大阪フィルハーモニー協会『関西交響楽団/日本映画音楽演奏録音全記録』

ここには書けない問題でかなり精神的にダメージを受けているのですが(←入院していた父親は無事回復・退院しましたので、そういうのではありません念のため)、これはご報告しておかねばならない、と気力を振り絞りまして!

一連の朝比奈隆演奏記録のほか、4月の大栗裕演奏会にあわせて関連資料をまとめてくださっている大阪フィル顧問(元事務局長)の小野寺昭爾さんによる労作です。

大阪フィルに残る関響時代の事業記録をもとにまとめた、関西交響楽団の京都での映画音楽録音の全記録です。(送料込み600円で販売とのことなので、関心のある方は大阪フィルへお問い合わせを。)

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関響が1950年から59年まで、当時全盛期を迎えていた京都の撮影所と契約して、映画音楽の仕事をしていたことはこれまでにも語られてきました。小野寺さんが記録をまとめていらっしゃることも聞いていたのですが、遂に公開ですね。

大映・松竹・東映の三社と契約して10年間で1541作品の演奏を担当して、その収入は、オーケストラの総収益の45%を占めていたそうです。

録音は、満足な音響設備がなく、制作スケジュールの関係もあって、ほとんどが終電後の真夜中からスタートして、翌朝まで徹夜が当たり前だったのだとか。

この時期の関響は西日本唯一のプロオケとして今とは比較にならない需要があったはずですし、前のエントリーでご紹介した労音の仕事もありました(http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20120803/p1)。それだけの公演をこなした昼間の仕事に、真夜中の映画の仕事を加えて、ようやく経営が成り立ったということですね。

オーケストラが演奏活動だけで「自立」するのがどれだけ大変か。やれ、と外から掛け声をかけるのは簡単ですが、実際にやるとどういうことになるのか、身をもって示した日本のオーケストラ史の貴重な1ページと見ることもできそうです。

(こんなことを続けていては身体が持たないし、演奏活動に支障を来すということで、1960年4月に、関西交響楽団はコンサート専門の大阪フィルハーモニー交響楽団と、映画音楽の仕事を続ける大阪交響楽団に分かれることになりました。

もし、万が一これから日本のオーケストラが公的補助なしにみんな自活しろ、ということになったら、この歴史をもう一回辿り直すことになるかもしれない、ということでもあると思います。やれ、と言われたら、生きるためですから、みなさん、なんとかすると思いますけどね。でも本当にやらせるの、それが本当に人の道なの、ということになるかと思います。)

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何年何月何日にどの会社の録音があった、ということまでは10年間にわたって記録があって、すべてではないですが、どの日にどの作品を録音したか、という作品名も出ています。

私はそれほど日本映画に詳しくないので、大映の晩年の溝口作品のほぼすべての音は関響だったんだ、というような感心の仕方しかできませんが、片山杜秀さんとか、その方面に詳しい方は、様々な情報をここから得ることができるんじゃないでしょうか。

たいていの作品は一日で一本分撮り終えるのだけれど、大物作曲家を迎えた大作になると、録音セッションが数日にわたることもあったようです。で、録音が何日もかかっているところから、逆に、黛敏郎や團伊玖磨が担当したこの映画は大作・力作だったんだな、ということが推測できたりもできそうです。

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大栗裕がホルン奏者から作曲家へ転身したまさにその時期ですから、彼はこのうちどれくらいのセッションに参加していたのだろう、というようなことも気になります。(大栗裕は、戦前、天王寺商業学校の在学中や卒業後にも、アルバイトで当時実用化されたばかりのトーキー映画の録音や簡単なアレンジをやっていたらしいので、自ら映画音楽を担当するチャンスはほとんどありませんでしたが、映画録音の現場とは浅からぬ縁があったと言えそうです。)残念ながら、今回の記録にどの楽員がどのセッションに参加したのか、ということまでは出ていませんが、ひょっとすると、大フィルさんの記録をみると、あの映画のなかのホルンは大栗裕の演奏、というようなことが特定できたりする可能性があるのでしょうか?

特に私が興味をもったのは、内田吐夢「大菩薩峠」全三作(1957〜59年)をすべて関響がやっている、ということでした。

御詠歌が使われて、雄大な山並みをバックにフルオーケストラが響く深井史郎の音楽はいかにも大栗裕好みですし、1961年の「雲水讃」の冒頭とこの映画の音楽は共通点が多すぎると以前から思っていたのです。もし、大栗裕が録音セッションに参加していたとしたら、この音楽の記憶を2年後の「雲水讃」の参考にした可能性がないとはいえない。仏教に関心を強めていた時期ですから、映画に御詠歌が出てくることが気になったかもしれませんし……。

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巻末には当時の楽員さんの回想文も収録されていて、そのなかで、深夜の映画録音の思い出とともに、1956年末に民放の大阪テレビOTVが開局して、毎日、放送開始時に室内楽の生演奏をしたことが語られたりもしています。

その頃のOTVのディレクターが、ご自身も大阪音大出身の石田健一郎さんだったのだとか。

石田さんは半世紀を経た現在もABC朝日放送の音楽番組のディレクターとしてご健在で、先の大植英次番組では、ブルックナーの演奏収録の撮影監督でしたし、放送で使われた映像は、バーンスタインのショスタコーヴィチ「革命」や朝比奈隆のブルックナー9番から、星空コンサートの「1812年」のクレーン撮影まで、ほとんどが石田さんの撮ったものです。

この記録は、小野寺さんが長年準備を進めてきたものですが、冊子にまとまったものをこのタイミングで手にすると、関響/大フィルの歴史について、色々考えさせられます。