前にも似たようなことを書いたような気がするけれど、
- ○○は「ない」ので「書かない」
- ○○は「ない」ので「「○○はない」と書く
- ○○は「ある」ので「書く」
- ○○は「ある」ので「○○がある」と書く
- ○○が「ある」(と認識している)けれども「書かない」
- ○○が「ある」と認識しているけれども(もしくは認識しているので)「○○については書かない」と書く
- ○○が「ある」とは認識していない(もしくは「ある」のか「ない」のかわからない)ので「書かない」
- ○○が「ある」とは認識していない(もしくは「ある」のか「ない」のかわからない)ので「○○があるとは認識していない」(もしくは「あるのかないのかわからない」)と書く
- ○○が「ある」ということを書き忘れる
- ○○が「ある」ということを書き忘れて、「○○があるということを書き忘れていた」とあとでどこかに書く
- ○○は「ない」のだが、諸事情から「ある」と書く
- ○○は「ない」のだが、「○○はないのだけれども、ここでは諸事情からあると書いてしまった」と(あとでどこかに)書く。
これで可能性が尽くされているわけではもちろんありませんし、こういうのは、それこそ最近の哲学が既に精緻に分析してくださっている既知の事柄なのかもしれませんが、さらにここに、「見る/見ない」とか「聴く/聴かない」、「知る/知らない」といった変数を加えると、随分複雑で立体的なグラデーションが「書く/書かない」という行為の周辺に発生することが想像されると思いますし、特定の「書いた」もしくは「書かなかった」行為がそのうちのどの状態であるのか、ということは、容易に判別できたり、できなかったりする。
そしてもちろん、「読む/読まない」という行為は、このような状態を感知・判別することに尽きるものではない。
とはいえ一般論として言うと、文が長ければ長いほど、読み手が書き手の状態を感知・判別することが容易になり、一定量以上に長い文を読むときには、書き手の状態が、知りたくなくても読者にわかってしまう(わかってしまったような気になってしまう(ことが多くなる))。
「すべてを書き切る」というのは、おそらく、そういう感触を含むと思われます。
大量に書くというのは読み手と書き手の間に分厚い壁を築くことであって、そこに「ある」のは「書物」だけである、という考え方も成り立たないわけではないけれども、それは結局、冒頭に掲げた選択肢をひとつ加えるだけのことで、全体的な関係構造を変えるわけではない。
短く書くときには、どのアングルで書くのか、ビシっと狙わないとたるんだ文になるし、長く書くときには、とりあえずたくさん書いて、全部出す、ということもありえないわけではない。
どちらにしても、
- ○○は「ない」ので「書かない」
- ○○は「ある」ので「書く」
とか、グラデーションの限られた長い文は、通常、読んでいて退屈する。
とはいえこれも、こうしたグラデーションとは別のところに豊かさと広がりを確保するような書き方もあるだろうから、一概には言えないわけだが。
そしておそらく実証的に書くというのは、実は「ある」ことだけを「書く」わけではなく、こうしたグラデーションをどこまで精緻に書き分けるか、という技術じゃないかと私は思う。
そこに何がどのように「ある」かを「書きたい/読みたい」という欲望がうごめいているわけだ。これも一種のビョーキなのだろうけれど、そうした欲望が文に彩りを添えるのも確かだろう。
一説によると、日本の思考は、「ある/ない」の差異化よりも、「こと」が「なる」「いきほひ」が大事らしいけれど。
そして一方、
- ○○が「ある」と認識しているのだけれども、「○○がない」と書いて言質を取られることなく、あたかも○○がない「かのように」書く
とか、
- ○○は「ない」と認識しているのだけれども、「○○がある」と書いて言質を取られることなく、あたかも○○がある「かのように」書く
といった境界線上を縫う語法が官僚と呼ばれる人々の周辺にしばしば見られることが知られている。