大澤壽人の関西における蘇演の軌跡で、クラシック音楽がサブカルチャー化して久しい帝都の時局へ思いを馳せる

[情報の間違いなどを直して、最後にちょっと付け足しあり。]

昨夜、9/2のオーケストラ・ニッポニカ第22回演奏会の当日配布されたパンフレットを拝見する機会を得ました。奥平一さんの作品解説が素晴らしく、熟読せねばと思う中で、2006年のいずみホールでのオーケストラ・ニッポニカ演奏会について

「6年前のことながら一部の学術的論文の中では関西フィルの公演と混同しているものが見受けられる」

とのご指摘がありまして、それはいけない、と思い、情報をまとめてみることにしました。(解説中で望外のお褒めにあずかってしまいましたが、これはもう、白石は当面「緻密さ」というか、グチグチ細かい話で行くしかないかと。)

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「大澤壽人」という名前が日本の洋楽を語る場に再導入された日時は、2003年2月2日、紀尾井ホールでのオーケストラ・ニッポニカ設立演奏会からであると言ってよいと思います。(9/2演奏会のパンフレットには当事者としての回想も記されています。)

(1) 「大澤壽人発見」以前(〜2003年2月2日)

当時の関西でのめぼしい動きというと、1970年代から甲南高校での取り組みがあった貴志康一と、根岸一美先生が調べていらっしゃった宝塚交響楽団のラスカだと思います。

  • 2003年6月24日、神戸女学院大学音楽学部第10回サマーコンサート(伊丹アイフォニックホール)でヨゼフ・ラスカのバレエ・パントマイム「父の愛」初演
  • 2003年7月9日、関西フィル定期演奏会(ザ・シンフォニーホール)で貴志康一「花見」「道頓堀」
  • 2003年9月、芦屋市立美術館で貴志康一展覧会
  • 2004年1月24日、ラスカのバレエ・パントマイム「父の愛」公演(ピッコロシアター) *オーケストラ・パートをMIDI制御シンセサイザーで演奏

個人的なことを言えば、私自身も関西の洋楽について何かできることがあるんじゃないだろうか、と思いはじめていた時期ですが、10年ひと昔と申しましょうか、芦屋や宝塚の方々がゆかりのある音楽家の思い出を語り伝える落ち着いた雰囲気で、今から振り返ると牧歌的に事態が進行していたように思います。

(ナクソスから2002年5月1日に大栗裕作品集のCDが出ており、その前の朝比奈隆存命中には、1995年、朝比奈隆が毎日放送取材で訪れたハルビンで「大阪俗謡による幻想曲」初稿スコアと再会、1997年大阪フィル創立50周年記念演奏会で大栗裕「ヴァイオリン協奏曲、1999年定期演奏会で「大阪俗謡による幻想曲」初稿をいずれも外山雄三の指揮で演奏、と大栗裕が取り上げられていますが、それは、大阪の老舗としての大フィルの取り組みということで、やや文脈が違っていたようです。)

(2) 東京が大澤壽人を発見した日(2003年2月2日〜2004年6月1日)

  • 2003年2月2日、オーケストラ・ニッポニカ設立演奏会(紀尾井ホール)で大澤壽人「ピアノ協奏曲第3番」(独奏:野平一郎)

オーケストラ・ニッポニカ 第1集

オーケストラ・ニッポニカ 第1集

  • 2004年6月1日、ナクソスから大澤壽人「交響曲第3番」、「ピアノ協奏曲第3番」のCD発売

大澤壽人:ピアノ協奏曲 第3番 変イ長調「神風協奏曲」/交響曲 第3番

大澤壽人:ピアノ協奏曲 第3番 変イ長調「神風協奏曲」/交響曲 第3番

  • アーティスト: ロシア・フィルハーモニー管弦楽団,大澤壽人,ドミトリ・ヤブロンスキー,エカテリーナ・サランツェヴァ
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大澤壽人発見は片山杜秀さんとオーケストラ・ニッポニカのお手柄。ここから俄に事態が動くわけですが、関西からの見え方としては、大澤家ご長男の壽文さんがお仕事をご退職後、お父様の業績を後世へ遺すことができないかとお考えになって、その過程で神戸新聞の藤本賢一氏と出会い、片山さんへつながった、ということだったのかな、と思います。

