承前:「強くなりたい日本の私」(小山実稚恵で日本のステージ・ピアニストを考える)

[2/13 最後にいくつか加筆]

だいたいボクは、Twitterのような「好きなことを好きにつぶやく」という場で、自分の意見と異なるツイートだからと言ってわざわざ噛みつく人の気がしれない。いろんな意見の人がいるんだなーと思えばいいし、読んで不愉快なら読まなきゃいいだけの話である。

そもそも、人の文章を読んで、「私はそうではない別のことを考える」というときに、その「別の考え」を書いて、何がイカンのか理解不能なわけですが、

(「言いたいことを言わせてくれ」と主張する人が、別の人間が「言いたいことを言う」姿に文句言うのは変な話だし、わたしゃあんたの言論を封殺しようなどとは思っとりゃせん。いったい何を怯えているのか(笑)。)

ともあれ、雅哉が演出家、映画監督、TVクリエイターの「片岡K」こと片岡啓氏のつぶやきをピックアップしていたので、私も同氏の別のコメントを引用することにしよう。

少なくともボクは自分の素性を明らかにしてTwitterをやっていますから、ボクの発言が不愉快ならばブロックすればいいし、ボクの人間性を蔑むならばそうすればいいのです。ツイートに関しては以前にも書いた通り、こう思っていますので。

片岡K on Twitter: "少なくともボクは自分の素性を明らかにしてTwitterをやっていますから、ボクの発言が不愉快ならばブロックすればいいし、ボクの人間性を蔑むならばそうすればいいのです。ツイートに関しては以前にも書いた通り、こう思っていますので。→ https://t.co/x4gPv2CZ"

(ちなみに、雅哉というのは、片岡K氏とは違って、自分の素性を明らかにせずにTwitterをやっている、どこの誰とは知れぬ人物の分身である。)

で、前のエントリーで引用した雅哉氏のコメントについてだが、

中村紘子レベル。ffは力任せに鍵盤を叩くので、荒っぽく音が濁る。所詮チャイコフスキー・コンクール第3位、ショパン・コンクール第4位の実力だなと思った。

雅哉 on Twitter: "大阪フィル定期。グリーグを弾いた小山美稚恵さんはミス・タッチの多さにびっくりした。中村紘子レベル。ffは力任せに鍵盤を叩くので、荒っぽく音が濁る。所詮チャイコフスキー・コンクール第3位、ショパン・コンクール第4位の実力だなと思った。 #osaka_phil"

小山実稚恵の演奏は、昔からずっと今回のグリーグのようだったわけではなく、「チャイコフスキー・コンクール第3位、ショパン・コンクール第4位」だった頃とは様変わりしているのだけれど、どうやら雅哉は、そのあたりの経緯を追いかけているピアノ・ファンではないらしい。

先のグリーグを聴くと、雅哉ならずとも「まるで中村紘子」という言葉が思い浮かんで不思議はないと私も思うが(というか、私も演奏を聴きながらそう思ったし)、若い頃からの演奏について、それほど熱心にではなくともある程度のイメージを持っている人だったら、あのグリーグを聴いてしまった驚きを、

「所詮チャイコフスキー・コンクール第3位、ショパン・コンクール第4位の実力」

と粗雑に短絡するのではなく、

「最近、演奏が変わったねえ、どうしちゃったんだろう」

という戸惑いへ回収するのではないかと思う。

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私が思いつく説明は2つ。

ひとつは、セーゲルスタムに「やれやれ」とそそのかされた可能性。

自作で餅つきのように渾身の力で太鼓をぶったたかせる北欧の野生児ですから、グリーグから荒々しい表情を引き出すようにソリストを誘導することがあったとしても不思議ではないかもしれない。

(仮にそうだったとしても、小山さんの本番での弾き方はいただけない、とは思いますが。)

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もうひとつの、もうちょっと可能性が高いけれども、事態が深刻かもしれない、と思う説明は……、

当事者である小山さん以外には知りようのない何らかの理由で、彼女は最近、「強いピアニスト」になりたいと思い、そのような方向へ活動をシフトしているのではないか、ということです。

