ヒトは相対性に耐えるしかない、とカントは言った

大久保賢が、「白石さんの美しい文章は……」云々と面と向かって私に言ったことがある。

残念ながら、白石知雄の文章は美しい、という判断は、妥当性に乏しいことは本人がよく知ってます。(以前、誰かがtwitterで言っていた「下品」が適切でしょう。)Excel使った明朗会計に近い文章を書こうとして、ゴチャゴチャやっている現状がこのような形になっているだけです。

では、なぜ、彼がそのように発言せねばならなかったのか。

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細かい検証手順は省略しますが、彼がブログに綴る文章を読み続けていると、おそらくこのブログの書き手は、2つのタイプのどちらかであろう、というところまで人物像を絞り込むことができそうです。

ひとつは、

  • (1) このブログの書き手は、絶対的な質(天才とか閃きとか呼ばれるような)を希求するほとんど宗教的な情熱を胸に抱き、そこへ手が届かないことに煉獄の炎に耐えるが如き苦しみを感じながら日々を過ごす受難の人である可能性

そしてもうひとつは、

  • (2) とにかく今の生活には不便がたくさんあるので、方法はなんでもいいからもっと楽な暮らしがしたい。それが無理なんだったら、せめて、今の暮らしは社会のせいであり、オレ自身は何も悪くない、という証しが欲しい。なんでもいいから、他人よりオレが勝っている、というものが欲しい。それさえあれば、心を慰めることができて、今夜も安眠できるから、と思っている生存本能としての「利己」に正直なプラグマティストである可能性

です。

山田和樹やルプーを全力で称讃する作文を発表するのは(1)の衝動を感じさせますが、居眠りしながら聴く音楽の快さを綴る文章は、俺様の文章にシャカリキになって反論する他者をはぐらかし、そのような「心の余裕」を見せることで負けて勝つ試みに見えます。そこにはおそらく、(2)の衝動が働いているのでしょう。(「清水幾太郎の戦略」とされるものへの共感も影を落としている感じがします。)

メディアと知識人 - 清水幾太郎の覇権と忘却

メディアと知識人 - 清水幾太郎の覇権と忘却

そして、「白石知雄の文章は美しい」という正しくない言明を当人に向かって行うのは、一方で(1)の衝動にもとづき、他人がどのように考えようと白石知雄の本質はそこである、と神・大久保賢の裁定が下ったということであり、しかし同時にそこには、(2)の衝動にもとづく続きがあって、「確かに文章は美しいが、○○においては私が勝っている」と内心で思っているのだろうと、私は想像しています。

(この「○○」に何が当てはまるかということは、当人が言わなかったのでわかりませんが。)

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でも、事実はどうかというと、音楽評論家としても、研究者(くずれ)としても、白石知雄と大久保賢は、どっちもどっちの「それなり」だと思います。

高学歴ワーキングプアのハシリ、社会の浮き草に過ぎません。

何らかの観点に立った場合に白石知雄が圧倒的にすばぬけた「質」によって煌めいているとか、大久保賢が、ある面では白石知雄にかなわないけれども、別の面では、目の覚めるような不世出の才能を発揮する、とか、そんな英雄列伝のような歴史が生きられているわけではありません。

(すでに皆さま先刻ご承知のことだとは思いますが(笑)。)

それにもかかわらず、天下の日経新聞や読売新聞が、小さいながらもこの「それなり」な人間に書名入りで文章を書くことをオーダーするのは、「それなり」の人間でも、無為に遊ばせとくよりは、何かやらせておいたほうが少なく悪い、そういう判断で世の中が回っているからだと思います。

絶対的な質・閃き・才能を有する人間がすべてを総取りするような社会設計というのもあり得るかもしれないけれども、幸か不幸か、今わたくしたちが生きている世の中は、どうやらそういう風になっていなくて、だから「それなり」の人間にも仕事がある、たぶん、そういうことだと思います。

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さて、それではそのように私やあなたを取り巻いているこの凡庸な世界へ「否」を突き付けるクラシック音楽への宗教的情熱がどのようにして心の内に発生するかというと、どうも、音楽のエクリチュール教育に原因があるような気がします。

和声とか対位法とか。

あれは、西洋人のやることですから一定の仮説や前提やドグマにもとづくシステム・体系にまとまっていますし、発祥は中世やバロックに遡るとしても、「凡人」に仕事を振り分けながら運営する近代社会に適応するように手直しされて今日に至っておりますので、可能な限りわずかな予備知識だけを前提として、初学者が段階を追って習得・熟達できるようになっています。