壽文さんは関西のあちこちにも働きかけられたようですが、その時点で打てば響くリアクションのできる人・団体が地元にはなかったのですから、「地元なのに不甲斐ない」とか、「だから関西はダメなんだ」とか、まあ、何を言われてもしょうがありませんけれど……、第三者だから言えること、できること、というのもあるわけで、この時点での片山杜秀さんは、様々な巡り合わせで、大澤壽人のピカピカ光る魅力が誰よりもよく見えるポジションにいた、ということなのだろうと思います。

そうして、かつてバーンスタイン&オザワが黛敏郎ではなく武満徹を採用したのをきっかけに、ブワーッと北米発でタケミツの株が上がったような感じに、相場を張って大澤壽人を見事に売り抜いた。片山さん(や岡田暁生←掲載日を確認できませんが、ナクソスのCDを朝日新聞のレコード評で絶賛したと記憶します)には彼の音楽が輝いて見えたし、本心からイイと思ったのでしょうし、ナクソスであれだけ大きなシリーズを続けていく上では、そしてそういう取り組みを突破口にして日本の洋楽に関する語り方を旧態依然な状態から更新するためには、話題性のある打ち上げ花火が必要でもあったのだと思います。

協奏曲「神風」が、実は太平洋戦争末期の特攻隊ではなく、1937年春、日華事変勃発直前に陸軍と朝日新聞がタイアップした神風号の亜欧連絡飛行のデモンストレーションを指すというのも、ネット右翼が話題になっていた2000年代前半のサブカルシーンには格好の、危険球スレスレを狙うスパイスになりました。(何でも知ってる小谷野敦さんですら勘違いするくらい「神風」の語はインパクトがありました。)

今回のプログラムには、オーケストラ・ニッポニカの設立演奏会の曲目として大澤を最初から一貫して強く推したのは片山さんだったというエピソードが披露されています。最初から先の展開の見通しがある程度あったのか、それとも、とりあえずこれがいいだろう、と推したものがあれよあれよという間に話が大きく転がっていったのか。こういう「ブーム」の成り立ちは、あとから仕立てられたお話ほど整然としたものではないのが常ですが、絵に描いたようにきれいに決まった事例に見えますね。

クラシック音楽がもはやサブカルである、というのを業界当事者はとっくにわかっていて、最もヴィヴィッドに対応したのが片山杜秀だった、みたいな位置づけになるのだろうと思います。

話は変わるがサブカルチャー論という授業やってレポート書かせたら「サブカルチャーとしてのクラシック音楽」という視点で書いてきた学生が結構多くて面白かった。

増田聡 on Twitter: "話は変わるがサブカルチャー論という授業やってレポート書かせたら「サブカルチャーとしてのクラシック音楽」という視点で書いてきた学生が結構多くて面白かった。「現代の主流音楽文化はJポップでクラシックは周縁文化である、でも学校という支配的文化の中では主流である。文化の分類は難しい」的な"

(一方、神戸新聞とはつきあいの長い小石忠男さんも、神戸と東京が不意にリンクして何かが起きつつあるらしいことをある時点で察知していらっしゃったらしい、ということ、それから当時私は、片山さんの周囲に岡田暁生の影があるらしいから、これは出る幕じゃないな、と思ったということは、既に書きました。そういう華々しい大技は我々には無理ですから、大きな相場を張ることのできる立場にいた人が最大限に効果的に資産を運用して華々しく一本取ったということで、いいんじゃないでしょうか。→ http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20101110/p1

(3) 関西における大澤壽人、第一波(2005年〜2006年)

……で、大澤壽人に東京から火がついて、それまで貴志康一や宝塚交響楽団には見向きもしなかった岡田暁生が、まるで自分の手柄のようにあちこちで大澤を語る、という予想通りのお調子者ぶりを発揮したりもしたわけですが(そのおかげで片山さんに京都大学人文研の賞が巡ってきて、大学人としてのキャリアへ復帰する足がかりの一つになったのですから、「お調子者」は大切で、一定の役割があるわけです)、