少なくとも、ここ数年の関西のオーケストラ定期に彼女が出演するときは、「らしくない」ハードな曲を選ぶことが多いように思います。京響でブラームスの2番に挑戦したときは、「そんなこと、やらなくてもいいのに」と思ったし……。

(この演奏会ですが……、ピアノのことを何も書いていないのは、書きたくなかったのだと思います。→http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20050309/p1

そういう経緯があるので、私は今回も、「強くなりたい私」が空回りしてもがいているのかなあ、と思いながら聴いていました。

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で、その「強くなりたい私」が中村紘子を連想させてしまうわけですが、確かに小山実稚恵と中村紘子には共通点がある。

演奏活動で生計を立てる、日本では数少ない正真正銘のステージ・ピアニストだということです。

「おけいこ」でピアノをたしなむ人口は多いですが、コンサート(と録音)だけで自営している人は日本にはほとんどいないはず。たいていは、音楽学校の先生であったり、私塾を経営していたりする「レッスン・プロ」が、損得抜きに、何らかのやり方で資金を調達してコンサートを開いています。

洋楽と邦楽のジャンルの違いはありますが、弟子をたくさん抱えた一門の師範が、定期的に発表会を開くのとほぼ同じ形。

戦前の名前が残っている日本人ピアニストのほとんどは東京音楽学校の先生になっていますし(幸田延とか久野久とか)、フランスで育った安川加寿子は異色の経歴ですが、結局やはり東京藝大の先生に迎えられています。戦後の男性ピアニストも、園田高弘は限りなくフリーランスに近いけれども京都市芸大や昭和音大で教えていましたし(教育者としての園田高弘は評価が高い)、高橋悠治の活動はピアニストという枠に収まらないので、これはちょっと事情が違う。あと国内でフリーランス的な仕事ができているのは、今も昔も、原智恵子、内田光子、児玉姉妹など、海外に基盤を置いている人達ですね。

そういうなかで、中村紘子は10代の頃から当時としては圧倒的に「弾ける」人だったようで、吉田秀和や柴田南雄がいた頃からの桐朋音楽教室の理念、レッスン・プロ(家元)ではないプロの音楽家を育てる方針に沿って出てきたモデル・ケースだったのだと思います。

で、そういう先駆者たちの取り組みが一巡して、ステージ・プロとして生きていくのに何が必要なのか、どうあらねばならないのか、ひととおりの見通し・認識が立ったところに出てきたのが小山実稚恵(や仲道郁代)、ということになりそうです。

だから、演奏スタイル云々だけでなく、大げさにいうと歴史的なポジションとして、名実ともに「二代目」、日本の戦後型ステージ・ピアニストの第二世代の代表格なんだろうなあ、と思うわけです。

(関西でオーケストラを「自活・自営」させることに後半生を捧げた朝比奈隆にとって小山さんがお気に入りの共演者だったのは、だから、よくできた話だと思う。あの人は、「自立の気概」のあるソリストとしかやらなかったし、そういう人でなければ、あのオッサンとはやれなかったんだと思います。)

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そしてひょっとすると、日本の女流ステージ・ピアニストが、ある時期を境に「強くなりたい」と思ってしまうのは、個人の実力や美意識の問題というよりも、何らかの「構造」に絡め取られているのではないか?

ざっくり言ってしまうと、「ピアノが上手に弾ける」というだけではそのうち客が飽きてしまう、ということです。

「○○コンクール入賞」「史上最年少」とかいうのは、要は、若さと新鮮さで売っているわけですよね。とりわけ、小山・仲道世代からあとは、ヴィジュアル重視になっていて、「J-Classic」とか言っちゃって、ぶっちゃけにアイドル路線で新人を売っていた時代もある。

(ヴィジュアルがイマイチである人には、ちょうど森昌子が売り出されたときみたいに「若手実力派」という席が用意されておりまして、ヴィジュアルのマイナス面を「個性」と読みかえているに過ぎないので、そういう人達の存在は、ヴィジュアル重視路線へのアンチではなく、むしろヴィジュアル路線を前提している。)

で、「若さ」と「フレッシュ」で売れなくなる前に次の手を見つけておかねばならないわけで、中村紘子の場合はエッセイストを皮切りに、今では、色々なイベントをプロデュースする実業家みたいになっていますよね。

