自分で組んだプログラムを解説するのは難しいと思うのですが、それにしても、以下のお話は時節柄アウトかもしれないのでご注意ください

いずみホールの先の演奏会の曲目解説が公開されています。

前世紀のパリと、現在の大阪。そして、いずみホールの空間を巡る様々な音。本日の公演では様々な意味で、時間と空間の、拡がりと繋がりを体感して頂くことになるでしょう。

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コンサートへ行くと、(1) 入口で冊子をもらって演奏前に解説を読んで、(2) 実際に演奏を聞いて、(3) 事後に色々な評判を見聞きすることになるわけですが、私はこの演奏会へ行っていなくて、逆の順序で、数日ずつの間をおいて、(3) ネット上で気になるつぶやきをいくつか見聞きする → (2) 委嘱新作の音源を作者さんとサイトで聞く → (1) 曲目解説を読む、と時間を反転して、物事の震源を探り当てるようなことになりました。

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行かなかったけど内容が気になる演奏会、というのは、こういう仕事をしているといくつもあります。普通は、この人がこう言っていて、あの人がああ言っているのだから、およそ、こんな感じだったのだろう、と当たりを付けて自分なりに納得するのですが、

この演奏会に関しては、あれまあ、あの人があんなこと言っているよ、そうかと思うと、この人はこんなこと言ってるじゃないか、いったい、どうなっているの??? という感じであまりにもわけがわからないので、(余計なこととは思いながら)「演奏会に行かなかった理由」まで書いてしまいました(←気になる人は過去ログを探してください)。

肝心なことを見せずに焦らす広告手法、ティザ広告(言うほど新しい手法ではないと思う)というのがあるそうですが、ジラしただけの結果が得られないときは信用を失ったり、反感を買いますから、言えるときが来たら率直に情報公開する、というのとセットにしないと悪質なヤリ逃げですよね。

メディアと知識人 - 清水幾太郎の覇権と忘却

メディアと知識人 - 清水幾太郎の覇権と忘却

その渦中にこの本のことが少し話題になったりして、ジャーナリストの差異化戦略というのが仮説としてありうるそうですが……、でも、戦略の辻褄が合わなくなって自滅するのは、通常「策に溺れる」と言いますよね。

清水幾太郎は、本人が言うほど策を弄する人ではないし、失礼ながら、策を弄する文章が書ける人ではなかったと思う。むしろ、清水の転向問題を論じる竹内先生のほうが、ここでは、やや策に溺れかけているんじゃないか、と思ってしまいました。

以前からよく言われていることですが、非転向を貫く亡命、という選択肢のない状況下での転向は、確かに悲惨なことですが、思想や倫理の問題としての転向論をここから展開するにはなじまない気がします。生命の危機を見据えたギリギリの処世で、むしろ、文学が発生してしまう……。そして清水幾太郎がジャーナリストだったというのは、文学を発生させる方向へ自分を追いつめる人ではなかった、ということではないかと思います。どちらが良い、悪い、というのではなく……。(そしてむしろ丸山真男のほうが文学的だから、みんな、そっちばっかり読み返す、ということなのではないか。)

閑話休題。

そういう荒っぽいヤリ逃げをやるはずなどなく、策に溺れなどとんでもないことであり、当たり前のようにさりげなく、何がどうなっているのかがわかる手がかりを出してくださっているのは、ホールの姿勢を示す有難いことだと思いました。

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酒井さんの曲の解説を読んで、やっぱり「オーケストレーションが上手い人」でよさそうだな、と思いました。そしてこういうタイプの曲が「心に響かない」というのは、標題のある音楽にはよくあることで、リヒャルト・シュトラウスはつい最近まで「表面的だ」と言われていたり、このタイプのテクニックが初演後100年くらい色々言われ続けるのは、この道を選んだ人の宿命のようなものじゃないかと思いました。

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そしてそれより何より、大久保賢を怒らせたプログラム・ノートがどれほど傲慢な調子だったのか、と、野次馬的に興味津々だったのですが……、普通じゃないですか。一定のコンセプトでプログラムして、全体の趣旨が通るように、多少ショウアップしながら説明したら、こういう流れになることはあり得るんじゃないかと思いました。

むしろ、読みながら思ったのは、タイトルにしましたが「自分で組んだプログラムを解説するのは難しい」ということでした。

コンサートの曲目を決めていくのは、こういう曲があって、これこれだからやる意義がある、と関係各方面へ売り込む仕事ですから、どうしても、発想や語法が「営業マン」になる。その曲を知らない人に良さを伝えたり、知っていても興味を持ってくれない人には新しい切り口を提示したり、という風に、プレゼンの技法を駆使しないといけないわけですよね。

(そういえばわたくしも、足下にも及ばぬローカルな仕事でしたが、4月の大栗裕演奏会のときには選曲のお手伝いをさせていただき、大栗文庫へ発起人の先生方がいらっしゃったときには、間髪入れずに万博の記録映画で大栗裕の曲をバックに万国旗が掲揚されるかっちょいいシーンを観ていただくとか、「大証100年」はLP音源をデジタル化してiTunesですぐに聴けるようにしておく、とか、そんな工夫をしたことがありました……。)

