ニーチェをぶっ飛ばせ! 「イーノック・アーデン」で貧しき者は幸いなり

「○○なる者は幸いなり」

という語法は紛れもなくキリスト教日本語だし、そんな口のきき方をする人とは縁を断つ。わたしは「無縁」の仏教徒でいく(と今決めました)。

メロドラマ~朗読とピアノのための作品集

メロドラマ~朗読とピアノのための作品集

  • アーティスト: フィッシャー=ディースカウ(ディートリヒ),シューマン,R.シュトラウス,ウルマン,リスト,ケーリング(ブルクハルト)
  • 出版社/メーカー: ユニバーサル ミュージック クラシック
  • 発売日: 2005/06/08
  • メディア: CD
  • クリック: 16回
  • この商品を含むブログ (3件) を見る
道徳の系譜学 (光文社古典新訳文庫)

道徳の系譜学 (光文社古典新訳文庫)

きっとアレですね。

宗教的情熱でクラシック音楽に帰依する人は、音楽以外のことについて免疫力が極端に弱くて、わずかなストレスで心が壊れるんでしょうね。

神の御加護のあらんことを! アニーへの君の愛は本物だ! テニスン万歳!

イノック・アーデン

イノック・アーデン

(そしてちなみに、阿弥陀様も、他力の本願を立てて衆生をあまねくお救いくださいますので、宗教をご用命の際はこちらもよろしく。東アジアにローカライズ済み、日本語サポートは万全です! 動作環境:出家不要、難行・呪術は一切なし、ただし、南無阿弥陀仏が必要になります。)

[追記]

大久保氏の口ぶりを見ていると、「選ばれし民」でありたい願望が特定の公演に過剰適応する傾向が認められるわけですが、

ザ・フェニックスホールは、京都至上主義(京都自身は別にそんなことないのだけれど、大阪への出島が本国以上に原理主義化するのは、植民地の小役人が宗主国を背負って横柄なのと同じこと)の唐変木で知られるプロデューサーさんが切り盛りしてます。だからラインナップが微妙に偏屈なわけですが、そこが、「選ばれし民」でありたいピープルを呼び寄せてしまうのかもしれませんね。(かつてその種の人々を呼び寄せていたイシハラホールは、もはや、自主公演をやっていませんし。)

このサイズのホールのカラーがプロデューサーの趣味性に染まるのは普通のことですし、音楽に触れて心がどのように動こうと、それは他人様の勝手なので、別にいいのですが、ヒトを「個人」としてバラバラにした上でその心へ食い込む西洋近代音楽というのは、結構、危険な刃なんですねえ。^^;;

      • -

「イーノック・アーデン」は、三原さんが朗読を本格的に作り込んで来られたのに感心しましたし、小坂圭太はいつでもどこでも誰とやっても小坂圭太でありました。

三原さんのやや甘い感じの語り口と、小坂さんの屹立するピアノは、演奏の巧拙とかでなく、タイプが全然違って、しかも、曖昧に相手に合わせたりしないお二人ですから、カップリングとしてどうなのか、という思いは最後まで残りましたが、それは、まあ、小さなことでしょう。個性の確立した男二人ががっつり対峙する、という図が、19世紀教養市民文化風であり、いわば、数日前のザ・シンフォニーホールにおける(最近やたらとオンナが幅をきかせる)オーケストラの顔と言うべき定期演奏会のステージ最前面にシロウトの中学生が並ぶ嘆かわしく退廃した図柄の対極であり、このホモソーシャルなヴィクトリア朝礼讃こそが、「選ばれし民」でありたいピープルには、かけがえのない魅力なのだと思います。

      • -

でも、ここに「時代精神」とかないですからね。

この座組・演目が実現したのはたくさんの偶然の集積であったようですし、舞台作品が、たとえ舞台上に立つのがミニマムな人数であったとしても、裏でたくさんの人が動く共同作業であり、バタバタとなだれこむ本番一発、イチかバチの危うい綱渡りであることを、この日、この場へ参集した「幸いなる民」は、クライマックスで壁面中央に映し出されてしまったWindowsのデスクトップ画面で垣間見ることになりました。

(念のため申しますが、これは、スタッフのミスを揶揄するものではありません。

各種舞台設備が極限まで「効率化」されている現状が、ボタンひとつで操作できてしまう脱肉体労働化と裏腹に、オペレーターに尋常でない集中と緊張を強いる作業になっているのは、知っている人は知っていることですし、オペレーターへシワ寄せが行く形での「効率化」が、舞台と客席における夢のようにスムーズな「帝国主義時代の復興」を支えているとしたら、むしろ、そのチグハグ具合が2012年の「時代精神」を表していると言うべきだと思います。

わたしたちは、映画が全体主義と添い寝した20世紀とは違うステージへ足を踏み入れているわけです。このホールのメインターゲットであるに違いない北摂は、「維新」の票田であるのみならず、クラシック音楽真理教からも狙われてますよ。お気をつけくださいませ。)

      • -

事前に唯一懸念したのは、「イーノック・アーデン」という演目が、この堂々たる出演者が大真面目に取り組むに足る作品なのだろうか、ということだったのですが、内容といい音楽といい、ポスト・ワーグナー世代による帝国主義全盛期の「ウルトラ保守としてのモデルネ」の凝縮、ということだったみたいです。

1時間の大作ですが、ピアノ・パートは数頁に収まってしまうようです。

普通に音の演出を考えるとしたら、もっとたくさん細かく入れたくなりそうなものですが、素知らぬ顔で長い朗読を続けて、本当に必要な(と作曲者が判断した)ところだけ音が入る形です。

リヒャルト・シュトラウスが、いつも左手をポケットに入れて指揮をして、ジェスチュアがものすごく小さかった、というのを思い出しました。

楽譜での台詞の読み方指定も、発想記号などを書くときのように、台詞がピアノの楽譜に、おおよそこのあたり、という感じで書き込んであるのですが、ポイントの単語にはアンダーラインで印がついていますし、これで必要十分ですね。

朗読とピアノの関係は、オーケストラの楽員が、自分のパート譜(詩のテクスト)を自分のペースで読みながら、要所で目線のはしっこへ指揮者を入れておくのによく似ていると思いました。

それでもドラマの勘所をつかんで、浄瑠璃の立て台詞みたいに畳みかけるところはものすごい迫力だし(楽譜では、1小節に単語が4つずつ、ほぼ、1拍1単語のテンポで語ることが指示されている)、最後は舞台中央でヘルデンテノールが大アリアを歌いあげるのに似たカタルシスがある。

お見事な作品でした。

必要なことは知り得たので、私はこれで十分です。

政治・宗教関係のあれこれ(客席には色々な顔が見えたので、年末恒例に何かの栄誉を授けるとか、あるんですかね?)は、関係者でどうぞご勝手に。

      • -

賞でもあげといたら、予算獲得が楽になるだろうと恩を売り、より深く食い込む、みたいなやり口があるのかもしれませんが、この筋の人たちは、やることが露骨すぎますからねえ……。

「彼らが手を突っ込むと必ずその団体が重みに耐えかねてツブれる」の法則が、この不死鳥の塔でこの日を境にカウントダウンに入った、という不吉な事態でないのを祈ります。

出発点は、関学カラーでアットホームないいホールだったんだから。