でも、音楽に関する「わざ」ですから、どこかで感性と理性の裂け目を飛び越えねばならない局面があります。

特定の書き方をシステム・体系に照らして「正しい/誤っている」と判定することができるようにはなっているけれども、その「正しい/誤っている」の言明に、「こっちのほうが美しい」という感性的な判断が混入する場面があるんだろうと思うのです。

そしてそのような感性的な判断が、美学的な議論・批評としてではなく、あくまで「わざ」の習得という構えで伝授されると、学習者の心のなかで、正誤の判定と美醜の判断の境界が曖昧になり、理性と趣味判断が融解・融合することがある。のみならず、私の見たところ、どうやら、そういう心の有り様に至ることが推奨されているようにも思うんですよね。

大久保賢の文章を読むと、単に「世間では○○の評判が良いようだが、私は××を好む」と趣味判断を下せば済むところで、世間の事情を具体的に調査したわけでもないのに、「一般に、演奏とはこのようなものだと思われている。例えば○○がそうだ」という風に、○○の特性が一般法則へ格上げされることがあります。その強引さに、こちらはギョッとするわけですが、読み進めると、ほとんどの場合、これは、「しかしながら、××はそうではない」という風に、自分の趣味判断を正誤の判定、真理の探究の語法で綴る前処理になっていることがわかります。

客観的に見れば「ただの屁理屈」ですが、しばしば、大真面目かつ本気の文脈にこのような歪みが発生します。どうやら、主観的には、「真実の言葉」のつもりだとしか思えないのです。私はこれを、エクリチュール教育で心に植え付けられた理性と趣味判断の融解・融合が、音楽に関する思考全般へ転移した症状と見ます。

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また、和声・対位法というエクリチュールの習得は、単に楽譜を読むだけでなく、自ら課題を解き、楽譜を書く「行為」の位相を含みます。音の動かし方に関する礼儀作法の「しつけ」であり、上で述べた理性と趣味判断の融解・融合に似た手順で、今度は善悪の判断(倫理)と美的判断が同一視され、悟性までもが趣味判断と融解・融合することがあるようです。

「素晴らしい」と思える音楽会へ行くことは、趣味判断の結果であるのみならず、善である、というわけです。

(他方で現在の学校教育へ厳しい怒りが綴られるのは、それが、趣味判断に照らして不快であるものを押しつける「悪行」と認定されているからであるようです。彼が「正しく」かつ「美しい」ものを学んだのは、藝大系のエクリチュール教育によってであるわけですが、「不快は悪である」という趣味判断と倫理が融合・融解した憤りは、学校の音楽教師をやったときに醸造されたと思われます。そうして、「真理」と「善」と「美」の合一を求める学究の人、大久保賢が誕生し、そのような人物として阪大へやって来たわけです。総合芸術とか神秘主義が蔓延した19世紀末の音楽へ彼が心を寄せてブゾーニを研究テーマに選び、岡田暁生に心酔するのは、自然の成り行きなのでした。)

そして注意深く彼のブログを観察していると、反対に、日頃親しくつきあっている音楽家の演奏が、特段の検証なしに「素晴らしい」とされている事例に出くわすことがあります。「この人は、気持ちよくつきあうことのできる善き人である」という状態は、一切の敷居なく「彼の音楽行動は素晴らしい」という趣味判断へ移行できるかのようです。

音楽とは、「素晴らしい」のみならず、実に「お目出度い」営みである、というわけです。

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カントの三批判書が近代哲学の古典として読み継がれているのは、とても残念なお知らせではあるけれど、啓蒙された人士がワアワアしゃべくりまくる来るべき社会において、人間の心の構造、理性・悟性と判断力・構想力の関係はそのように「お目出度い」ものではないらしい、という苦い知見が刻まれているからである、という風に私は理解しています。

カント自身がそこまで極端な状況を想定していたか、定かではないですが、その後の世の成り行きのなかで、美しくもなく極悪非道な真実とか、目を背けたくなるほど醜悪で混沌と不透明な善行、というのは確かに存在することが確認されているし、藝術は、真善美の合一の夢を見せるのと同じかそれ以上に、そのような不可思議な現実、どんな夢よりも奇妙なこの世界の有様を照らす灯火でもあるように私には思われます。

ベートーヴェンとその時代 (大作曲家とその時代シリーズ)

ベートーヴェンとその時代 (大作曲家とその時代シリーズ)

たとえば、かつて私は、ダールハウスの難解とされたりもするベートーヴェン論を、そのような裂け目を生きたカントの同時代人の位置にこの作曲家を据えようとする試みとして読んでいたような気がします。