(ピアニストが実業家へ転進するのは、ヨーロッパでもクレメンティがそうだったようにありがちなことだと思います。)

仲道郁代の場合は、「母としての私」というのを打ち出していた時期があって、音楽学校で教えたりもしていますが、雰囲気としては、カリスマ主婦とかママドルに近い位置に見えます。

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小山さんは、もうちょっと意地があって、すごい数のステージをこなして、着々とレパートリーを広げてやってこられたわけですが、

ひょっとすると、オーケストラ・コンサートのソリスト、というのが鬼門なのかなあ、という気がします。

最近のオーケストラや指揮者は、協奏曲でソリストを立てるのが上手くない傾向がありますから、そこで、たった一曲でちゃんと存在をアピールするには、相当な荒技がなければ難しくなっているのではないか。

(それが歯がゆいから、例えば横山幸雄は、一晩で3曲、4曲のコンチェルトを立て続けに弾いて、オーケストラとの共演の場を思うがまま支配しようとするのでしょう。)

オーケストラ・コンサートは、通常のリサイタルの常連さんとは違う人達に演奏を聴いてもらえるチャンスではあるのだけれども、イマイチ、座りが悪い感じになっていて、局面を打開する方法として「強くなりたい」と思っちゃったのではないだろうか。

仲道郁代は抜け目のない人なので「アンサンブルしている感」をステージ上で演出したり、パワー勝負から待避できるフォルテピアノを使ったりして、事態を切り抜けようとしていますが、児玉桃も、リサイタルや室内楽は素晴らしいのに、コンチェルトのソロになると、鉄仮面をかぶったみたいに無愛想な弾き方になったりしますから、小山さんひとりの問題ではなく、今、日本のステージ・ピアニストにとって、オーケストラ・コンサートのコンチェルトというのは、どうにも切り抜けることが難しい場所になっているように思えてなりません。

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女流ピアニストを、「若さ」と「フレッシュさ」を維持している間だけチヤホヤして「年増」になったら捨てる、ということになると、それはまるでピアニストを女郎のように扱っていることになってしまいますし、なるほどそのような「見世物」の側面がステージ・パフォーマンスにはあるわけですけれども、それでいいのか、ということですね。

(「チャイコフスキー・コンクール第3位」や「ショパン・コンクール第4位」という箔をつけて新人を売り出すのは、いわば、置屋の名前を担保にして客の信用を買うようなものですが、小山さんのこれまでの仕事ぶりを考えると、もはや、そのように置屋の力を借りる「年季」はとっくに明けていると思います。

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AKBだか何だか、看板にすがる少女たちを見世物にするような興行形態の段階をとっくの昔に卒業してる、ということです。

置屋の女郎からすっかり足を洗った人に向かって、「所詮あいつは……」呼ばわりするのは、「世間の目は冷たい」、そういうものだという考え方もあるでしょうが、私はそういうのは、下品というか、粋じゃないと思う。遊び方が田舎臭い。)

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小山実稚恵はここで終わる人ではない、と信じたい。

そしてそれは、「若い女」をとっかえひっかえする雅哉のような道楽者では終わりたくない、という自分自身の問題でもあると思っています。

実人生に見切りをつけて、分身(アバター)を仮想空間で暴れさせる生き方は哀しすぎる。

(で、最近はオーケストラやホールがさかんにtwitterで「情報発信」してるけど、あれって本当に手間をかけるだけの効果があるの?)

[追記]

あと、色々悪条件なことがあるオーケストラのコンチェルト・コーナーですが、先の大フィル定期のときは、セーゲルスタムがうまくオケを収めていたから、ピアノは本来かなり弾きやすかったんじゃないのかなあ、とは思う。

だから、ガンガン弾くのは、作戦ミスだったような気はします。

で、どちらにしても、前日にもらったセーゲルスタムの曲をアンコールで早速弾いちゃう微笑ましい場面があったりして、ソリストがトータルには「良い仕事」をしていたんじゃないのかなあ、と思います。

そういった諸々をまとめて、わずかな字数へ感想をまとめるときにどういう言葉を選ぶか、というのは、あとは作文力だな。私は仕事じゃないところでそういう俳句的な技を競う趣味はないので、こうやって字数無制限にダラダラ書きますが。