「赤いウィーン」に労音があった?(岡田暁生『楽都ウィーンの光と陰』では寸断されてよく見えないもの)

[追記:「赤」がきれいに映えるように(笑)、関連書の紹介を大幅増量しました。]

楽都ウィーンの光と陰

楽都ウィーンの光と陰

先に、岡田暁生『楽都ウィーンの光と陰』ははるか遠いヨーロッパという鏡に映った像によって自分を語る本に思える、と書きました(http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20120807/p1)。

その限りで比較的きれいにまとまった本ではないかと思ったのですが、ちょっと気になるところがあったので調べてみました。

結果的には、小さな穴と思ったものをきっかけに壁がボロボロ剥がれ落ちるような感じがしてきまして、ウィーンは容易ならざる都市だと改めて思います。

西洋近代藝術音楽という鏡にうまく映すことのできないものが2つあって、ひとつは、彼の一連のピアノ演奏論に呪いのように出現する身体性。そしてもうひとつが、20世紀への展開を考えるときに欠かせない大衆/労働者。そんなお話です。

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岡田暁生がこのところジャズにご執心なのは、「抑圧された民であるところの黒人による肉体のほとばしりであるところの即興演奏」に帰依することで、身体と大衆という2つのアポリアを一挙に解決したい、という西洋にかぶれた知識人の願望(かなりベタですけれど(汗))という気がします。

そして、ジャズが苦悩する近代知識人の救世主なのかどうかはともかく、モダンジャズの手引きをしてくれた同僚かつ友人として彼が名前を出す小関隆さんのご本業の研究テーマが、他でもなく19世紀イングランドの労働者の余暇活動(クラブ)だというのは、とても興味深い巡り合わせだと思います。

近代都市とアソシエイション (世界史リブレット)

近代都市とアソシエイション (世界史リブレット)

イングランドのジェントルマンがカフェに集い、新聞を読み、議論を闘わせて、地縁血縁ではないアソシエーション(クラブ・結社)を作るところから近代市民社会=読書する公衆による公共圏が生まれた、という話は、ハーバーマスの「市民の公共圏」とか、アンダーソンの「想像の共同体」としての国民国家とか、近世・近代の各種中間団体に関する文化史・社会史とか、カルスタのサブカルチャー領域における近代論とか、今ではあちこちで耳にたこができるほど繰り返されています。(私のような者が、スラスラこういう文字列を綴ることができてしまうくらいに。^^;;)

そのひとつひとつは意味のある議論だと思うのですが、この話題は、そういう話をしたがる時点で一定の知識欲があるわけですから、「自分自身はこの構図のなかのどこにいるのか」という案件をどこかで処理しなければいけなくなって、議論のなかに「私」が映り込むことになる。

しかも便利な世の中になったもので、知識人の社会学というのがあり、自分の生まれや育った環境を文化資本、経済資本というように資産に見立てて、おみくじや血液型占いみたいに、あなたの位置はここです、という答えが出せるしくみが考案されています。「自分探し」も、今ではお手軽ラクチンになりました。(^^)

知識人社会学という占いの結果が「吉」と出た人は、全部受け入れて、今の世の中はこうなっている、と意気揚々と上から目線で世間を斬るようになるし、結果が「凶」と出た人は、下から見上げる意地悪な口調になるか、逆ギレして、そんな占いをオレは信じない、とテーブルをひっくり返して、別のルールで別のゲームを始めたくなる。そうやって混沌と荒れていく場を「論壇」と言うようです。

「大衆」や「労働者」というのは、この種の「あなたの知識人度チェック」において、そこへの近さや遠さが数値換算される定番のチェック項目のひとつになっていて、市長さんが「それはインテリの言い草にすぎない」とか、「大衆のほうを向け」という言い方を好むのは、それが論壇で技あり・有効と判定される可能性があることを知っているからですよね。こういうことを言っておけば、その発言の是非をめぐって「インテリ」を「論壇」的な領域に足止めして時を稼ぐことができるとわかっているわけです。