ナクソスのCD発売後は、関西でもリアクションがありました。

  • 2005年2月13日、関西フィルハーモニー管弦楽団いずみホールシリーズ(飯守泰次郎指揮)で大栗裕「大阪俗謡による幻想曲」、貴志康一「日本スケッチ」、大澤壽人「ピアノ協奏曲第3番」(独奏:迫昭嘉) *岡田暁生が朝日新聞で批評、このときの批評文が翌年6月刊行の『日仏交感の近代』に収録された大澤壽人論の原形と思われます。コンチェルトなのにピアニストの名前が出てこない(故意だとしたら酷い悪意ということになるが^^;;)というように批評の作法を吹き飛ばし、戦後作曲家デビューした大栗裕が「戦前派」にカウントされるという粗忽さなど顧みず(大栗裕は眼中にない、ということだと思う)、ひたすら猛然と戦前阪神間山の手モダニズムについて熱弁を振るう文章です。「熱に浮かされたように」という形容がよく似合う。

日仏交感の近代―文学・美術・音楽

日仏交感の近代―文学・美術・音楽

本書の刊行は2006年ですが、所収の岡田暁生のエッセイはナクソスのCDが出たのは「1年前」と書いているので、執筆は2005年なのだと思われます。それで計算は合いますね。

  • 2006年3月4日、オーケストラ・ニッポニカ演奏会(いずみホール、本名徹次指揮)で「大澤壽人交響作品個展」として交響曲第2番、「さくらの声」、ピアノ協奏曲第2番(独奏:三輪郁) *一週間後のオーケストラ・ニッポニカ第9回演奏会「昭和九年の交響曲シリーズ<その2>」(3月12日、紀尾井ホール)と同一プログラム、大阪公演はいずみホールとの共催だったと記憶します。
  • 2006年3月10日、「大澤壽人とその時代〜室内楽コンサート」でピアノ五重奏曲とピアノ三重奏曲(マイ・ハート弦楽四重奏団、ピアノ:藤井由美) *下の3/12の演奏会と一連のものだと思いますが、白石未聴で詳細不明、演奏曲目もこれで合っているのか資料不足で自信がありません……。

大澤壽人の室内楽

大澤壽人の室内楽

  • 2006年3月12日、神戸製鋼所創立100周年記念クラッシックコンサート「大澤壽人とその時代〜時代を駆け抜けた天才たち」(兵庫県立芸術文化センター、佐渡裕指揮・兵庫芸術文化センター管弦楽団)で大澤壽人「路地よりの断章」、ガーシュウィン「パリのアメリカ人」、イベール「ディヴェルティメント」からワルツとフィナーレ、大澤壽人「ピアノ協奏曲第3番」(独奏:迫昭嘉) *白石未聴。

2006年3月の一連の演奏会は、都合が合わなかったり、当時、兵庫芸文とはご縁がなかったりで、私は聴いていません。東京発のトップダウンな感じの動きで、関西の地元から積み上がったムーヴメントではなく、弱小地方音楽評論家のところへは、まだ、波が届いていなかった、ということかもしれませんね。

ニッポニカと関西フィルが混同されて、ピアノ協奏曲第2番と第3番がごっちゃにして理解されたことがあったとしたら、それは、この時期にはまだ、大澤壽人がどういう人で、「大澤現象」とは何なのか、ということが曖昧だったせいかもしれません。

申し訳ないことだと承知のうえで言えば、確かにこの2006年春の段階で「大澤現象」は既に3年目に入りますし、21世紀は情報社会などと言われたりもしますが、興行の世界は、実はそれほど昔と変わったわけではなくて、震源地・発信源の当事者の方々が思うほど一気に勝負のカタが付くわけじゃなく、物事は相変わらずジワジワ進むのだ、ということではないでしょうか。自戒を込めて。

(4) 神戸女学院が大澤壽人の拠点になる(2006年〜)

瞬間的な突風という感じの2005〜2006年の動きを受けて、その後、腰を据えた取り組みが軌道に乗ったと言えるように思います。2006年8月に大澤壽人の遺品資料が神戸女学院大学へ寄贈されて、生島美紀子先生をリーダーとする卒業生スタッフによる整理作業がはじまり、その成果をもとに、2009年末から同校主催で「大澤壽人スペクタクル」というシリーズが現在までに3回開かれています。また、関西フィルは2005年にピアノ協奏曲第3番を取り上げて以来、飯守泰次郎の指揮で小交響曲(2006年)、交響曲第3番(2007年)、交響曲第2番(2008年)、ピアノ協奏曲第2番(2009年)と主要管弦楽曲を年に一曲のペースで紹介しつづけました。

