昨今の「外国へ行けない男たち」の存在を身辺に意識しながら、改めて、日本を脱出したかった1953/54年の吉田秀和を読み直す

[追記あり、吉田秀和『音楽紀行』旅程一覧つき]

吉田秀和の『音楽紀行』(全集に「街、雲、それから音楽」として収録)の初出(『芸術新潮』1954年2月号、4〜12月号、1955年1〜11月号)を確認しながら旅程と執筆経緯を整理して、もう一度、全集の解題を読み直したりするうちに、「この人は、あわよくばこのままヨーロッパに住んでしまおう」と目論んでいたのではないか、と思った。

ある年の暮れ、気がついてみると仕事の約束がとても多かった。[……]それを金額に直すと、たしか五十万くらいになる。それで、そのころパリに行って勉強している作曲家の別宮貞雄さんに手紙を書いて、きいてみた。かりに五十万の金があるとすれば、それで何ヶ月ヨーロッパにいられるだろうか?と。(吉田秀和「解題」、『吉田秀和全集8 音楽と旅』、白水社、1999年(新装復刊)、478頁)

吉田秀和全集(8)音楽と旅

吉田秀和全集(8)音楽と旅

(藤原歌劇団や二期会のオペラチケットが500円、オーケストラが200円、300円の時代ですから50万は相当な額で、吉田秀和は戦後数年で文筆家として「売れた」んだな、と思いますし、40歳独身というお金が自由になる立場だったとはいえ、稼いだお金を外遊で自分に投資しようと考えるのは、昨今の、○○学芸賞の賞金で新車を買う大学の先生たちとは随分とライフスタイルや経済観念が違うなあとも思います(笑)。)

別宮貞雄から50万ならパリで半年はいられるだろうと言われ、そのあと今度は加藤周一にも同じことを訊く。そして、「節約しようと思えばできなくはないけれども、[……]慣れるまでに何ヶ月ないし何週間かかるかは実におまえの生活態度による」と言われ、半年よりは長くいられると思ったらしい。

その加藤さんも実は一年だか二年だかの予定で出かけて行ったのが -- 彼の生活態度によるのだろう -- 何年たっても帰らないという形であった。(同上)

加藤周一は1951年にパリ大学医学部に留学しているので、吉田秀和が同地へ来た時点で留学は3年目に入っている。

要するに、とにかく出国してしまえば、いつまで滞在できるかは己の才覚次第である、と覚悟を決めたと思われる。

(50万あっても半年か1年しかパリにいられないだろう、というのは、節約するといっても彼らが教養人にふさわしくそれなりに優雅に暮らしていたということなのか、円が弱く、50万が国内では大金でも国際通貨としてそれほどの価値がないということだったのか、そこは私にはよくわかりません。)

続 羊の歌―わが回想 (岩波新書 青版 690)

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パリで吉田秀和を出迎える側になった加藤周一も、海軍将校から実業に転進したおじいさんの姿とか、絵に描いたような山の手のいいとこの子で、国際人に「なった」、というより、生まれたときからそれが当たり前のような環境で育った人みたいですね。パリでは西洋人にやたらにもてたようだ。

加藤は3年目には医局での働き口も見つかりそうだったのだけれど、当時、日本人がフランスで就労ヴィザを取得するのはとてつもなく難しかったらしい。蓄えを使い果たして、(話者はプレイボーイであるという設定になっている『続・羊の歌』の書き方によると、女性関係を整理するため、ロンドンに恋人を待たせて、京都の婚約者と話を付けるために)一旦帰国することになる。帰国は南回りの貨物船。飛行機を使わなかったのは、本当にお金がなかったのかもしれませんね。

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しかし結局、吉田秀和のアメリカ、ヨーロッパを合わせた滞在期間は11ヵ月。出国時に周囲へも語っていたらしい「予定」より、さらに1ヶ月短くなった。

◇評論家吉田秀和氏外遊
一昨年秋以来、毎日新聞に演奏会評を執筆し、斉藤秀雄氏と共に子供のための音楽教室を主宰していた音楽評論家吉田秀和氏は、去る十二月五日午後羽田発のPA機で渡米した。同氏は二、三ヶ月米国楽壇を視察研究の後、ヨーロッパに渡り、フランス、ドイツなどを経て本年十二月帰国の予定である。(「楽界ニュース」、『音楽之友』1954年2月号、210頁)

『音楽之友』は(おそらく吉田秀和自身の説明をもとに)こんな風に報じているが、吉田は、予定より1ヵ月早くパリを11月3日に発ち帰国する。その経緯は全集の解題に説明がある。

けれども、八月だったかザルツブルクへ行ったら、そこに、おまえが帰ってくることがどうしても必要だからできるだけ早く帰ってきてくれという手紙が待っていた。(『吉田秀和全集8 音楽と旅』、479頁)

ロンドンのグラインドボーン音楽祭のあと、音楽祭期間中のザルツブルクに滞在したのは7月25日から8月8日。

バイロイトの第九(1954)