そして、なんかもう、そういう言葉のプロレスは飽きたなあ、と思っているところへ、(ジェントルマンのクラブではなく)労働者のクラブ活動という話題に出会って、不意を突かれて、とても新鮮な感じがしました。

ジェントルマンな方々の思惑を知ってか知らずか、労働者な方々が上からの啓蒙(合理的レクリエーション)を乗り越えて、自分たちで余暇の集いを切り盛りするようになっていった、というのは、「知識人度チェック」の一方の極としての大衆とか、階級闘争風の「大文字の他者」としてのプロレタリアートというのではなく、そこら辺にいて、会えば普通に話ができそうなおっちゃんたちの話で、日本で戦後、労音を組織したりしたような人たちのご先祖様はこういう人たちなのかな、と思いました。

大衆とか労働者という言葉を持ち出すときに、大衆と知識人、労働者と中産階級、という対立を過剰に煽るのではない20世紀があったはずだよなあ、と思うわけです。大多数はそこまで肩肘張らずに生きていたはずですし。

「大衆」「労働者」は、ひとりひとりを特定・識別できない群衆(グランド・オペラにおける合唱のように)として扱って、単品で使うときには、映画のエキストラみたいに視界の隅っこに配置する。そういうアングルを21世紀になっても維持する欲動とはいったい何なんだろう、と思うんですよね。

教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化 (中公新書)

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丸山眞男の時代―大学・知識人・ジャーナリズム (中公新書)

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革新幻想の戦後史

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メディアと知識人 - 清水幾太郎の覇権と忘却

メディアと知識人 - 清水幾太郎の覇権と忘却

「論壇」っぽい議論へのうんざり感といいますと、ここでの本題からは外れますが、たとえば、丸山眞男は戦後日本で西洋的な意味での「市民の公共圏の知識人」の本流を演じる特異点であった、という前提の元に展開される竹内洋先生の和製知識人社会学は、図式がわかってくると、もういいんじゃないかなあ、という気になってしまうんです。

そして実際に丸山眞男自身の書いた文章を読んでみると、(「超国家主義の論理と心理」は引き締まった文体だけれども、実はあれは例外で)

〔新装版〕 現代政治の思想と行動

〔新装版〕 現代政治の思想と行動

ほかは文字がびっしり詰まって冗舌で、この文章の書き手は重度の活字中毒を患っているのではないかと、私などは思ってしまいます。

日本政治思想史研究

日本政治思想史研究

忠誠と反逆―転形期日本の精神史的位相 (ちくま学芸文庫)

忠誠と反逆―転形期日本の精神史的位相 (ちくま学芸文庫)

ほぼヘーゲルからニーチェまで、バルザックからプルーストまでと言えると思いますが、19世紀活版印刷全盛期の文字がびっしりつまったぶ厚い「本」を平気で次から次へと読み進むのは、「教養」という抽象的・普遍的な価値というより、体力・忍耐力・生活習慣などとワンセットになった特殊な「風習」だと思うんです。

そういう意味で、「読書する公衆」を歴史的に位置づけるためには、知識人社会学だけじゃなく、「長時間の黙読」というスポーツか修行のような行為がいかにして可能であったか、知識人の体力測定が必要なんじゃないでしょうか。

読書する公衆のいわゆる文芸的公共性は、「ぶ厚くなければ本じゃない」みたいな密度で紙を文字で埋め尽くす文化を生み出してしまったんですよね。

「大衆vs知識人」という図式が有効だったのは、知識人側が書斎を埋める分厚い書物を読みこなすだけの文字通りの体力があったから成立したんじゃないかと思うんです。そしてそんな超人を育てる前提はもうないのだから、そりゃ、教養主義は没落します。そして教養主義が没落した原因、彼らの特異な体力は、紙の上の文字列を追いかけたり、知識人社会学というチェックシートを埋めるだけでは測定できない気がします。

「青白いインテリ」という言い方がありますが話の順序が逆で、インテリ志望な人が膨大な書物を読みこなす体力を蓄えられなくなって、口先だけになったから没落した、そいうことなんじゃないでしょうか?

