抱き合わせ商法と、夏休みに親子で読もう よくわかる日本のオーケストラの歴史

18世紀末から19世紀初めにピアノという楽器が裕福な市民に普及し始めた頃には、鍵盤の下に裁縫箱のついた小型のピアノが作られたそうです。どれくらい売れたか知りませんが。^^;;

Windows95の大々的な宣伝で「パソコン」が市民権を得はじめた頃には、「家庭用」と称してテレビと一緒になったパソコンがありました。(ディスプレイを共用しているだけで、放送とパソコンがシステム的に連携していたわけではありません。)

結局こういうのは、上げ潮・売れ筋の商品との抱き合わせで他を引っ張り上げてもらおうとする一種の便乗。芸能事務所が人気スターと売れない所属タレントをセットで売り込むのと同じことですね。

逆に言うと、抱き合わせ商法は、景気が良くて、「売れ筋」がはっきり見えている場合の手法だと思います。

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これも三人遣いで近松の原作はやりにくいのでのちの改作で伝わっていますし、歌舞伎も改作にもとづくものですね。篠田監督の映画は丸本の詞章を使っているのかな。そして一方、この映画の武満の音楽はガムランとか、わざとミスマッチなものを付けている。私たちが観ているものは何なのか、迷宮へ入り込むようなところが面白い映画かな、と思います。

60年代に篠田・武満コンビが人形浄瑠璃で映画を一本撮ったのも、前衛映画・前衛音楽がイケイケだった勢いに乗ってのことだし、ロック曽根崎心中というのもそうでしょう。結局そういうのは、上げ潮に乗っている側の手柄(しかも、数ある輝かしい業績のひとつ)にカウントされて、その作品によって人形浄瑠璃にブレークスルーが起きる、という風にはなりません。(篠田作品の場合は、大胆にアレンジしているが故に、逆に原作がどうなっているのか知りたくなりますが。)

一緒にやって得るものはあると思いますが、自分自身のキャリアは、それとは別の軸として考えなければいけない。

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日本のクラシック音楽にも、イケイケで上げ潮の時代がありました。

「もはや戦後ではない」の昭和30年代は勤め人さんの生活に余裕ができて、さほど娯楽の種類が多いわけではなかったので、娯楽と教養を兼ねたクラシック・コンサートは、格好の「いい趣味」になり得たようです。そういうライフ・スタイルの変化の受け皿として、職場の組合を母体にする労音というしくみは大成功を収めました。

ご存じの方には今更ですが、労音の仕組みを説明しますと、会員制でありまして、安価な会費を払うと、毎月の例会に参加できます。で、この例会というのは、実態は普通の音楽会です。藤原歌劇団や関西歌劇団のオペラもあるし、関西交響楽団のシンフォニー・コンサートもあるし、辻久子のヴァイオリン・リサイタルもあります。それぞれの職場のグループを束ねる本部の委員会が人選や会場の手配をして、例会という名のコンサートを開くわけですから、鑑賞団体が自らマネジメントする音楽興行です。

働く者が主体的に文化を創造する、という左翼的なニュアンスは確かにありますが、結果として動き出したものは、従来のクラシック演奏会とは縁のなかった聴衆層を開拓して、なおかつ、従来の興行主とは別ルートの自主運営ですから、「新しいビジネス・モデル」というほうが実情に近かったのだろうと思います。

大阪ではじまって、神戸労音、京都労音……というように他の地域にも広がりますが、会員が万単位になり、会場へ全員を収容できないので、一回の例会が数日間の連続公演になっています。兵庫藝術文化センターの8日連続でやるオペラ公演みたいなのが、大阪、神戸、京都それぞれで毎月行われていたわけです。今月は、大阪労音が「関響・シンフォニーの夕べ」7日公演、神戸労音が藤原歌劇団の椿姫6日公演、京都労音は関西歌劇団の「赤い陣羽織」4日公演、みたいなことになっていたわけです。