(大澤壽人の遺品一式を神戸女学院が受け入れる話をまとめるときには、実際に大澤壽人に学んだ神戸女学院の同窓会の方々の尽力があり、そうした女学院の取り組みをきちんと広報するための段取りをつけるときに、小石忠男さんが助言をしたり、ということがあったようです。東京で自分の子供か孫のような世代がガヤガヤと騒々しく動いたのを関西の重鎮の先生方が鎮めて、きれいな形に収めた格好でありまして、そういうフェーズに入ると、岡田暁生という人は(基本がファザコンのお坊ちゃんですから)フェードアウトするわけです。ま、そういう人です(笑)。しかしそれにしても、関西フィルは、2000年代前半には今や大河ドラマ作曲家となった吉松隆に藤岡幸夫が集中的に取り組んで、2000年代後半はこうして大澤壽人に飯守泰次郎が取り組んだんですから、アグレッシヴだったですね。こういうのこそ、東京のその筋の人たちが賞をあげたりして、誉めてあげるべきだったんじゃないでしょうか。いずみシンフォニエッタ大阪もそうですけど、減るもんじゃないんだから、東京に誉めてもらいたいと思って頑張っている人たちのことをもうちょっとちゃんと拾って誉めてあげてもいいんじゃないか。)

  • 2006年11月30日、関西フィルハーモニー管弦楽団第189回定期演奏会(ザ・シンフォニーホール、指揮:飯守泰次郎)で大澤壽人「小交響曲」
  • 2007年11月28日、関西フィルハーモニー管弦楽団第198回定期演奏会(ザ・シンフォニーホール、指揮:飯守泰次郎)で大澤壽人「交響曲第3番」
  • 2007年12月4日、神戸女学院大学編『煌きの軌跡 - 大澤壽人作品資料目録』刊行
  • 2007年12月19日、ナクソスより大澤壽人の交響曲第2番、ピアノ協奏曲第2番CD発売

大澤壽人:ピアノ協奏曲第2番/交響曲第2番

大澤壽人:ピアノ協奏曲第2番/交響曲第2番

  • アーティスト: ロシア・フィルハーモニー管弦楽団,大澤壽人,ドミトリ・ヤブロンスキー,エカテリーナ・サランツェヴァ
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  • 発売日: 2007/12/19
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  • 2008年10月8日、関西フィルハーモニー管弦楽団第206回定期演奏会(ザ・シンフォニーホール、指揮:飯守泰次郎)で大澤壽人「交響曲第2番」
  • 2009年11月3日、関西フィルハーモニー管弦楽団いずみホールシリーズVol.17「輝けるフランス」(指揮:飯守泰次郎)で大澤壽人「ピアノ協奏曲第2番」(独奏:迫昭嘉)
  • 2009年12月16日、「神戸女学院所蔵資料「大澤壽人遺作コレクション」による大澤壽人スペクタクル I ホームソングからピアノ協奏曲まで」(兵庫県立芸術文化センター小ホール)
  • 2010年1月、『大澤壽人ピアノ曲集』(カワイ出版)刊行

コンサートピアノライブラリー 大澤壽人 ピアノ曲集 (6720)

コンサートピアノライブラリー 大澤壽人 ピアノ曲集 (6720)

  • 2010年3月3日、「神戸女学院所蔵資料「大澤壽人遺作コレクション」による大澤壽人スペクタクル II トランペット協奏曲 60年ぶりの関西蘇演」(ザ・フェニックスホール)

Trumpet Japonesque

Trumpet Japonesque

  • アーティスト: 神代修,マルセル・ケンツビッチ,青島広志,徳永洋明,鍋島佳緒里,櫛田?之扶,大澤壽人,寺田由美,中村和枝
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  • 発売日: 2009/04/15
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  • 2011年8月1日、神戸女学院大学編『煌きの軌跡 - 「大澤壽人遺品コレクション」詳細目録』刊行
  • 2012年3月3日、「神戸女学院所蔵資料「大澤壽人遺作コレクション」による大澤壽人スペクタクル III 1930年代 ボストン・パリの輝きから戦後のシャンソンまで」(・ザ・フェニックスホール)

この頃から、大澤壽人にかぎらず関西の音楽家を取り上げるコンサートがこれまでより増えたように思います。2006年12月に毛利眞人『貴志康一 永遠の青年音楽家』が出て、個々の音楽家を関西の洋楽受容という大きな枠組みのなかで捉える端緒が開けたことも大きかったかもしれません。そして1983年から大栗裕の自筆譜等を寄託され運用を続けていた大阪音楽大学が、ご遺族から遺品資料を正式に寄贈されたのも同時期2007年4月12日です。

