ヤマカズと「限られたパイ」の幻想

3年前まで無名だった指揮者の山田和樹(33)が2012年の夏、たて続けに大舞台を成功へ導き、ついに全貌を現した。今年が生誕100年に当たる20世紀の大指揮者、山田一雄(1991年没)は「ヤマカズ」のあだ名で親しまれた。次の世紀に活躍の場を得た山田和樹は、すでに「ヤマカズ21」と呼ばれ、未来のマエストロ(巨匠)の座に王手をかけつつある。

小澤征爾が惚れ込んだ指揮者「ヤマカズ21」 パワー全開の夏 |アート&レビュー|NIKKEI STYLE

無署名ですが、清々しい記事ですね。「巨匠の座に王手」と言われて、いいんじゃないの、と読みながら応援したくなるのは、この人を誉めることが誰かを貶めることとセットじゃないからだと思いました。

自分でマネジメントもやってしまう、とか、箔を付けるための留学へいそしむわけじゃない、とか、共同作業としての舞台制作とか、新しい場所と可能性が無理なく開けている感じの描写・位置づけ。

それがいいんじゃないでしょうか。

椅子取りゲームみたいに、誰かが王座に就くためには、別の誰かがその場所から排除される、とか、錦の御旗としてプリンスがお通りになるのだから、お前たちは道を開けろ、とか、混沌を整流するには非常事態を宣言して独裁やむなし!とか(←オーケストラという誇り高き技芸保持者の集団は、先生が生徒を率いるブラバンじゃないんで、強権独裁でどうにかなるほど単純ではないと思います!)、なんか、そういう古くさいカビの生えた語法がこの期に及んで復活するのが不快なのであって、そうじゃないのであれば、どんどんやっていただければいいと思う。

音楽(聴覚藝術)は、ジャンルの性質上、特定の場所や形に固定されることなくどんどん組み変わっていく柔軟性があるはずです。

一方、人間というのは特定の場所や形に縛られた生命体ですし、当人の来歴やキャパシティによって、「これでなきゃムリ」というところへ音を固めて楽をしたくなる。しかも、幼少から特定の型にはめ込んで囲い込むことで何かを存続させようという傾向が強い風向きになると、当人には何の悪気もないのに型を焼き付けられて、どこがおかしいのか、自覚することすらできないまま生きてしまったりすることになる。

音楽の聴き方―聴く型と趣味を語る言葉 (中公新書)

音楽の聴き方―聴く型と趣味を語る言葉 (中公新書)

「聴く型」ですよ、「型」……。なるほど東大寺の大仏から屋台のタイ焼き・たこ焼きまで、日本文化には型に流体を流し込むものが色々あるけれど。

「型」という概念は、明治の歌舞伎や昭和の文楽のように、自らの地位を高め、確立しようとする文化の高揚期に要請される補助手段、建設現場で高層建物の周りに組み上げる足場のようなものかもしれません。立派な建物ができたら「型」=足場は撤去されます。

築数十年、数百年の物件が再び「型」にしがみつくのは、老朽化して倒れかけているのであって、解体・建て替えの時期が来た兆候かもしれませんね。(言うまでもないですが、音楽が老朽化している、というのではなく、聴くことに「型」が必須だと主張する人の耳と構えに老朽化の兆候がある、という意味です。)

そっち系の人やドグマを上手に活用しながら、新しい場所や形を見つけていけそうなのであれば、それがベストですよね。本当にそれができるかどうかはこれからの話ですけれど……。

21世紀という感じで、いいと思います。

ヤマカズの「音楽の筋の良さ」は、美点というより、今の優秀な人ならそこまでは行けて当然だけれども先がないかもしれない停滞した現状としか私には思えない。でも、純音楽的ではないところで何かを持っている(やっている)んだったら、それが突破口になるかもしれない。東京の人だし、大阪で1、2回聴いただけでは、そこのところはどうなんだかわからないし、無理に誉めようとすると珍妙な復古調になる。(当人が知ってか知らずか、復古派な人(←普段は岩陰みたいなところにジッと息をひそめて気配を消している)を釣り上げるエサとして大漁の大収穫だったので、それだけでも私は満足ではありますが、それは、彼本人とはあまり関係がないかもしれない。)

東京でずっと見てきた人が上の記事のように、これまで東京で彼がどう過ごして、何がきっかけでブレイクスルーが起きたのか、具体的に事情を挙げてくださってはじめて、なんであんなに東京で騒がれるのか、とりあえずその理由まではわかりました。

もう直き春になるだらう (山田一雄交響作品集)

もう直き春になるだらう (山田一雄交響作品集)

  • アーティスト: オーケストラ・ニッポニカ,田中良和(指揮),山田英津子(ソプラノ)
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  • 発売日: 2012/03/28
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こちらは、20世紀の「初代ヤマカズ」、山田一雄の管弦楽作品集で、伝説の交響的「木曾」や、マーラーの5番の送葬音楽を大日本帝国臣民の名の下、戦時下に鳴り響かせてしまった「おほむたから」など、めっぽう面白い。

戦時下の東京のオーケストラ活動に「青春」としか呼びようのないエネルギーがあったんだ、と思いました。山田一雄は1912年生まれで、こういう大管弦楽作品を書いたときは30歳前後。1940年に大栗裕が22歳で上京して飛び込んだ先にこんな世界が開けていた、彼はきっとこういう種類の活力に憧れたのだろう、と思いました。(戦時下の帝都のオーケストラで奮戦することがイコール好戦的な軍部翼賛だ、という単純な図式になり得ないのは、今の大阪で民間のオーケストラを頑張ることが、イコール、橋下的な何でも民営化路線の肯定を意味しないのと同じこと。)

橋本國彦や深井史郎、伊福部昭と早坂文雄もたしかに同時期に立派な音楽を書いているけれど、二十歳過ぎの大阪の「街の子」をお江戸へ引き寄せたのは、プリングスハイム経由でマーラーを注入されていた「ヤマカズ的青春」だったような気がします。

(オケマンの人たちは、今でも本当に嬉しそうに「ヤマカズ伝説」を語りますよね。)

ヒトラー、ゾルゲ、トーマス・マン―クラウス・プリングスハイム二世回想録

ヒトラー、ゾルゲ、トーマス・マン―クラウス・プリングスハイム二世回想録

  • 作者: クラウス・H.プリングスハイム,Klaus H. Pringsheim,池内光久
  • 出版社/メーカー: 彩流社
  • 発売日: 2007/11
  • メディア: 単行本
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指揮者プリングスハイムに関する本はちょっと古めのものしかないようで、これはその息子の数奇な人生の回想録。