関西交響楽団は、関西歌劇団と一体ですからその公演に参加するのは当然ですが、東京のオペラやバレエが来たときにも、歌手・バレリーナと指揮者だけが来てオケピットは関響ということがありましたから、労音があり、様々な出演依頼が来ることが経営を安定させる上で大助かりだったと思います。1950年に月給制に踏み切った関響(http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20120731/p2)がなんとか軌道に乗ったのは、京都の映画五社と契約したのとともに(http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20120808/p1)、労音があったおかげと見て間違いないでしょう。

しかも、労音に対抗して経営者側が作った音楽文化協会という鑑賞団体もありましたし、朝日会館には大学生の鑑賞団体「朝日会館音楽学生友の会(AGOT)」というのもありました(ちなみに、ザ・シンフォニーホールのいまいちフレンドリーではなく厳格なレセプショニスト軍団がAGOTの現在の姿)。

「もはや戦後ではない」の昭和30年代に、オーケストラが「もはや河原者ではない」生活ができるようになったのは、のちの新中間層となる勤め人な方々をしっかり取り込むしくみがあったからだと思います。

こんな夢のような時代があったのです。

(團伊玖磨の「夕鶴」や大栗裕の「赤い陣羽織」といった創作歌劇運動も、こうした新しい聴衆・鑑賞団体の追い風があってこそですから、その意味では、日本の伝統に根差す歌劇の創造というのは、クラシック人気に便乗した一種の抱き合わせ商法かもしれませんね……。)

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で、それじゃあ、当時毎月のようにクラシック・コンサートへ通ってくれていた「新しい聴衆」の皆さん、せっかくクラシック業界が獲得したたくさんの新しいお客様は、そのあとどこへ行ったのかというと、1960年以後、さらに生活が豊かになって本当の「新中間層」になり、残念なことに、アフターファイヴを街場ではなく家庭で過ごすようになったのでした。(そして労音は、若い会員の声に押されてポピュラー音楽中心になっていきます。ここに中村とうよう氏がからんで関西フォークを仕掛けたのは有名。)

かつては若夫婦が都心の大家さんの家の二階に間借りして、狭いし、クーラーなどない時代ですから、仕事のあとはどこかで待ち合わせて映画を見たり、コンサートへ行ったりして過ごしていたのが、郊外に家を持てるようになって、(サザエさん一家のようなもので)電車通勤になったことでもあり早々と帰宅して、美智子様御成婚で普及したテレビのある自宅の茶の間で晩酌しながら野球を観るようになったわけです。

(王・長嶋の巨人入団で、プロ野球が国民的スポーツになるのは昭和30年代後半、それまでは六大学のほうが人気だったと言われています、プロ野球はテレビ局が「創った」お茶の間向けコンテンツです。「お茶の間の団欒」が解体した平成に入ってサッカーに人気を奪われ、五輪のなでしこに「国民」が一喜一憂する今日へ至ります。閑話休題。)

レコードはロング・プレイ(LP)のステレオ録音が出てきて、クラシック音楽のステレオ鑑賞が一般化して、LP&ステレオにぴったりに「美麗な音」の指揮者カラヤンが「帝王」と呼ばれるようになって、吉田秀和先生は、現代音楽の旗振り役から、市民が自分の頭で考える音楽観賞の指南役に転向して、FM放送もはじまったので、クラシック音楽は、家で聴けば済むことになっていくんですよね。

片山杜秀の本(5)線量計と機関銃──ラジオ・カタヤマ【震災篇】

片山杜秀の本(5)線量計と機関銃──ラジオ・カタヤマ【震災篇】

しつこく紹介しますが、この本、FM放送のはじまりの話も出て来ますよ。

(そして大阪国際フェスティバルや万博には、日頃LPレコードで聴きなじんでいたあの指揮者、あのオーケストラ、あの歌劇場の実物が来るのですから、コンサートは、お金を貯めてそういうときだけ行けばいい。クラシック・コンサートとは「外タレ」を観に行くものだ、ということになり、『音楽の友』のような音楽雑誌は「外タレ」情報誌の性格を強めていきます。)

業界全体としてみれば、レコード鑑賞や大物来日公演ラッシュでますます盛況ではあるけれども、街場で日常的にコンサート興行を打つ人たちのところには、昭和30年代前半ほどの実入りがなくなっていくわけです。