周囲が何をやろうか、本当にこれで大丈夫なのか、と迷っているときに、「背中を押す」のが営業マンの仕事ですから、勢いよくポンと押し出しのいい見せ方をするのは、そういうものだと思います。スタートを勢いよく切るためにハッパをかけて盛りあげるのが役目ですから。

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ただ、コンサートの現場での演奏前の解説は、語りのモードがちょっと違ってくると思うんですね。

お客さんは、既にチケットを買って、万障繰り合わせてホールへいらっしゃって、客席にスタンバイしてくださっているわけです。その日の演目なり演奏者なりに関して、まったく予備知識ゼロということはありえない、と考えるほうが常識的であろうかと思います。(仮に知り合いに誘われただけであったとしても、そのお知り合いが誘うときに「何か」を言ったはずですし。)

でも、それじゃあどういう理由でここへお集まりくださったのか、ということは、原理的には、スタッフであろうとプレイヤーであろうと、わからないわけですよね。

主催者側の思惑通り、マリオネットが意のままに操られたかのようにここへ来た、と考えるのはお客様に対して失礼だし、そうかといって、事前に予習してくるのが当然だから、一切何も説明しない、というのは不親切だし、お客様に色々探りを入れるようなことをするのも、不快感を与えるので、慎んだほうがいい。

お客様のおもてなしをするのはプレイヤーの仕事である、と割り切って、淡々とデータ・情報の提示に徹する(=サービス精神を意図的に限りなくゼロのままにする)というのも、音楽学者が解説を担当することが増えてきたここ数十年のひとつのパターンであろうかとは思います。

でも、プログラムも公演の要素のひとつだと考えて、コンサートへの期待を高めるアペリティフのような役目を果たしうる、という考え方もあるはずで……。しかしそうなると、先述のようにコンサートのお客様の本番前のコンディションというか胸の内というのは本当にデリケートで千差万別ですから、お客様に何らかの形で働きかけるような解説を書こうとすると、相当慎重に言葉を選ぶことになるように思います。

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演奏家自身が書く場合は、自分が舞台を切り盛りする当事者だし、自分はこうする、という覚悟ができているところで言葉を発するので、ある意味わかりやすいです。責任の所在がはっきりしています。

で、プログラムを組んだ人間はプレイヤーに準じる立場と見えなくはないので、選曲意図をそのまま書けばいいようなものですが、そこが落とし穴なのではないか、という気がします。

たぶん、プログラムの解説は、営業マンの語法から接客業のモードに切り替えないと上手くいかないと思うのです。営業マンが、取引先の社長さんのお相手をするような調子で接客すると、それこそ、展示会とか、接待の宴会みたいに、言葉では相手を持ち上げているのだけれど、衣の下の鎧のように妙にギラギラした商魂が見え隠れする独特のハイテンションになる。そのいざとなったら実弾が飛び交ってしまいそうな、相手の感性というより欲望にターゲットを絞るような語法は、コンサートのモードとは、ちょっと違うと思うんですよね。

第三者が解説する場合は、最初から「聴く人」の立場しかないから、かえってフラットに書けるのだけれど、なまじプログラミングに関与していると、かえって、語法を間違えそうになることがあると思うんです。

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私は、自分で大栗裕演奏会の解説を書いたときに、選曲・売り込みと解説の気持ちの切り替えが予想以上に大変なものなのだと思い知ったところでもあり……、この解説を読ませていただき、営業(プログラムアドヴァイザー)と解説の一人二役をこれだけつつがなくこなすのは立派、デキる人は違う、と思ってしまいました。営業(プログラミング)の言葉をそのまま解説として機能させる術を心得ていらっしゃる。しかも、ご本業はそのどちらでもない「作曲家」であって、解説文は全体をあたかも大きな組曲であるかのように言葉の力で作曲する感じがあり、こういうお仕事を続けられるのはストレスフルに違いないし、ときにはバカな市長の悪口をつぶやいて、気晴らしもしたくなるだろう、と思いました。はい。

でも、大久保さんは潔癖で、不純物質に触れると理性の前にほとんど生理的な嫌悪感を覚えてしまわれる方で(それは評論家のひとつの資質とも言えるかもしれない)、しかも、批評を書く前提だったそうですから色々なセンサー感度が最高に極まっていらっしゃって、それで激怒、ということになったのかもしれませんね。

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投機によるお金の泡がブクブク涌いていた頃に企業メセナということがさかんに言われて、でも、10年、20年続けることができているところはほとんどなくて、続いているところは、我々に見えないところでビジネスパーソンな方々とのせめぎあいを闘い続けるタフな方々がいるのだと思います。

いずみホールが続いているのは、柱になるところにビジネスのロジックに対する盤石の隔壁(耐震強度も問題なし)という感じの館長がいて、その傍らに、ビジネスのロジックを浴びることで異形の怪物に変貌するゴジラみたいな作曲家(失礼!)がいらっしゃるからなのかもしれませんね。戦時中の弾丸列車計画の流れを汲む超特急で首都の精鋭部隊を東北方面へ展開した実績で知られる指揮者さんが派遣されておりますから、布陣は盤石です。わたくしにはとうてい近寄れない立派さです。こうして書いているうちに気付きましたが、最強の傭兵部隊なんですね、たぶん。