貴志康一 永遠の青年音楽家

貴志康一 永遠の青年音楽家

  • 2007年7月12日、大阪フィルハーモニー交響楽団創立60年記念事業「関西の作曲家によるコンサート」(いずみホール、指揮:山下一史)で大栗裕「雲水讃」、「ヴァイオリン協奏曲」、松下眞一「星たちの息吹」、貴志康一「日本組曲」
  • 2008年4月15日、大阪フィルハーモニー交響楽団「大栗裕の世界」(いずみホール、指揮:円光寺雅彦)で「弦楽のための二章」、「オーボエと弦楽合奏のためのバラード」、歌劇「赤い陣羽織」
  • 2008年11月22日、中之島国際音楽祭2008で「貴志康一生誕100年記念」として映画「春」「鏡」上映とオペレッタ「なみ子」(大阪市中央公会堂大ホール、指揮:小松一彦)
  • 2009年3月31日、貴志康一生誕100年記念コンサート(ザ・シンフォニーホール、指揮:小松一彦、大阪フィルハーモニー交響楽団)で貴志康一「天の原」「かごかき」「力車」「赤いかんざし」(独唱:坂本環)、ヴァイオリン協奏曲(独奏:小栗まち絵)、交響曲「仏陀」
  • 2010年10月23日、11月3日、NHK大阪放送局開局85周年記念番組「よみがえる「ラジオ歌謡」とその時代〜大阪発・60年ぶりの復活演奏〜」(10月23日NHK総合テレビ関西短縮版、2010年11月3日NHK-BS1完全版)で大澤壽人らのラジオ歌謡、大栗裕「待てど暮らせど物語」、「夫婦善哉」、三善晃「金の魚の話」、宮原禎次「大大阪」

大澤壽人が東京でブレイクしたのが起爆剤になって周囲が活性化した、という風にも見えますが、貴志康一には30年以上前から地道な取り組みがあるわけですし、大栗裕は吹奏楽もオペラもマンドリン音楽も、それぞれの分野で生前から演奏され続けていて、「忘れられた人」の「発掘」というわけではありません。

むしろ、このタイミングできちんとした形で引き継ぐべきものは引き継いでおきたい/引き継がせておきたい、というそれぞれの当事者の方々の思いと実態があったんじゃないかと思います。朝比奈隆が亡くなったあと、かなりはっきり「代替わり」した感じがあったので、頃合いだったのでしょう。

最後に大澤関連コンサートを貴志康一や大栗裕関連の演奏会とまとめると、2006年から2010年の出来事リストはこんな感じになりそうです。

(実際には、貴志康一も大栗裕も、そして神戸女学院が楽譜資料を公開するようになって以後は大澤壽人も、「日本の洋楽の再評価」という意義をことさら喧伝するわけではなく淡々と演奏され続けているので、ここに揚げたのは全演奏リストではないですが。)