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岡田暁生のウィーン本では、成金のクラブハウスみたいな19世紀の楽友協会ホールと、20世紀初頭の大衆化のうねりの中で作られた巨大なコンツェルトハウスが印象的に対比されて、宮廷音楽家たちのウィーン・フィルと、コンサート専門のウィーン交響楽団の違いがこれに重ね合わせられます。

そして20世紀の大衆社会化現象の好例として、ウィーン交響楽団(正確にはその前身のウィーン演奏協会管弦楽団、でいいのでしょうか)が1905年に「ウィーンで最初の労働者のためのコンサート」に出演したことが紹介されていますが、これは、第一次大戦後にウェーベルンが関与したことで知られる「労働者交響楽演奏会Arbeiter-Symphonikonzerte」のことですね。

グスタフ・マーラー――現代音楽への道 (岩波現代文庫)

グスタフ・マーラー――現代音楽への道 (岩波現代文庫)

柴田南雄のマーラー本や巻末の岡田暁生の解説では、Arbeiter-Symphonikonzerteが勤労者によるアマチュア・オーケストラと誤解されているらしいですが(←下でリンクした西村理先生の論文で知った事実)、そうではなくて、「労働者のためのコンサート」だったようです。

で、1920年代にウェーベルンがマーラーの交響曲を指揮した演奏会シリーズと、この1905年の「ウィーンで最初の労働者のためのコンサート」が一連のものだということを岡田暁生は理解しているのかどうか……。どうも危なっかしい感じなんですよね。

というのは、『楽都ウィーンの光と陰』の後ろのほうに、この労働者交響楽演奏会を立ち上げた人物のことが、まったく別の文脈で唐突に出てくるからです。

興味深いエッセイがある。二十世紀前半に活躍したウィーンの音楽批評家ダヴィッド・ヨーゼフ・バッハ(1874-1947)という人物によるものである。彼はアルノルド・シェーンベルクの友人だったのだが、ふたりの青春時代を次のように回想している。(229頁)

プラーターのカフェの楽団の演奏を庭の外でじっと聴いている若き日のシェーンベルクの印象的なエピソードで、これはこれで素晴らしいシーンなのですけれども、このD. J. バッハこそが何を隠そう労働者交響楽演奏会の仕掛け人です。「二十世紀前半に活躍した」のなかに、そのニュアンスは入っているのでしょうか?

石田一志先生の最近単行本になったシェーンベルク評伝は、このあたりさすがに周到です。

「ウィーン交響楽団の労働者コンサート」と「プラーターのシェーンベルク」は、オスカー・アドラーとともにシェーンベルクの十代後半からの終生の友人だった人物がのちに労働者のためのコンサートを運営して、そこにウェーベルンが指揮者として招かれた、という風につながっているんですよね。

[D. J. ]バッハは、後にウィーンの社会主義者の新聞『アルバイターツァイトゥング』で音楽批評を担当し、労働者合唱運動に参加し、一九〇五年には「労働者交響楽演奏会」を創設。第一次大戦後にはウィーンの社会主義政党の文化政策顧問となった人物である。(石田一志『シェーンベルクの旅路』、14頁)

シェーンベルクの旅路

シェーンベルクの旅路

(余談ですが、石田先生の評伝には、シェーンベルクの母方がシナゴーグのカントールを輩出した家系であることも紹介されています。彼の母方の従兄弟ハンス・ナーホトは、「グレの歌」の初演でヴァルデマル王を歌ったテノール歌手なのだそうです。シェーンベルクは後年、両親のことを「“平均的な音楽性”以上のものはもっていませんでした。しかし彼らは、歌うことを楽しんでいたことは確かで……」と書いていますが、これは、屈折したニュアンスを読み取るべき言葉なのかもしれませんね。

岡田暁生はシェーンベルクを「音楽史でもほとんど唯一の、早期教育をまったく受けたことのない大作曲家である」と、誉め言葉のつもりでドラマチックに形容しますが、それは西ヨーロッパのマジョリティの価値観にもとづく言説であって、彼の育った環境には、ユダヤ人コミュニティにおける歌唱文化の伝統が流れ込んでいたんじゃないでしょうか。彼の言い方は、浪曲や義太夫節で育くまれた音感を明治以後の洋楽の価値観でゼロ(もしくは「音痴」という名のマイナス)にカウントするのとよく似ていますが、そうすることが、シェーンベルクを「大作曲家」という名のヒーローに仕立てるための作法なのでしょうか?)