ベートーヴェンは、私の考えでは、神ならぬ身のトホホな感じを抱えた音楽家、全能感を与えてくれない作曲家です。

「第九」のあの強引な展開で突っ切る人類愛のメッセージは、「醜悪で混沌とした善行」そのものだと思う。真善美の合一なんてありゃしません。

でも、そこがいいんじゃないだろうか。

作曲家 人と作品 ベートーヴェン (作曲家・人と作品)

作曲家 人と作品 ベートーヴェン (作曲家・人と作品)

こうしてわたしたちは、既に様々なことを知り、経験してしまったのです。だから、今更美しくないことが悪徳のように蔑視されたり、誤謬であるかのように矯正されてはたまらんのです。

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で、どうするか。

カントの一連の論考で宗教は議論から遠ざけられているけれども、そのあと最晩年には、そのような苦い認識の先に宗教を位置づける構想があったらしいですが、それがどういうものなのかは、私は読んでいないので知りません。

でもとりあえず、宗教行動は、「近代」と呼ばれたりもするそれ以後の社会においても、(その実際に到来した社会の有り様は、カントが「来たるべき」と理論的に備えた姿とすべてが合致しているわけではないのだろうけれども)根絶されることはなかったし、「それなり」の人間がそれなりの役割を演じながらダラダラ続く日常のなかで、これまた「それなり」の役割を果たし続けているようです。

私は、それでいいんじゃないのかなあ、と思っています。

19世紀末が妄想したような救済・合一を掲げることだけが宗教の役割ではないし、むしろ、そういうキレイゴトで片付かない裂け目に耐えるためにこそ信仰というのものがあるのだろう、と思います。

宗教にそうした見たくない裂け目を根絶する願望を託すとき、そういう逃避は反作用的に現実を悪くするし、長年の風説に耐えて存続するような宗教は、そのような逃避に耽溺しないための回路を仕込んであるはずです。

ニッポンのクラシック音楽は、渡来してからまだ150年だし、本来、信仰の対象となることを想定せずに営まれているのですから、「鰯の頭も信心から」とはいいますが、これを生活規範として入信するのは、危険が大きすぎるのではないかと思います。

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本当に辛いんだったら、そういう民間信仰ではなく、プロの宗教を頼ったほうがたぶん安全です。

現実の日々のなかで、例えば、ミッションによって神戸の地へやってきたシスターたちが設立した女子大で、「先生は神を信じないのですか」と学生さんから詰め寄られたりしながら色々学んで、17年間、それなりに平穏に仕事をさせていただいておりますし、

そうかと思えば、

大栗裕の仕事ぶりをまとめるために本願寺やその系列校の方々と御一緒にお仕事をさせていただきながら、浄土真宗について学ばせていただく機会を得ました。

そうかと思えば、

これまた大栗裕が使ったお囃子のことを知りたくて、生國魂神社の氏子さんを紹介していただき、会ったその日に、お酒を飲みながら、「いくたまの社格は……」とか、「高津の宮が大坂の起源であって、そのときに……」というお話を脳内にインストールしていただきました。

「大阪アースダイバー」とか影も形もなく、何の予備知識もないときに、いきなり、上町台地とはどのような場所なのか、ということを学習するところから、わたくしの「大栗裕の旅」ははじまったのでございます。

大阪アースダイバー

大阪アースダイバー

でも、さっきまで「高津の宮」を熱く語っていたおっちゃんは、そのあと駅へ向かう帰り道で、あの界隈ですからファッションホテルの横を通ることになり、不意に、「ここは、ワシの会社が設計したんや」とか言ったりするわけです。

そういう風に生きておりますと、クラシック音楽が突出してつきあい難い「宗教性」を帯びるのは、なんだか、シロウトの生兵法な感じがするのです。

信教の自由ですから、信仰は尊重します。そのうえで、気持ちよくおつきあいできる人とはおつきあいするし、難しい人とのおつきあいは難しくなる。

それだけのことではありますが……。

ONTOMO MOOK [完全カラー保存版] 吉田秀和―音楽を心の友と

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本屋へ行ったら『レコード芸術』本誌で前に組まれていた吉田秀和追悼特集が増補ムック本になっていた。最後に生前関わりのあった人たちの追悼文があって、トメは伊東信宏さん。

吉田家の先祖の墓がそんなところにあるとは知らなかった。神道・祖霊信仰の一番奥のところ……か。

やっぱり文体だけ影響されるのでは、息苦しさが募るだけなんじゃないかなあ。