オーケストラはどっちを向いて演奏するか?

その「謙譲の美徳」が本心からのものだとすれば、だからこそ大植の演奏は「きちんとしている」ものに留まったのだとも言える。芸術の世界では、「三歩下がって、師の影を踏まず」は無意味だ。

大植英次の大フィル ( イラストレーション ) - Le plaisir de la musique 音楽の歓び - Yahoo!ブログ

大久保さんが真剣に書いていらっしゃるので、反応したいと思います。

私は、「大植英次の「謙譲の美徳」が本心からのものだ」と思っていて、しかもそれは、しかるべき定義のもとで、藝術として価値が劣る、とされるであろうことを承知していますが(だからある種の人々が9年間、ほぼ大植英次に見向きもしなかったことを承知していますが)、それでもなお彼は、「藝術の名の下に」ではなく、「音楽の名の下に」祝福される権利があるという考えです。

が、それではひどく大げさになってしまうので、山田和樹と大植英次は何が違うか、の話を別の視点からやってみようと思います。

以下、書いてみたら長くなりましたが……。

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山田和樹が指揮するベルリオーズを聴きながら、私は、「この人はその場にいる人々のあらゆる注意を彼自身のところへ引き寄せるんだな」とまず思いました。

それは、指揮の技術の問題でもあるし、おそらくリハーサルからはじまる演奏者との関係の作り方の問題でもあるし、もちろんステージマナーの問題でもあるし、これがかなり大きいと思うのですが、幻想交響曲という作品の問題、ピアノにおけるリストに匹敵するかもしれない指揮のヴィルトゥオーソであったに違いないベルリオーズの俺様体質の問題でもあると思います。

中心にいる指揮者がしっかりしていないと崩壊してしまいそうな楽譜ですし(リストの盟友が「幻想交響曲」を書き、イスラメイのヴィルトゥオーソ・ピアニストだったバラキレフの弟子が「シェヘラザード」を書くというように、指揮者にとってのヴィルトゥオーソ・ピースの傍にヴィルトゥオーソ・ピアニストがいたのは偶然ではないと思う)、

それに加えて、例の「ある芸術家」を主人公とするストーリーを踏まえて聴くと、真ん中で指揮している人物が物語の主人公と二重写しになるように作られているわけですよね。指揮者から遠く、手の届かないところにいる管楽器が、指揮者を取り囲む弦楽器の舞踏会の向こうで「あの人」の幻影として浮かび上がる、というように。(しかもそれが自伝的な物語で、彼自身がそれを指揮するのですから、自分自身への焦点化がやりすぎなくらい推し進められている作品と言えそうです。)

先日のヤマカズは、そこのところをわかったうえで、十二分に活用して演奏していたように思います。

指揮者を誉めるしかないお膳立てをして、その神輿に自ら乗って、なおかつ、そこで千両役者を演じてみせる、少なくともその点に関しては、既に勝利の方程式ができた上で、きっちり勝ち切る演奏だと思いました。

今は連戦連勝しておかねばならない時であって、そこで、着実に勝ちをもぎ取ったわけですから、たぶん、文句を言われる筋合いではない。もうどんどん勝って勝って勝ちまくってください、な感じです。

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で、帰り道にまず思ったのは、オーケストラのエネルギーが全部吸い取られちゃったんだなあ、ということだったのです。

世の中には、こういう風に指揮者が全部持って行っちゃうタイプの演奏が大好物な人が多そうだし、十分に成功しているのだけれど、私自身は、あまりそういう路線へ乗りたくないのでどうしたものか、そればっかりを、ずーっと考えておりました。

(その先にひねり出した「お話」は批評にまとめてしまいましたので、残念ながらここには書きません。多少卑怯な反則技かもしれないですが、幸い、私がオーダーを受けたのは山田和樹論ではなく、大阪フィルハーモニー交響楽団第461回定期演奏会の公演評だったので、だったら、ヤマカズが仕掛ける磁力の圏外で書く余地があるんじゃないか、と、そんな感じです。)

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さて、そして大植英次ですが、あの人は、ご存じ通り指揮台の上での姿がヤマカズとは随分違っていて、指揮者を「見る」とやや煩わしいかもしれず、ひょっとすると生理的にダメな人がいるかもしれないタイプなわけですが、でも、最良の演奏では、彼の存在が消える瞬間があるように思うんですね。