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D. J. バッハは英語版Wikipediaにも項目があります。

David Josef Bach (Lemberg (now Lviv), Ukraine, August 13, 1874 − London, UK, January 30, 1947) was an important and influential figure in the cultural life of early twentieth-century Vienna.

As a boy, Bach was a close friend of the young Arnold Schoenberg, who later named him as one of the three friends (the other two were Oskar Adler and Alexander von Zemlinsky) who greatly influenced him in his youthful explorations of music and literature.

David Josef Bach - Wikipedia, the free encyclopedia

幼い頃に(たぶん一家で)ウクライナから移住した東方ユダヤ人、という理解でいいのでしょうか。Wikipediaの項目の先を読み進めると、晩年はロンドンへ渡って、のちのアマデウス弦楽四重奏団メンバーなどの協力で室内楽演奏会を組織した、という記述があり、これも気になります。

そして岡田暁生の言う「20世紀前半に活躍」とか、石田先生の「ウィーンの社会主義政党の文化政策顧問」というのは、はっきり政治絡みの案件みたいです。

1914年に始まった第一次世界大戦は1918年にドイツ・オーストリア側の敗北をもって終戦した。ハプスブルク家の帝国は解体し、チェコスロバキア、ハンガリー、ユーゴスラビア、ポーランドなどが次々と独立、ウィーンは経済的困窮に追い込まれる。新しい共和国の首都となったウィーンでは社会主義系の市政が発足し、保守的な地方の農村部からは「赤いウィーン」と呼ばれて、両派の政治的確執は国政全体の不安定へとつながった。

ウィーン - Wikipedia

労働者新聞に書いたり、左翼政党(オーストリア社会民主党)の顧問になるだけだったら、そういう思想信条の人なんだな、ということですが、第一次大戦後のウィーンではナチスに併合されるまで社会民主党が政権を握っていて、そのリベラルな文化政策の音楽担当のブレインがD. J. バッハだった。言ってみれば、橋下市政で特別職に就いた堺屋太一、橋爪伸也みたいなものだったようです。

21世紀の「維新」はネオリベですから、個人を丸裸にして、企業様が効率良く収奪できるようにするわけですが、

1920年代の社会民主主義は、社会主義の総本山のソヴィエト連邦でアヴァンギャルドが花開いていた時代で、新音楽をバンバン投入します。前衛政党が前衛藝術を推進した時代があったわけです(というより、もともと20世紀の前衛藝術は旧態依然のヨーロッパの変革を目指す政治運動と近いところに発生したと見ていいんじゃないでしょうか、現実はそれほど楽天的でなかったにしても)。

岡田暁生のウィーン本では、

  • (a) 第一次大戦後にウィーン交響楽団がバルトークやラヴェルを演奏して、クレメンス・クラウスの指揮でマーラーの交響曲全曲演奏を敢行した(80頁)

と、

  • (b) 宮廷歌劇場が国立歌劇場になりレパートリーが一新され、「ジョニーは演奏する」が好評を博し、あのウィーン・フィルがモンスター・コンサートに出演するようになった(145-146頁)

それから、

  • (c) 鳴り物入りでベルリンから呼ばれたリヒャルト・シュトラウスはウィーン国立歌劇場(在任1919-1924)でフランツ・シャルクと一緒に仕事をさせられ不満だった(138頁以下)

これらがバラバラに出てきますが、実はどれも「赤いウィーン」時代の話であり、そうした音楽文化の激変を政策面でリードしたのが、岡田本にはシェーンベルクの若い頃の友人としてちょろっと出るだけであるところのダーフィト・ヨハン・バッハだったわけです。

