巨大鯨の胃袋みたいな新フェスティバルホール

大事に書こうとして〆切を超過してしまう悪い癖が出て死にそうになりながら、4/3は新フェスティバルホールの「開業記念式典」へ出席させていただきました。

その後、八尾の母のところへ行くと翌4/4の朝日朝刊には1ページぶちぬきの記事が出たようで、ホールのリニューアルは現在進行形のメディア・イベントなんだなあ、と改めて実感した次第でございます。

あらゆるホール、オーケストラが「情報発信」して、事前・事後の言葉で「その時その場」を隙間なく梱包しなければイベントが成立しなくなって久しい21世紀ですから、その本家本元である天下の朝日新聞の維新じゃなく威信をかけた仕事ぶり、ということになるのでしょうか。

甲子園野球と日本人―メディアのつくったイベント (歴史文化ライブラリー)

甲子園野球と日本人―メディアのつくったイベント (歴史文化ライブラリー)

(ちなみに、同じく母の家でNHKのニュースに出演する小澤征爾を見て、彼が「4月30日」に1年数ヶ月ぶりに指揮をしたかのような編集になっていてびっくりした。東京で振ったのは、3/27の京都(http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20130327/p1)以来「3日ぶり」に過ぎませんから(笑)。いやあメディアは恐い。歴史を作るぞ、彼らは。)

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今の新聞社の方々に、「大阪が朝日発祥の地だ」という意識がどれくらいあるのか、「大阪の音楽文化の顔」みたいな意識がどれくらいあるのかはよくわかりません。(招待状とかは東京の住所から送られてきて、「ヘッド」はそっちにあるらしき雰囲気だし。)

「在野の関西洋楽史研究家」風に言うと、「メディア・イベント」として見た場合の今回の「開業」と、旧フェスティバルホールが節目節目で巻き起こしつつその周囲で起きたこととの一番の違いは、「朝日があんなこと始めちゃったよ大丈夫かねえ」という斜に構えた論調がどこにも出ていないことではないか、という気がします。

1958年にフェスティバルホールが出来て、「日本初」を謳う「国際」フェスティバル(第1回は「大阪国際芸術祭」、第2回から能楽を除けば事実上音楽のみの「大阪国際フェスティバル」)を立ち上げたときは、戦前からの朝日会館が第一線から退くことを惜しむ声とか、「国際水準」の音楽祭とは何ぞや、とか、当時の音楽雑誌に色々なスタンスの記事が出ています。

そして1970年の大阪万博(日本万国博覧会)のクラシック音楽部門は、事実上、春の大阪国際フェスティバルをベースにして半年間に拡張する形で計画されたのですが(だから当初、音楽部門のプロデューサーは村山美知子さんだった)、どうやらこれは、内容だとか、チケットをどう売るかだとかで舞台裏がそうとう色々あったみたいで、結局、村山さんは本番前に辞任しちゃいます。

まあ、そういうのを含めての「話題性」があり、「ちょっと強引じゃないの?」と周囲に思わせることを含めて、あそこのやることは「画期的だ」とその都度、受け止められていたということだと思います。

(8年前の旧ホール閉館時にロビーでやっていた記念展示には、ホールの歴史を朝日会館と結びつける痕跡がほとんどなかったのですが、今回の新ホール「開業」式典では、冒頭の社長挨拶で、我が社のホール事業は「[朝日新聞社]創業50年を記念した朝日会館にはじまり」と語られておりましたので、どうやら閉館(昭和37年)から50年の時を経て、朝日会館が「正史」に登録されたようです。

一方、私の知る限り、朝日新聞社が大阪国際フェスティバル50年の歴史と関連づけて1970年の「万博クラシック」に言及したことはいまだにない(と思います)。

なんだか、前衛政党が「同志」の名前を消したり、名誉回復するみたいな手続きですが、「社史」とはそういうものでしょうか(笑)。)

