天才の語を非凡の意味で使うのは止めて欲しい

[短い不機嫌な追記あり]

今にもそういうことを言いそうに前のめりな人がいるので予防の意味で書いておく。

「天才」は実在するかもしれないし、しないかもしれないけれど、とにかく、それについては「天才」のロジックで語るべきであって、凡人が凡人の論理からはみだす部分を中心に語る、つまり、凡人から見た凡人ならざるものとしてしか天才を語らない、というのは止めたほうがいい。それでは誰も幸せにならないから。

同様に、ノーマルでないものは、要するにノーマルなもののロジックで語れない何かであるというに過ぎず、ノーマルなものを基準にして、どこがどう普通じゃないかを中心に語る、というのは、ノーマルな領域の保全にしかならないのでもういい加減に止めましょう。

耳の聞こえない人のコミュニケーション方法として手話というのがあるけれど、手話を解さない人があれを天才的なダンス・パフォーマンスとして売り出す、というのはいかがなものか、みたいな話なのだと思う。

耳の聞こえない子供たちに楽器を使わせるパフォーマンス(しばしばそれは、彼らにとって空気の振動を体感することを楽しむ行為なので、耳の聞こえる人間にとっては大音響になるらしい)というのにも、同様な戸惑いが残る。(アウトサイダー・アートに近いかも知れないことを色々やっている作曲家の野々村誠さんも、以前、同様のことを書いていたと思う。)

耳の聞こえない人が、幸いなことに楽譜というグラフィック表記があるのでそれを手がかりにしてオーケストラのスコアを書く、というのは、十分にありうるし、やればいいと思う。

そして、その曲を書いたのがどういう人か、ということを一旦脇においたところで考えると……、

日本の作曲家で、チャイコフスキーのサウンドに魅了されてそのスコアを調べたり、ラヴェルやストラヴィンスキーのオーケストレーションを詳しく研究したり、戦時中の日本の第一次オーケストラ・ブームのときや、80年代以後のバブルのときに、マーラーのようなスペクタクルをオーケストラで生み出そうと考えた人はいたけれど、

ブルックナーのシンフォニーを参照しながらオーケストラのスコアを書いた日本人作曲家、というのは、今までいなかったのではないだろうか。

私は、そこに狙いを絞ってやってくれたらよかったのではないかと思いました。

(以上、何の話をしているのか、意味のわからない人は無視してください。)

[追記]

個人の好きずきだから別にいいですが、そんな安全で凡庸な感想しか書けないんだったら、わざわざ前日に予告する必要はないと思う。

http://blogs.yahoo.co.jp/katzeblanca/23880663.html

当該事例において「作者の「心象風景」が音としてコンサートホールに立ち現れる」という図式が原理的に成立し得ないであろうことはちょっと考えればわかることなのに、そこに一切言及することなくこのような感想を書くのは倫理的に許し難いと私は思う。楽譜を書く、という営みは、そんなもんじゃないだろう。誰にとっても。

「曲の最後がホ長調で終わっていた」というのは、いったい何なのか。つまるところ、耳の聞こえるボクにはそれがわかる、という他我の差異をひけらかしたいわけか?

今、世の中では盲目のピアニストや盲目の歌手といった演奏家が話題になり、非健常者であることばかりに注目が集まっているように思えるが、佐村河内も全聾の作曲家として注目を集めている。しかし彼は、『全聾の』という前置きのない作曲家として人々に知られる事を望んでいるのではないだろうか。

http://www.sym.jp/critic/fukumoto/12/121024.html

が大前提としてあるわけですよね。

そして、キミにとってはそれを得るのが艱難辛苦であるけれども、ボクにとっては自明であること、あるいはその逆、というのが歴然とあるような状況において、フェアネスへの激烈な願望がどのような地点へたどり着くことになるのか、それを見極めるのが批評ではないか?

どちらか一方が絶対的な優位・劣位ではない地平を見いだそうとする倫理なしに、批評を書いてはいけないのではないだろうか?