(印象は西村朗と全然違いますけれど、武満徹は、セゾンを巻き込んでミュージック・トゥデイをずっと続けたり、日本の作曲家のなかでは、ビジネスのロジックを浴びることで益々しぶとく強靱になる一種の「ゴジラ力」が例外的に強かった人ではないかと思います。映画音楽やポピュラー音楽だったら、他にもこういう体質の人がいそうですが、シリアスな洋楽の作曲家でメセナに親和的な体質の人はたぶん希少、と思います。)

うっかり油断すると「営業の言葉」がそのまま外部へ流れ出す危険なコアが稼働している場所ではありますが、おそらく、日常的に浴びても人体に影響のない量というのがあるのだと思いますし、ヒステリックに反対運動を展開することはないんじゃないでしょうか。

改めて思い返すと、私がこの演奏会にこだわってしまったのは、油断すると危険度が臨界に達する可能性のある場所に対して、あまりにも安易に「安全神話」がまかりとおっているのではないか、と直観的に不安を覚えたのであったような気がします。

安全じゃないところへ安全だと思いこんで行くからセンサーが失調してしまうわけで、線量計が振り切れそうなところへ潜入するときには、それなりの備えをすればいいのだと思います。メセナを稼働させるというのは、ビジネスに実弾として投入できるはずのお金を文化へ平和利用するのですから、どこで安全が担保されているのか常に際どい綱渡りなのであろう、と、改めてそう思いました。(いざとなれば、直ちに実弾へ切り替えることが可能でもあるわけで、そうできるのにそうしないところが企業の度量、まさしく「抑止力」なのだと思いますし……。)

「民間では考えられない」という語法で言われるところの「民間」の最前線とは、こういうところ。大阪府庁とはお城を挟んだ反対側のすぐご近所。大阪市庁からだったら、目の前の川を天満宮過ぎたちょっと先まで遡ったあたりで、それが稼働しているわけですね。

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若干話の文脈が変わりますが、結局私は、ずっと一貫して現代音楽は「安全」ではないと思っているし、そのつもりでつきあえばいい、と考える派なのかなあ、と、ひととおりの全体像が見えたところで、改めてそう思いました。(その「危険度」は純音楽的に制御可能であるとは限らず、様々な文脈へ漏れ出すことがある。たとえばフルクサスとか、第一次大戦の頃のダダどころじゃない極悪人じゃないですか。)そして、「安心・安全」という見せかけなしに、こちらが死んでしまわない程度には危険を感じてみたい愚かな俗物の欲望を捨てることができないようです。ホールの関係者の方々は終始一貫して「うちは安心・快適です」という姿勢でお仕事をしていらっしゃって、確かにちょっとありえない信頼度でその状態をキープしていらっしゃるのですから、わたくしの物言いは露骨に営業妨害なのですけれど、でも、現代音楽が安全でいいのだろうか、これだけの布陣だったら、本当は一触即発なんじゃないか、そのスリルを味わってみたい、という思いを捨てることができないんですよね。一口に言えばバカです。でも、カーニバルみたいなもので、ときにはそういう風にエネルギーを開放してもいいのではないかと……。

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ウィキペディアによると、テレビで放送するときには邦題を「ピエロ・ル・フ」と言い換えたりするそうですね。色々本当に大変なんですね。

大久保さんのほうが、そういうものをみだりにお客様の前に出してはいけないと考えて平和を希求される方なのだと思います。文体というか論の運びも、ときとして吉田秀和そっくりになりますし……。

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戦後、わたしたちは、文化・芸術という領域の意義をまずは民主主義的な団体行動と隣接するものと位置づけて、そのあと、万博の祝祭と社会福祉(富の再配分)を経て、今度は、消費行動のメニュー(コンテンツ)のひとつの捉え直すようになった。

ひとつ前のエントリーでご紹介した労音という音楽観賞運動の時代と、音楽を提供する側がメセナという資本をエンジンとするしくみを考案した時代は、そういう構図のなかに置くことができるのではないでしょうか。

そしてこのような見取り図を手にしておくと、文化・芸術の庇護者としての公共団体というのは、ピラミッドの頂点に君臨して常に主導権を握っているというより、横並びに群雄割拠する様々な選択肢(コマ)のひとつ、という風に捉え直すことができるかもしれません。

そういう見方のほうが、東日本の「タテ社会」に対して「ヨコ社会」だと言われる西日本文化圏っぽいような気がするんですよね。

東と西の語る日本の歴史 (講談社学術文庫)

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中之島や大手前の役所がシブチンになったんだったら、大阪城脇にビジネス街を展開したり、梅田新道に高い塔(その名も不死鳥フェニックス!)を建てている大企業さんに身を寄せて、しばらく様子を見てみましょう、ということで。