雑感

現在、茨木の自宅に滞在できる時間が限られているので要点のみ。

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バルトークの民俗音楽編曲

バルトークの民俗音楽編曲

この本は、伊東信宏さんの博士論文後半の改稿だとか。論文提出が2010年で前年末が追い込みだったようです。ということは、2009年中にまとめられたということですね。

私が阪大音楽学の院ゼミで大栗裕のことをお話させてもらったのが2009年初めで、その経験をもとにまとめたのがこの論文です。

http://www3.osk.3web.ne.jp/~tsiraisi/musicology/article/ohguri-fantasia-osaka2.html

ゼミで話したときの伊東さんのコメントは、大栗裕が「大阪俗謡による幻想曲」で大阪の夏祭りのだんじりや獅子舞を使ったことを私が「引用」と言っていたのに違和感がある、というものでした。そういうコメントの背景には、バルトークにおけるフォークロアの「編曲」が本書でマッピングされているような広がりをもつことへの思いがあったのかもしれませんね。

私が大学3回生で阪大音楽学研究室へ入った年の夏の合宿で、伊東さんはこの研究の出発点になる修論発表、バルトークの44のヴァイオリン二重奏曲のなかの数曲の分析をしていました。1986年の夏です。

それから20年どころか四半世紀たって、一介の地方音楽評論家がゴソゴソと「東洋のバルトーク」の資料をあさっているときに、伊東さんは本家バルトークについて、ひとつのまとめに取り組んでいたわけですね。

上のリンク先の論文は、根岸一美先生の退官記念と銘打った阪大音楽学報へ寄稿しましたが、そういえば、同じ1986年に、ドイツ留学から戻った根岸先生が大阪教育大から阪大へ、半期の非常勤講師で出議して、ブルックナーの交響曲を論じてくださったのでした。

わたくしが上の論文を阪大の雑誌へ出したのは、もちろん、「バルトークの伊東さん」に読んでもらいたかったからなので、今度この本が出て、そういうことでよかったのかな、と思っています。(わたくしのやっていることを伊東さんがどう思っているか、などということは、一度も聞いたことがないので、こちらが一方的に色々考えているに過ぎませんし、それでいいのだと思いますが。)

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以下、全然別の話です。

立派な言葉遣いで稚拙なことを書くのと、稚拙な言葉遣いでちゃんとしたことを考えるのと、どちらが人間としてまともか、といえば後者である、ということで言葉というのは変化していくのだと思います。

書き言葉の文法・レトリック中心の外国語教育が行きすぎてはいけない、という考え方の背景にあるのもこれですね。

そして、母語によるエクリチュールにもこれは通じる。

「○○さんがこういうことを書きました」

と言えばすむことを、

「○○ともあろう人がこういうことを書くとは」

と飾るのは、私には、もはや無用の文飾だとしか思えない。

そういうのを全部捨てたところで何が書けるか。今大切なのはそれかな、と思います。

http://www.nikkei.com/article/DGXBZO47857800Q2A031C1000001/

例えば3月の大植英次スペシャル・コンサートのときには、音楽そのものについて書こうとすると紋切り型な「批評用語」を並べてしまっていた日経大阪の佐々木記者が、半年経って、ウィーン楽友協会合唱団の演奏の感想を自分の言葉で書けるようになっている、とか、そういうことが大事であると、私は思うわけだ。

(佐々木さんに何か音楽に関するコメントをすると、ついつい、その「言葉」が記事にまぎれこんだりするので、この半年、大変お世話になっている担当記者さんではありますが、何も言わないようにしています。)

それにひきかえ(←と、敢えて、悪いレトリックを使っておく)、原語の発音を正しく反映するとしたら「ブゥレーズだ」とか、ほんと、バカじゃないかと思うわけで、そういう「型」にこだわる批評家との違いは、当たり前すぎることだけれども正視しなければいけないと思う。

「聴く型」を掲げる帝国軍に徹底抗戦じゃ(笑)

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「音楽の構築性」という標語の正体についても書きたかったのだが時間切れ。また、今度。