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そしてザルツブルクからバイロイトへ移動した8月9日に吉田秀和が聴いたのが、このフルトヴェングラーの「第九」。吉田は既に5月のパリへのベルリン・フィル来訪でフルトヴェングラーを聴き、ザルツブルクでは「魔弾の射手」と「ドン・ジョヴァンニ」を観ているので、この「第九」だけを突出して神格化するつもりはなかったと思われますが。
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ただし、帰国の日程を確定するのに手間取ったのか、あるいは、なんとか帰国せずにいられる可能性を探っていたのか、紀行文では、ハンブルクにいた10月上旬になってから、今月いっぱいで帰国する旨の手紙を日本に出したことになっている。

東京に残してきた仕事をひきうけてくれていた友人たちからの手紙をみて、僕は、旅行を予定より一ヶ月早くきりあげることにした。それは結局スペイン、ギリシア、エジプトなど地中海の沿岸を断念することになるのだった。そうして十月いっぱいに帰るだろうと東京に手紙を出したあとで、自分の旅程では、あとは完全に現代音楽をきく仕事だけが残っているのを、もう一度確かめながら、ハンブルクを立ちさった。(『吉田秀和全集8 音楽と旅』、297頁)

(ちなみに、『芸術新潮』の初出(1955年11月号、273-274頁)の該当部分の文面は、用字を含めて同一ですが、主語が「僕」ではなく「わたし」になっています。「わたし」が「僕」に変わるのは、1957年に連載を単行本にまとめたときからです。)

このあと、ドナウエッシンゲン音楽祭(10月16、17日)からケルンへの旅程は、奇しくもジョン・ケージのヨーロッパ・ツアーに同行する形になって(ケルンへの汽車はケージと一緒だったらしい)、

吉田秀和がドナウエッシンゲンでリハーサルから立ち会ったというのがこれですね。

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10月20日にパリへ戻って、11月3日発の便で日本へ。

帰国を促す「東京の友人たち」が誰なのか、どういう用件だったのか、現時点では不明です。吉田が関わっていた桐朋の音楽教室に関する何かなのか、もっと別のことなのか……。

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ともあれ、旅行の入口と出口を見ると、彼のアメリカ・ヨーロッパ行きは、「行きたい」という個人の強い意志によるものであったらしいことがわかります。

改めて読むとちょっと信じられないくらいびっしり詰まったスケジュールが実現したのは、事前に、あるいは、現地で、あらゆるツテを活用した結果だろうと思いますし、「招待状をもらった」等々の記述から、着実にコネクションを広げている様子が窺えます。今回は、諸事情から1年弱の「旅行」になっているけれども、そこで築いた人間関係を行きずりのもので終わらせるのではなく、今後につながるものにしたいと考えて動いている印象があり、だからこそ、旅行の最中に新しい情報が入り、どんどん予定が変わって充実していったのだろうと思われます。

(戦時中に内務省に勤めていたとき以来の卓越した事務処理能力が、自分で自分をマネジメントする力として発揮されている感じがします。)

だからこそ、「あわよくば、滞在を延長して……」という可能性を考えていないはずがないと思えるのですが、そういう風にならなかったのは「日本の友人からの手紙」のせいであり、どうやら、その後半世紀続くことになる日本での数々の仕事は、放っておくと糸の切れた風船のように外国へ出て行ってしまいそう「人材」をそうさせない内向きの力が働いたということなのでしょう。

(なにしろ、内務省を辞めたあとの戦後は、吉田秀和にとって「長い余生」だったに違いないので(http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20121122/p1)、外国を死ぬまで放浪しても、当人はかまわなかったと思われます。そして桐朋の生徒だった小澤征爾や内田光子の外国行きを応援したのは、彼自身ができなかったことを代わりにやってもらうような意識があったのかもしれませんね。)

音楽留学生 (1957年)

音楽留学生 (1957年)

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その後、外国へ行くことの意味は随分変わったような気がします。

私自身のことを書くと長くなるので別の機会にしますが、1990年代の阪大の音楽学は、一度も外国へ行ったことのないロック学者や、一度も外国へ行ったことのないクラシック音楽評論家を世に送り出すことになりました。

(その時点では、彼らを指導する教官(渡辺裕だ(笑))も留学経験がありませんでした。)

それがはたして良かったのかどうか。

2000年代以後、再び阪大に留学経験のある先生が赴任して、ごく普通に、大学院生を現地に行かせる指導方針に戻っていますから、客観的に見ると、やはりあの10年間が特殊であった、と言わざるを得ないように思います。

奇妙に息苦しい環境でした。

「グローバル化」に抵抗しようとするときの増田聡くんの論調とか、音盤を反芻的に聴くことにこだわる大久保賢さんのヨーロッパ像というのは、阪大音楽学で期間限定的に施行されていた「渡辺幕府の鎖国政策」と無縁ではないかもしれない。歴史家の目線でそのように言ってしまいたくなるのです。

