まとめ:書の国ニッポン千年が音楽の国ドイツ二百年に懸想した顛末

一連の「音楽の国ドイツ」問題をそろそろまとめてみたい。こういうデカイ話は大ホラで終わるのがたぶん一番いいのだと思う。

中国を盟主とする東アジアの辺境で古事記や源氏物語の頃からひたすら読み書きされてきた書き物一般がこの島で果たした役割、読み書きにこの島の人々が与えている位置づけというものが一方にある。

そして他方で、ユーラシア大陸の反対側の端っこでは、入植したローマ人が衰退して以来、土地の私有という概念が異常に強固で、1500年くらい延々と細分化された土地をめぐる戦国時代が続いており、このヨーロッパと呼ばれる地域から出てきた有力国のひとつは、ほぼ200年前から、「(自国の)音楽について書く」という行為にやたら熱心に取り組んでいる。

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150年前というから、実はそうした行為がさかんになってそれほど間がない時期に、東アジアの「書の国」の人々はユーラシア大陸の反対側に「音楽について熱病にとりつかれたように書き続ける人々」がいることを発見して、以来、そこから文物を熱心に輸入するようになった。

離れていても似たもの同士はお互いを見つけ出す、これって運命の出会いかもしれないね(ラヴ〜!)、という恋愛に似た盛り上がり(冷静に見れば日本からの一方通行片想いの懸念あり)があったとか、なかったとか。

森鴎外―文化の翻訳者 (岩波新書 新赤版 (976))

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参考:http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20111105/p1

今では「書の国」の倉庫のなかで、この国の言葉(あるいは中国の漢字)で綴られた千年の紙の束に混じって、ユーラシア大陸の反対側の言語で綴られた「書物」の山が無視し得ない分量と存在感を誇っているので、図書館という名の倉庫を管理する人文学者という官吏は、これを「読む」ことにも習熟するようになっている。

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でも、「書の国」の人々が「書」に与えている役割と、ユーラシア大陸の反対に住む人々が自国の音楽(をはじめとする文化)について「書く」行為に互換性があるのかどうか、同列に読めば読めてしまうのだけれども、そのような「読み」がユーラシアの反対側の人々の生態を察知することにどこまで役立つか、ということは、「読む」行為とは別に、一度どこかで、じっくり検証する必要がありそうだ。

ヴァーグナーの「ドイツ」―超政治とナショナル・アイデンティティのゆくえ

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ところで、それはそれとして数十年前から、東アジアの「書の国」の人々は、最新技術を駆使して、二次元平面に刻々と図柄の変化する光の点を映し出す新しい「読み書き」技法にご執心であり、これは、色々な呼び名があるけれど、「書の国」の図書館に習熟した官吏はこれを「ビデオゲーム」と総称することを提唱しているらしい。

教養としてのゲーム史 (ちくま新書)

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僕たちのゲーム史 (星海社新書)

僕たちのゲーム史 (星海社新書)

「書の国」の千年の蓄積のゆえなのかどうか、定かではないけれども、この国で生産される「ビデオゲーム」という名の新種の二次元表現は、ユーラシア大陸の反対側や、太平洋の向こう側でも、何やら魅力的なものだと思われているらしい。

そして長らく「書」の倉庫を管理してきた官吏たちは、あからさまに「輸入超過」(←百年越しの素敵な素敵な片想い!)である「書」の流通と、輸出が好調である「ビデオゲーム」という名の二次元表現の流通の間に互換性を認めて、輸出入の相殺、「等価交換」が可能であるという理論もしくは科学もしくは美学もしくは宗教もしくは政治もしくは財務計算が成り立てば、長年の輸入超過を相殺できるかもしれないと考えつつあるらしい。

参考:http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20130220/p1

ユーラシア大陸の反対側で綴られた書物の「読み方」の位置づけすら、はたして大丈夫なのか、はっきりしないところへ持ってきて、なんとも壮大な大技を構想したものだと思うけれど、

吉田寛先生の双肩にかかる期待は、とてつもなく大きいと言わざるを得まい。希代のほら吹きで終わるのか、それとも、「書の国」を救う偉人、マルクスを超える東アジア発祥の「二次元表現の資本論」の発案者として後世に名を残すのか!

日本人のための世界史入門 (新潮新書)

日本人のための世界史入門 (新潮新書)

今ニッポンで最も多くの「物語」を読み、片想いを語らせれば右に出る者のない小谷野敦のクラシック音楽観が信じがたいほど無骨であることは、書の国ニッポンと音楽の国ドイツが決して「相思相愛」ではありえないことの何よりの証左であり、「音楽の国」に懸想した人々の熱に浮かされた不出来な物語はオトナの鑑賞に耐えない、ということでもあろう。丸山昌男がドイツ音楽ファンであったというような「美談」に我々は惑わされてはいけないのである。