自らの存在が消えたところに最良の演奏が生まれるタイプの指揮者だから、自身の名前を大きく謳った「ラスト・イヤー」興行は、かなり本質的なところで苦しかったんじゃなかろうか、と想像します。生身の大植英次は間違いなく「お祭り男」なんだけど、彼がやろうとする音楽、もしくは、彼ができる音楽は、その反対であるように思えてならないんですよ。

結局、大植英次は、ひたすらオーケストラ奏者を挑発して、あらゆる手練手管で音を客席へ届けることしか考えていない、それだけ考えていたい人じゃなかろうかと思います。だから、確かに演奏者は放射状に座って指揮台のほうを見ているわけですが、客席にいると、舞台全面に展開した無数の楽器の音が、(指揮台というコントロールタワーへ集約される手順なしに)そのままフワっと会場全体へ広がる感じがする。カラヤンが開拓したパラダイムによるオーケストラ演奏の一種と言えないことはないかもしれないですが、たぶんもっと北米寄りのスタイルの(だから音の質感とかアンサンブルの組み方は全然違うけれど何かが広上淳一とも似ているような)、指揮者のところへ全部集約されていくタイプの音(音楽)の在り方とは根本的に別の発想によるオーケストラの姿を、この人は大阪で実現しちゃったんだな、ということではあったと思います。

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指揮者のところへキュッと音(音楽)を集約するスタイルのほうが「藝術音楽」(ヨーロッパの)として素性が正しいのは間違いありません。だから山田和樹についてだったら、それぞれの人がそれぞれの「教養」に照らして色々なことを言いやすい。

でも、コンサートホールという空間にどういう風に音を配置するか、もっと別の形がありうるんじゃないか。そういう試行錯誤は、20世紀にかなり多彩に繰り広げられて、これはこれで、相当な射程のある問題系だと思うんです。

前衛・実験音楽として、めちゃくちゃ色々なことが行われているのは私などより大久保さんのほうがお詳しいはずですし、古楽器を復元するときにも、それを鳴り響かせる空間の問題が浮上しますし、一昨年いずみホールへ来たドイツ・カンマー・フィルのように、自分のところへ物事を集約させたい指揮者が来ても、茫然と立ちつくすしかなさそうな猛者軍団もあるわけですよね。

そういう色々なことがあるなかで、やや我流というか、「個人的な問題」に偏ったところがありながらも、自分の存在を消してしまいたい欲望を追い求める人がいて、最初は半信半疑でしたが、9年ながめて、これもひとつの生き方ではあったんだろうと思うようになりました。

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まあ、その時代が終わって、「存在を消してしまいたい欲望」どころか、今は舞台の中央が本当に空位なわけですから、全然違う人が全然違うことをやって、それでいいと思うのですが、

キュッと中心へ全部吸引するスタイルこそがこれから期待されるべき在り方である、ということになると、なんだか、市長が平松から橋下へ交代したのが歴史の必然であったかのようにも思えてしまいます。どうなんでしょう。今後、評論家はカリスマの周囲に呼び集められる特別参与・特別顧問を目指すべきなのか?

「指揮者は政治家と違って、独裁していいんだ、いや、独裁者型のカリスマが藝術の救済者なのだ!」

という種類のご意見も別の所で見かけたり、あと、山田くんは新聞の取材に答えて、「指揮者にならなかったら、政治家になっていたかも」と言ったことになっているようで……。

たぶんこれは、世の中の保守化・右傾化が音楽にも波及するという社会反映論ではなく、才能のある若者には時代と添い寝する権利が認められている、ということなのだろうと思います。勝利の美酒、というやつでしょう。

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1979年生まれの山田和樹のことを調べれば調べるほど、1978年生まれの宇野常寛を連想してしまうのですが、そういう風になんでも世代論で括ってしまうほど相手に失礼なことはないので、なんとか個体識別できるように、しっかり目を凝らし、耳をかっぽじって、山田和樹を聴いていきたいと思います。

すべてを手元に掌握した状態で描く絵が、ベルリオーズの場合のようにヴィルトゥオーソ的に発散されるだけでなく、面白いものになるんだったら、それは大変素晴らしいことですし。

(しかしベルリオーズの第3楽章は、ベートーヴェンの「田園」(←いかにも大植英次が好きそうな曲)を下敷きにして、壁のない野外の音楽のハシリだったはずで(オーボエはいきなり壁の裏から吹きますし)、それがああいう演奏になったところが、あの指揮者の特徴ではあるんでしょうね。)

*この件、次のエントリーへつづきます。→ http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20120919/p1