岡田暁生の歴史観では、(a)と(b)は「新しいことはいいことだ」のモダニズムであり、(c)は歌劇場によくある権謀術数に大作曲家が巻き込まれた話になっていますが、たぶん、当時の政権党のイデオロギーに照らせば(a)と(b)は「音楽の民主化」でもあったのでしょうし、民主化された直後の劇場を監督として取り仕切るには、ブルジョワ的なスター音楽家シュトラウスの横に実務型のシャルクがいないと難しかったんじゃないでしょうか。

ヨーロッパの藝術音楽は、20世紀前半に、演奏スタイルにおいては「新即物主義」の洗礼を受けて、ちょうど同じ頃、文化政策としての「民主化」要求に可能なかぎり応じようとする時代があって今日へ至る。「ヨーロッパはどこでも藝術を国が手厚く保護している、それにひきかえ我が国は」というのがクラシック・ファンの決まり文句ですが、事態はそれほど単純ではなさそうです。

……という風につながっている水脈が、岡田本では(「第三の男」の地下下水道、と言う割には)よく見えないようになっていて、このあたりは、彼の信奉する「鏡」にうまく映らない部分なのでしょう。メルカトル図法の世界地図で、本当は近い北極圏のアラスカとシベリアがバラバラに配置されるのを連想させます。焦点をくるっと移動させたら違う景色が見えるのに、不自由な感じです。

第三の男 [DVD]

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この映画における「戦前のウィーン映画のパロディの意図」(210頁)は、岡田暁生が推測しているような監督ジョン・リードの演出という以上に、ハンガリー出身でハンガリーの短命に終わった共産党政権の文化政策にも加担して、かつてのハプスブルク帝国を熟知しているアレクサンダー・コルダのプロデュースであることと関連づけたほうが論じやすそうです。

あの映画には、バラージュやバルトークのブダペストからロンドンへ渡った人物が具体的に関与している。そういう意味では、チェコからアメリカへ渡ったミロシュ・フォアマンがプラハで『アマデウス』を撮影したのと似たところがあるかもしれませんね。http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20111220/p1

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ただし「赤いウィーン」は、ドイツのワイマール文化がヒトラー時代に一掃されたように、ナチス・ドイツのオーストリア併合で全部チャラになってしまいます。

岡田暁生は、

ハプスブルク帝国が演出したウィーンの「懐メロ」情緒は、一九三〇年代になるとやがて、映画の人気主題となりはじめる。(186頁)

として「未完成交響曲」(1933)以下の一連のフォルスト作品を揚げていますが、これは、「ナチス・ドイツの覚えもめでたく」(岡田)というのんびりした話ではなくて、「赤いウィーン」を快く思わなかった保守層の意向とも合致するナチス政権下での反動だったんだろうと思います。

(大阪音大の西村理先生は1920年代「赤いウィーン」時代のマーラー・ブームを掘り起こす仕事をしていらっしゃいましたが、マーラーの交響曲も、1920年代にさかんに演奏されていたのがナチスの台頭で闇に葬られて、1960年代にバーンスタインが復興するまで半ば忘れられた状態になっていた、ということみたいです。)

http://www.daion.ac.jp/about/a5a6tu000000g3v6.html

……ということで、今はまだ、労働者交響楽演奏会がどういう運営になっていたのか、というところまでは私にはわからないのですが、ウィーンにおいても、都市の拡大・労働者の流入で、労音っぽいことが既に20世紀初めに行われていたらしい、というお話でした。

公共性の構造転換―市民社会の一カテゴリーについての探究

公共性の構造転換―市民社会の一カテゴリーについての探究

最近ふと思い立って読み直したのですが、岡田暁生の自分の姿をヨーロッパという鏡に映すような語りは、ハーバーマスなら「市民の公共圏」(読書する公衆=教養市民が担うような)と呼ぶような場所へ向けて言葉を発する構えを崩すことができない人ということになるのかな、と思います。