  • 2006年11月30日、関西フィルハーモニー管弦楽団第189回定期演奏会(ザ・シンフォニーホール、指揮:飯守泰次郎)で大澤壽人「小交響曲」
  • 2007年7月12日、大阪フィルハーモニー交響楽団創立60年記念事業「関西の作曲家によるコンサート」(いずみホール、指揮:山下一史)で大栗裕「雲水讃」、「ヴァイオリン協奏曲」、松下眞一「星たちの息吹」、貴志康一「日本組曲」
  • 2007年11月28日、関西フィルハーモニー管弦楽団第198回定期演奏会(ザ・シンフォニーホール、指揮:飯守泰次郎)で大澤壽人「交響曲第3番」
  • 2007年12月4日、神戸女学院大学編『煌きの軌跡 - 大澤壽人作品資料目録』刊行
  • 2007年12月19日、ナクソスより大澤壽人の交響曲第2番、ピアノ協奏曲第2番CD発売
  • 2008年4月15日、大阪フィルハーモニー交響楽団「大栗裕の世界」(いずみホール、指揮:円光寺雅彦)で「弦楽のための二章」、「オーボエと弦楽合奏のためのバラード」、歌劇「赤い陣羽織」
  • 2008年10月8日、関西フィルハーモニー管弦楽団第206回定期演奏会(ザ・シンフォニーホール、指揮:飯守泰次郎)で大澤壽人「交響曲第2番」
  • 2008年11月22日、中之島国際音楽祭2008で「貴志康一生誕100年記念」として映画「春」「鏡」上映とオペレッタ「なみ子」(大阪市中央公会堂大ホール、指揮:小松一彦)
  • 2009年3月31日、貴志康一生誕100年記念コンサート(ザ・シンフォニーホール、指揮:小松一彦、大阪フィルハーモニー交響楽団)で貴志康一「天の原」「かごかき」「力車」「赤いかんざし」(独唱:坂本環)、ヴァイオリン協奏曲(独奏:小栗まち絵)、交響曲「仏陀」
  • 2009年11月3日、関西フィルハーモニー管弦楽団いずみホールシリーズVol.17「輝けるフランス」(指揮:飯守泰次郎)で大澤壽人「ピアノ協奏曲第2番」(独奏:迫昭嘉)
  • 2009年12月16日、「神戸女学院所蔵資料「大澤壽人遺作コレクション」による大澤壽人スペクタクル I ホームソングからピアノ協奏曲まで」(兵庫県立芸術文化センター小ホール)
  • 2010年1月、『大澤壽人ピアノ曲集』(カワイ出版)刊行
  • 2010年3月3日、「神戸女学院所蔵資料「大澤壽人遺作コレクション」による大澤壽人スペクタクル II トランペット協奏曲 60年ぶりの関西蘇演」(・ザ・フェニックスホール)
  • 2010年10月23日、11月3日、NHK大阪放送局開局85周年記念番組「よみがえる「ラジオ歌謡」とその時代〜大阪発・60年ぶりの復活演奏〜」(10月23日NHK総合テレビ関西短縮版、2010年11月3日NHK-BS1完全版)で大澤壽人らのラジオ歌謡、大栗裕「待てど暮らせど物語」、「夫婦善哉」、三善晃「金の魚の話」、宮原禎次「大大阪」
  • 2011年8月1日、神戸女学院大学編『煌きの軌跡 - 「大澤壽人遺品コレクション」詳細目録』刊行
  • 2012年3月3日、「神戸女学院所蔵資料「大澤壽人遺作コレクション」による大澤壽人スペクタクル III 1930年代 ボストン・パリの輝きから戦後のシャンソンまで」(ザ・フェニックスホール)
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ともあれこんな風に波紋が広がったところで、発信源のオーケストラ・ニッポニカさんが「大阪」に再びフォーカスしたのが9/2のコンサートだったわけですから、何かが一巡して、次のステージに入った感じですね。

(関西の洋楽という括りで、大澤壽人が大栗裕その他と並べてNHKで番組化されてしまっては、もはや情報感度の鋭い人の心をくすぐるレア・アイテムではなくなった、と申せましょう。)

パンブレットを読ませていただき、改めて、片山さんが曲目解説とは別に寄稿しているエッセイの背景にある雰囲気がわかったような気がしました。

http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20120906/p1

2000年代は、日本の洋楽を語る場を創るために奔走して、その突破口としては個人名を大きく売るスター主義がわかりやすく伝わりやすかったし、特定銘柄を高値で売り抜く相場の手法に即効性があったけれども(伊福部だけじゃないんだ、信時潔も橋本國彦も実は凄いし、神戸には、大澤壽人というとんでもないのがいるんだよ!という風に)、それが一巡して、世の中の気流も、相場や投機の騒々しさに距離を置きたい風向き(片山さんの8年前のエッセイが描写する昭和10年代のように、音楽・文化の外側がマジで騒々しくて、音楽が多少騒々しく華々しくても太刀打ちできない感じ)になっているところで、ぐっと視野を広げて「町人の都」ということですね。

昭和初年的というか、モダニズムの姿勢も色あせて来た。世の中で日々現実に、政治や経済や社会の局面に於いて、ギョッとするような斬新なことが次々起こるようになったので、個人が新感覚・新発想を気取っても容易には目立てなくなってしまったから。では、そういう時代に求められたのは誰か。それは芸術家より職人であり、哲学者より官僚であり、詩人より実務家である。全体をひとりで押さえたり、導いたりすることが出来なさそうに思われる時代には、別に戦時期の日本に限らず、求められる価値観・人間像が必ずそういうふうに交替するものなのだ。

オーケストラ・ニッポニカ (Orchestra Nipponica)