されてしまったような自分探しの社会学的な比喩とは違うところで factorial (x) = x * factorial (x - 1) みたいな計算(アルゴリズム)の丁寧な説明が続いて、ラムダ計算のありがたみがやっとぼんやり見えてきたような気がしますし、

「浅田彰が、クラインの壺の絵で“記号論を越え”る夢を見た我々の若い頃とは隔世の感がある」

と、ジジイになって感慨に耽りたくなってしまいそうです(笑)。浅田・山形論争は役割を終えたのか、と。

(ラムダ計算で0、1、2……という数が関数の再帰の回数として定義されてしまったり、並置された関数がシンプルな規定に沿って簡約されていく様子を「無名の関数が使用によって名前をもつ」という風に説明されると、なにやら、無から有が生成する瞬間に立ち会っているような気になってしまいそうです。^^;; ラムダ計算や、その実装として考案されたとされるLISPには、ヒトを哲学的にさせるところがあるようです。

計算機プログラムの構造と解釈

計算機プログラムの構造と解釈

  • 作者: ジェラルド・ジェイサスマン,ジュリーサスマン,ハロルドエイブルソン,Gerald Jay Sussman,Julie Sussman,Harold Abelson,和田英一
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  • 発売日: 2000/02
  • メディア: 単行本
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著者は、学部時代にLISPを使った古典的な教科書(いわゆるSICP)の訳者でもある和田英一先生に情報科学を学んだそうですね。あとがきを読んで、ああ、なるほど、と思いました。やっぱりここから出てきた人なのか、と。

かつては、神話的・宗教的な儀礼や哲学の言葉と思考がそのような「生成」を理解・体感したという手応えを与える力をもっていたのだと思いますが、今はそのような古代・中世的・カトリック的であったり近代的・グーテンベルク的であったりする(とマクルーハンが言いそうな)メディアの効力が落ちて、むしろ、コンピュータと密接に結び付いた情報科学のロジックのほうがリアルでアクチュアルだと感じられてしまう。わたくしたちはそういう時代に生きているのかなあ、と思ってしまいます。

参考:http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20110213/p1
(そしてさっき検索してみたら、私がマクルーハンの復習をしていた一週間後に、小飼弾氏は既に『括弧の意味論』と『記号と再帰』を紹介していらっしゃったようで。3.11の1ヶ月前……。その頃の「続き」を考えることを再開しても、もう大丈夫……なのかどうか。http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51635028.html

「クラインの壺」の話は、哲学的・文学的な言葉と思考を継承しながら一歩先へ飛翔しようとするような、インチク臭いことを知りつつ、その種のことを言わざるをえないギリギリのメタファーだったのだろうけれども、一足早く情報理論の側へ飛び込んでしまっている者から見ると、もはや、読者を幻惑するだけの妄言にしか思えない。浅田彰に山形浩生が執拗に噛みついたのは、そういう過渡期の風景だったのかもしれませんね。

80年代の文学部の研究室というのは、先生がパソコンでベン図を描画するだけで、「すごい」と学生からおべんちゃらを言われるような未開の地だったのですから(笑)。)

「構造的」と「構成的」の区別は、両方ともconstructiveになってしまいそうで、英語版がどう語られているのか知りたいですけれども(日本語の語感と少しズレそうですが、想定されている対比は構造=architecture、構成=structureでしょうか、どちらもコンピュータ関係でよく使われる言葉ですから)、話としてはとても面白くて、モダニズムとは融通無碍に世界を覆い尽くす観念と教養の「構造」に倦み疲れた20世紀のアーチストが、スパッと割り切れる要素からボトムアップする「構成」へ乗り換えた運動のことで、だから、素材フィルムを「構成」する映画が最先端のジャンルだったのは辻褄が合うし、ポストモダンで動物化、というのは、そういうカラっとした世の中から、曼荼羅のように記号があふれかえる「構造」へ母胎回帰するように戻っていく動きなのだろうか、と、文化史を探索する強力なサーチライトを手渡されたような気がしました。

(明確に定義された要素を積み上げるボトムアップの「構成」がプログラミングと相性がいいのは、無限ループに陥って停止しない計算を未然に排除せねばならないこと(「停止問題」)と関係があるようです。一方、自然言語のような「構造」は、全体が部分を規定する性質をもち、当面はわからないことを、そのうちわかるようになるだろうと後回し、先送りにすることを許容する、ということであるらしい(かなり乱暴な要約ですが)。

この対比も、教養=成長・成熟を重視した19世紀と、即決で行動した20世紀、そして再び気長な人生を模索し始めた21世紀、という大まかな見取り図を思い浮かべてしまいたくなりますね。気長に生きる「おじさん」を標榜する内田樹が、全共闘的決断主義から落ちこぼれて、「構造」主義を信奉するのは偶然ではなさそうだ、とか。)

そしてインタラクションの話が、関数型プログラミング言語の参照透過性の議論へ受け止められて、モナド(諸記号が諸々の副作用などで不透明にがんじがらめになった「世界」のようなもの)の絶えざる更新と使い捨て、という可能世界論みたいなところへ向かうのは、どう考えても「セカイ系」の話ですし。

問いを精確に立てて、論証を経て、結語へ至る、という数学の証明のような文体・構成を遵守して、透明感あふれる才女のフリをしながら、人文系であったり、オタク系であったりする人間がコンピュータのプログラミング言語のことを読みかじったときに面白そうだと反応しそうなトピックがきれいに整理して入っていますね。

研究の意義をアピールしながら競争的資金を獲得する現代の研究者はこうやるのか、と勉強になります。

オッサンの食いつきの良さそうな説明が上手にできるのは重要みたい。こうやって「ポストモダン」が解毒され、成仏していく。ナモアミダンブ。