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[追記]

さてそして、もう事の帰趨が大方決着している40過ぎのおっちゃんたちのことはともかく、

吉田秀和の1年弱の旅程については、その足取りと意味を丹念に検証するだけだと、作業が膨大すぎて途中で嫌になってしまいそうなので、

誰か語学力と交渉能力に自信のある若いライターさんが、1年がかりで、「21世紀の音楽紀行」を追体験してみる、というのはどうでしょう。

  • 12月5日、東京→ハワイ、ひきつづきハワイ→サン・フランシスコで西海岸の音楽評論家と会見(話題のティルソン・トーマスにも取材しちゃおう!)→ロサンジェルスでハリウッドの映画音楽の取材→シカゴ響を聴いて、12月23日という最悪の時期にワシントンへ→12月29日〜3月19日はニューヨークでオペラとコンサート三昧の日々、遺族に会ってバルトークのお墓参りを忘れずに!(なお、朝比奈隆から「ハンブルクのオペラ演出[レンネルト]がすごいらしい」との情報を得て、早速、記事に盛り込むが、芸術新潮編集者は「ニューヨークでたまたま落ち合った関響の朝比奈隆氏」を「ニューヨークでたまたま落ち合った関係の朝比奈隆氏」と誌面で誤植し(1954年7月号254頁)、関西の音楽事情に疎いことが露見する。) 以上アメリカ編
  • 3月20日、パリ到着(現地のエリート留学生に出迎えてもらって、すぐにカフェへ繰り出すべし)→4月4日〜15日、ローマで西欧文明の「古典」に目覚める(追体験するうえでの最大の難関は「現代音楽の国際会議への出席」だが、なんとかするべし)→4月16日〜20日、フィレンツェに滞在して、現地の音楽家の案内で地元の人だけが知るトスカナの豊かさを満喫しよう→4月21日〜23日、ミラノ・スカラ座を3晩続けて見る、定番の「観光」はこのように隙間に駆け足で詰め込むべし→4月24日〜5月末、パリのコンサートライフを本格的に体験するのはこのときだ!
  • 5月末〜6月19日、ウィーン芸術週間→6月20日〜月末、アムステルダム音楽祭、このあたりは現在の各地音楽祭のスケジュールに合わせて微調整が必要か?→6月末〜7月24日、ここで旅の疲れが出て、ゆっくりしなければなりません、そしてロンドンでの最大の問題は7月に入ってからグラインドボーン音楽祭のプラチナ・チケットを入手するという荒技、無理をきいてくれる新聞社の特派員の知り合いがいるようでなければ「吉田秀和」はできません。
  • 7月25日〜8月8日、ザルツブルク音楽祭→8月9日〜8月19日、バイロイト音楽祭←その年の演目はすべて聴く、ここでもスカラ座同様、定番の「観光」はハードスケジュールで詰め込むべし、の法則が成り立つ、でもここで頑張っておけば、「あの歴史的名演の現場にいた人」というステータスをおじいちゃんになってから獲得できます→8月下旬〜9月上旬、ミュンヘンで再びオペラ三昧→9月14日、ヴェネツィア・ビエンナーレで委嘱作「ねじの回転」の初演に立ち会い、ストラヴィンスキーの隣りに座って聴く、これができるためには、ここまでの半年余りの間に、招待状を出して貰えるくらい筋の良い人脈を作っておかなければなりません、そのあとしばらくヴェネツィアに滞在しつつ、フィレンツェに再び立ち寄り、トスカナへの愛着を深めましょう→9月21日〜10月上旬、ベルリン芸術週間(歌劇場監督と懇意になって、十年後の日本への引っ越し公演の足がかりをつかみましょう!)→10月上旬、ハンブルクで尖ったオペラ演出を堪能しようとするが、生憎、この期間に話題作が上演されておらず、地団駄を踏み一回休み、失意のうちに帰国予定を一ヶ月早める→10月16、17日、ドナウエッシンゲン現代音楽祭、招待状をもらってお城に泊めてもらいましょう→10月中旬、ケルン→10月20日〜11月3日、パリ、5月までいたのと同じ宿に泊まって、暖かく迎えてくれたおかみさんから「さあ、5月から今までヨーロッパのどこを歩き廻っていたのか話してごらん!」と言われる感動のシーン付き→帰国、最後に単行本では削除されたキメ台詞を呟く。

わたしはこの日本をよりよく愛する術を、少しは学んできたろうか?
(完)
(『芸術新潮』1955年11月号、280頁)

こうして書き出してみると、ハードスケジュールではありますが、大都市の名の通ったオペラやオーケストラ、有名音楽祭は今なら事前に日本でチケットを確保してから回ることができそうですね。

今なら比較的容易にできることなのか、それでも実際にこの日程で動くのはキツいのか、誰か追体験して欲しいです。