勝手に添削

もちろん、ルプーの演奏は、そのようなものではない。彼は演奏をしながら、じっと耳を澄ませて聴いているに違いない。音楽の彼岸に鳴り響くものを。そして、そうして自分が聴いている異世界の調べを、即座に演奏で表しつつ、そうした「異世界」と客席の聴衆を繋いでいるのではなかろうか。

薄明の調べ――ラドゥ・ルプーのシューベルト―― ( イラストレーション ) - Le plaisir de la musique 音楽の歓び - Yahoo!ブログ

これではまるで、泉鏡花(←大久保賢と同じ金沢出身)の「たそがれ」(昼間の人間界と夜の闇の霊界のはざま)ではないか。まあ、その思いつきはちょっと面白いけれど……。

でも、シューベルトという本地西洋の仏が金沢へ垂迹したのが泉鏡花であり、ラドゥ・ルプーは、泉鏡花という金沢の神の言葉を降霊して語ることのできる巫女である、というのは、いくらなんでもこちら側へ話を引きつけすぎる神話だと思うので、私は、もっと「近い過去」で説明する批評を日経に出稿しました。そのうち掲載されると思います。

中世の神と仏 (日本史リブレット)

中世の神と仏 (日本史リブレット)

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では、何に満足したのか? それを一言でいえば、「親密さ」とでもなろうか。このホールは中規模のホールなのだが、不思議なことに、演奏を聴いている間、何かもっと小さなホールで、間近で演奏されているような感じがしたのだ。そして、実にくつろいだ雰囲気の中で音楽を楽しめたのである。

http://blogs.yahoo.co.jp/katzeblanca/23969083.html

先のルプー評では、「ところで、最初に舞台の照明のことについて触れたが、それがいわばルプーの演奏のあり方を象徴しているように思われたからだ」とか、クドいくらい読み手を意識した説明(オレはこんなところまで気を配って書いてるんだぞ、な自慢がちょっと入っている)の言葉を挟んでいたのに、こちらの文章が断定の連打なのはどうしたことか?

ウィーンの演奏に親密さがある、というのは、言葉として、既に擦り切れた紋切り型であることに、著者が気付いていないはずはない。

そして、単に紋切り型をなぞるだけでは済まない何かを体験して、それを言葉にしたいのだけれど、なかなか上手い書き方がみつからず、それでつい、(これも紋切り型に過ぎないことを承知の上で)

ところで、20世紀は、演奏がどんどん「きっちり」かつ「精緻」になっていった時代であった。そして、その「理想」を最大限に実現した分野というのが、「弦楽四重奏」ではなかったか?

という放言へ突進してしまう……。読者はほったらかしで、著者が勝手に七転八倒。悪い感想文のお手本のような結末である。

その日その場の演奏それ自体がどうであったか、を記述する言葉を見つけてはじめて、紋切り型を突き抜けることができるのではないだろうか。

(まあ、この指摘も言葉としては紋切り型だし、私はこの演奏会を聴いていないので、どの道何もできないけれど、怠惰な放言で埋め尽くされた批評を読むのは辛い。読者に対して、まったくもって「親密さ」を欠いているし。

2時間演奏会の場に座っていながら、ストンと腑に落ちることを何も受け取れなかったのだとしたら、その時点で「批評家の負け」です。負けたゲームについて、あとで大声でギャーギャーわめくのは見苦しい。そういうときこそ、敗戦の弁を正直に内省して書くべきではないか。

演奏が良かった悪かった、という評判とは別ところに、批評・判断の善し悪しがあるはずです。好評なものを誉めれば評判の連鎖に連なることができるけれども、好き勝手言えばいいもんじゃない。)

[付け足し]

それに、「ウィーンの演奏は親密だ」と書いてしまうのは、intimateの語を見たら自動的に「親密」という日本語を当てるのに似た、悪しき直訳だと思うんですよね。

いついかなる場所においても「intimate/親密」(あるいはそれに相当する各国語)という語を呼び覚ますような演奏というのが可能だとしたら、それは、もはや普通の意味での「親密さ」とは似ても似つかないグローバルな表現だ、ということになる。

あるいは、もしかすると当人達の関係性は「親密」の語が当てはまらない緊張に満ちたものかもしれないけれども、海外公演で日本の大阪のあのホールで演奏したときに、聴衆に「親密さ」の印象を与えることに成功した、ということだってあるかもしれない。だとしたら、そこでは彼らの人間関係(を指す「親密」の語)ではなく、彼らの技芸の質が問題になる。

また逆に、当人同士はまさに「親密」な関係を保っていて、いつでもそうなので、聴衆は、音がどうか、ということと関係なく、彼らの姿を見ているだけであったかい気持ちになる、ということだってありえないことではない(彼らがそうだった、という意味じゃないですけど)。

悪い翻訳に苛立つ人があるように(大久保さんはまさにそうなんですよね)、人は安直な言葉遣いに苛立つ。翻訳においては一語一語の選択に全身全霊を込める人が、音楽会の感想を書くときには、自動翻訳機械のように、どこかに登録された言葉遣いの切り貼りになってしまう、というのは、ちとマズいのではないだろうか。

「ケンちゃんは、いつでも独りで勝手に逝っちゃうんだもの……」

(もちろんこれは、実生活において親しい人がいたりいなかったり、そこで親密な何かが育まれたり、育まれていなかったりするかどうかとは直接関係のない言葉の問題、「言葉を書く」営みの話であって、マスをかく、という営みについて話しているのではないわけだが、毎日欠かさず「書く」というのは、精力の要る修行ではあると思う。絶倫への道は遠い……か)

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愛の不可能性の演出家パトリス・シェローは、平凡な男女の週一回の逢瀬をかつてこういう映画にまとめたわけだが、21世紀の全体主義において、彼が20世紀に偉大なるワーグナーの楽劇をあのような形で演出したことは、もはや黒歴史なのだろうか?