郊外にマイ・ホームを構えたパパさん、ママさんが子供たちの「ピアノのおけいこ」に熱心で、爆発的にピアノが普及して、子供たちが中学・高校になると吹奏楽部に入る、という流れができたのも、たぶん、1960年代以後です。音楽業界という括り全体でみれば、「新しい聴衆」をしっかり取り込んでライフ・プランができています。日本のクラシック音楽は、権威にあぐらをかくどころか、戦後かなり頑張ったのではないかと思います。

でも、地元の音楽家が街場で定期的にコンサートを開く、という形は、産業としてのクラシック音楽の中心ではなくなっていくんですよね。そしてその分水嶺は1960年代だと見ることができそうです。(日本の映画産業がテレビに負けて斜陽化したのとほぼ同時期に、ほぼ同じ事情で苦しい立場に追い込まれたわけです。)

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そして、これは正確なデータを確認したわけではないですが、おそらく、オーケストラなどの演奏団体に公的な補助金が本格的に入るようになったのも1960年代以後(もしかしたら1970年代から)ではないかと思います。

大きな流れとしては、別に、権威主義や見栄のために、誰も行かないクラシック(西洋古典藝術音楽)に金を出しているわけではなくて、一時は自主独立に向かって船出しかかっていたかに見えた団体が目論見通りにはいかなくて、でも、その志とこれまでの実績、存在意義を考えればこのまま潰すなど考えられず、これからさらに活躍していただきたいので(←東京五輪や大阪万博など「世界の中の日本」を発揚するイベントが続いた時代だったことを想起せよ)、だったら、公的な支えをしましょう、ということだと思います。

為政者の方々が重視する「一般納税者の意向」ということを考えても、1960年代70年代は、「今はコンサートには行かないけれども、若い頃には労音でクラシックを聴いたことがあるし、実は、今の家内と出会ったのは労音の例会で……」というような世代が働き盛りだった頃ですから、一人当たり数十円の負担だったら、文化・藝術にお金を出してもいいんじゃないの、若い頃とってもお世話になった人たちだから……、と思えたのではないでしょうか。(しかも1970年代は、「福祉元年」などのスローガンで税収を市民生活へ還元する方向へ行政が動いていました。公害問題で大企業優遇の産業振興政策が批判を浴びていたときでもありますし。)

当時の「新中間層」第一世代には、漠然とした抽象的な「教養」ではなく、具体的な体験として、クラシック音楽に触れる機会が人生のなかにあったのではないか、だから、文化・藝術団体に公的な助成をする行政、「社会の文化財としての音楽」という発想が、当時は「民意」とさほど大きく乖離するものではなかったように思われます。(具体的に検証したわけではない推論・仮説ではありますが。)

片山杜秀の本(5)線量計と機関銃──ラジオ・カタヤマ【震災篇】

片山杜秀の本(5)線量計と機関銃──ラジオ・カタヤマ【震災篇】

再びしつこいですが、この本、公害の話題も出て来ます。

そして大栗裕にも、「フラワーバレエ 花のいのち」と構成組曲「淀川」という公害告発ものがありますよ。

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今の「世論」を作っていくような方々、これから「世論」の担い手となって世の中の方向を決めていくような方々から見たら、1960年代70年代が働き盛りだったような人たちというと、おじいちゃんか、それより上くらいの年代ですから、今となっては、どうして日本人があんなに一生懸命オーケストラなんていう面倒なことをやり続けているのか、そして、そんな酔狂な活動に税金を入れなっきゃいけないのか、もう、経緯がわからなくなっていたり、そういうことはナンセンスだと思う人が増えても、仕方がないかもしれません。

「昔は日本のオーケストラというのは結構ブイブイ言わせていたし、おじいちゃんたちの世代がお世話になった人たちなんだよ、世の中がもうけ主義に走りすぎたことを反省する意味でも、あの人たちにお布施をしなくちゃね、ありがたや、ありがたや」

と言われても、そーいうのはキトクケンエキって言うんだよ、と切り捨てる格差社会の語法を子供たちは身につけていますし、オトーサン・オカーサン世代は、ゲージツと遊び、高級文化と大衆文化なんて区別は形だけのものなんだよ、というソータイ主義で育った人たちで、よくわからないものの「価値」にどう対処したらいいのか誰も教えてくれませんから、辛いですよね。