でも、ハーバーマスが「市民の公共圏」の再建を本書で提唱するのは、19世紀後半以後の福祉国家(いわば国家と国民の野合)で公共性概念が変質してしまったという現状認識があるからなんですよね。それが書名にある「構造転換」であって、ハーバーマスにとっての「市民の公共圏」は、師匠アドルノにおける「無調の否定弁証法」に似た不在のユートピアなのだと思います。批判理論としては後退していると思いますが、少なくとも、もはや十全に機能していない「市民の公共圏」へアングルを固定して現実を否認する、という没落したブルジョワみたいな態度とは違うと思う。

それに、この本では扱わないと冒頭で宣言してはいますが、市民の公共圏と平行して「平民(plebian)の公共圏」(非文芸的illiterate、あるいは、ポスト文芸的、と形容されるような)が生成していることも認めています。(「平民」の存在を認めつつそこへ深入りしない、というところが、ヨーロッパの知識人に今も色濃く残る階級意識だとは思いますが。)そして「赤いウィーン」というのは、パリやベルリンだけでなく、ウィーンにおいても、「平民」を組織する無視し得ない動きがあった、ということなのだと思います。

ウィーンのお金持ちの新春イベントが世界同時中継されて、宮廷歌劇場オーケストラのCDブックが極東で発売される現在に歴史叙述がたどりつくためには、岡田暁生が得意なマーラー時代よりこちら側の100年間にまだ相当な紆余曲折がありそうです。

無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和 (平凡社ライブラリー (150))

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選書日本中世史 2 自由にしてケシカラン人々の世紀 (講談社選書メチエ)

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〈つながり〉の精神史 (講談社現代新書)

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無縁=縁切り(エンガチョ)から日本の中世を捉え直すという網野善彦史観があって、網野チルドレン世代の中世史研究者が「公共」概念(publicと必ずしも意味が重なるわけではない)をハーバーマスや丸山眞男と関連づけながらラディカルに鍛え直す、という流れは、かなりポストモダンですけれども(『自由にしてケシカラン……』は平易に書いてあるようでいて、実は相当抽象的な話で読み進めるのに難儀します)、でもやっぱり概念モデルとして面白いし、ウィーンの下水道網は、そういう種類の「公共」へつながっていく話じゃないかと思います。

大衆宣伝の神話―マルクスからヒトラーへのメディア史

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歴史学 (ヒューマニティーズ)

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そしてハーバーマスの本は「市民の公共圏」の成立と構造(ギリシャのポリスの奴隷を抱えた家長たちのデモクラシーとの差異、宮廷の代表具現(オレ様が支配者だという見せびらかし)としての儀礼・公報(いわば「官」のパブリシティ)から市民がパブリック/パブリッシュ概念を簒奪する理路を含む)を論じる前半だけでなく、それが変質していく様子を語る後半をちゃんと読むべきだ、というのは佐藤卓己の受け売りです。ハーバーマスが扱わなかった「平民の公共圏」へのアプローチと言う位置づけで社会民主党のプロパガンダ研究(マンガを扱う博士論文)をまとめて、それから私はメディア史の人になりました、という佐藤先生の述懐は、腹をくくったパイオニア感満点で格好いいです。

ファイヤーフォックス 特別版 [DVD]

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岡田暁生によると、この映画の地下鉄シーンはウィーン・ロケなのだそうですが、

路面電車(Tram)は、ご存じ通り城壁を取り壊した「リンク時代」の産物で1865年に馬車鉄道として開業、蒸気機関導入(1883)を経て、1897年に電化と同時に公営化されたそうです。カールスプラッツのオットー・ワーグナー設計の駅舎で知られる郊外電車(S-Bahn)も1898年には開業しています。一方、地下鉄(U-Bahn)ができたのは第二次世界大戦後らしいですね。S-Bahnの一部を地下鉄に改築する形で1976年に開業したのだとか。

調べてみますと、オーストリアは1970年から1983年が社会党単独政権の時代。福祉国家路線で交通網を充実させるべく地下鉄ができたということでしょうか。そしてその、社会党政権下で造られたウィーン地下鉄がモスクワっぽい雰囲気を醸し出している、ということになるみたいです。

ウィーンの「陰」には、思った以上に「赤」が混じっているのかもしれませんね。