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同じ主張の繰り返しになりますが、でも、問題はそういうことで、文化への公的助成をどうするか、というのは、ほぼ、おじいちゃんの世代にはじまった、いってみれば「昭和の家族の歴史」の問題だと思うのです。

押し入れの奥に入れてあるおじいちゃんの若い頃の「ガラクタ」にしか見えないかもしれないものを、家が手狭になったから捨ててしまおうか、いやいや、おじいちゃんが生きていた間は大事にしていたものだから、そう簡単に遺品を捨てちゃダメなんじゃないか。そもそも、あれはいったい何なのか?

というような話が家族のなかで行われるきっかけになればいいんで、そういうのが、地方自治の文化行政の適性サイズじゃないかと思うんです。

おじいちゃんの遺品をどう処分するか、というドメスティックな話をしているときに、「文化を守れ」「藝術を冒涜するな」と言われたら、家族はびっくりですよ。

そして、「知り合いに聞いたら、これは結構イイ値段で売れるらしいよ」みたいな話を親戚の誰かがもってきたとしても、本当に売り払ってしまうかどうかは家族の判断に任せるしかないし、「売らなきゃ損ですよ!」とか、「私の言うとおりにしたら間違いないから」と口うるさく言うのは、なんだか、金の臭いに群がるハイエナみたいですよね。

テレビのお宝鑑定番組を観ていても、おじいちゃんの遺品をもってきたご当人は、鑑定額が高ければ高いほどいい、ということではなさそうだし、そのあたりの様々な反応に人間模様が見えるところが、あの、もとはといえば上岡隆太郎の発案であるらしい番組の面白いところでもあったわけですよね。

まして、「抱き合わせ商法だったら、けっこう行けると思いますよ」と進言するのは、遺族の感情を逆撫でしてしまいそうで、私だったら、よう言わんな(笑)。

そういうご時世なのかねえ、ということで、遺品を預かるご当主は、にっこり微笑んで「アドバイス、ありがとうございます」と言うでしょうけれど……。

(大植英次という人は、コンサートは先代の後継ぎっぽく真面目にやって、ど派手な新企画をブチ上げるときは、御堂筋&大阪城ですから、昭和の大阪のシンボルのような場所をピンポイントで狙う形になりました。大阪城が昭和の建築だ、というところまでわかっていたのか不明ですが、直感・第六感だとしても、うまく老舗の二代目らしい形にはまったんですよね。文楽で、そういう風に上手に物事を差配できる人材はいないのかなあ。冬場は御堂筋の電飾、夏場は道頓堀プール、と、相手陣営はハリボテ感満点に隙だらけですから、この「手番」はそれほど難しい局面じゃないと思うのですが。)

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第1に、大阪のオーケストラ問題にせよ、文楽問題にせよ、具体的なところへ落とし込んでいくと、話は、親・子・孫三代くらいのスケールの「家族の問題」になっていくんじゃないかということ(歴史が絡むといっても、それ以上深く掘り下げては収拾がつきません)、

第2に、だからこそ、この数十年オーダーの歴史については、ひとつひとつの襞を丁寧に解きほぐすような態度じゃないと、色々な感情のもつれがあとに禍根を残すであろうということ(遺産相続で親戚関係が険悪に、っていうのはありがちですよね)

私はわりあい最初からそういう風に思っていて、だから、アンチ橋下でもなければ、橋下派でもなく、ただ単に、それなりの来歴のある文化を当主として切り盛りする人たちは大変なんだろうなあ、何かお手伝いできることがあればいいけれど……、と思うばかりなのです。

どうしてみんな、他人の家庭の問題に首をつっこんで、日本国の一大事みたいに騒ぐのだろう、と、そればっかり思うのですよ。

(千年の都・京都の町の人たちだったら、そういうのが日常茶飯事で、というより、あの町では、そういうことこそが日常みたいなところがありそうなので、こういう案件の扱いはもっと上手なんでしょうけれど……。)