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今回の新ホール「開業」は、メディア的には「JR大阪駅リニューアル、伊勢丹が入った!」とか、「阪急梅田店新装なる!」とかと同じノリで、だから同じ感じでひとしきり見物にいらっしゃるお客様でしばらくにぎわうのだろうと思います。

(最近の「都市設計」は、見た目は小ぎれいだけれども、実態としては「管理がゆきとどかない恐れのある(=そんなとこまでぶっちゃけ責任とれないよ、が本音であるところの)」オープンスペースを極力減らし、「店」に誘導してお金を落としてもらうことに必死ですから、「右側(左側)通行」とか、異常に動き方を規制(環境管理型社会の用語で「アフォード」と柔らかく言わねばならないのでしょうか)されて鬱陶しいところがあり、単なる移動の都合で梅田界隈へ出るだけで、ものすごく疲れるのですが……。)

クラシック音楽をやる場所として、どうなのか、ということは、実際に本格稼働してみないとわからないですよね。

音響も、まだまだ細かく試してみないとわからないところがありそうだし、いずみホールやシンフォニーホールのオーケストラ・コンサートに慣れてしまうと、いったいこのうちどれだけのものが二千何百人を動員できるのだろう、と心配ですし……。しばらくは、デカい空間向きのものだけこっちでやってみて様子を見る、ということになるのかもしれませんね。

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大フィルブログのレポートの写真などにも出ていますが、朝日会館から旧フェスティバルホールへ受け継がれていたベートーヴェンとシェークスピアのレリーフが、ちゃんとロビーに飾ってあったのでほっとしました。朝日新聞社は、「記念碑」の意味をわかってるみたいです。(メインロビーからエレベーターへ乗るときに視界に入る。帰ろうとしてようやく気付く場所というのは、旧ホールでもクロークの上にありましたから、似たテイストですね。)

記念碑に刻まれたドイツ: 戦争・革命・統一

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で、ロビーの天井は高くて、空間が決して狭いわけではないのに、どうも圧迫感があるなあと思っていたら、最近のよくある建物みたいに空間をガラスで囲んで外から採光するのではなくて、採光はスリット状の細いところだけで、あとは全部、壁だからなのかもしれません。

そもそもこのロビーへたどりつくまでに大階段を上がって、さらに90秒のエレベーター(天井が低いのでびっくりする)に乗るわけですが、ロビーへたどりついたときに(例えばびわ湖ホールで会場からロビーへ出たときみたいに)ぱっと視界が開ける演出ではないわけです。だから、たぶん新国とか兵庫芸文のロビーと広さや形状はそれほど違わないと思うのですが、かなり感じが違います。上を見上げると、昼間来ても「星空」(の照明)だし(笑)。

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考えてみれば、20世紀の歴史でメディアセンター(新聞社とテレビ局)というのは、テロや反政府勢力の最優先の標的だったわけですし(それは、ベネディクト・アンダーソンの新聞がネーション・ステートという「想像の共同体」を創った説と表裏一体の現象でもあるのでしょう)、東京の朝日新聞社は、たしか戦前の軍部テロで襲撃されたことがあるんですよね。

定本 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行 (社会科学の冒険 2-4)

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フェスティバルホールは、私には、なんだか、要塞や潜水艦の内部みたいだなあと思えて仕方がなかったのですが(あの長いエスカレータとか初期ダイハード・シリーズのような活劇・パニック映画の格好の舞台になりそう)、自社の守りを固めるのは(9.11以後の設計ですし)、「不偏不党」を謳う「報道機関の心構え」として正しいのかもしれませんね。

そしてその前提で見直すと、報道要塞のなかに、これほど巨大なホール空間を飲みこんでしまえるところが凄みではある。朝日新聞社のデカさは、そんなもんじゃないんだぞ、ということなのかもしれません。

「巨大な鯨に飲みこまれて、胃袋のなかに入ってみたら、そこには星のきらめく天空が広がっていた。」

あなたも、そんなピノキオの世界を体感してみませんか?

(と最後はファンシーにまとめてみた。報道の要塞がピノキオ的に演出されている、というのは、「ヤンキーとファンシーは表裏一体だ」というナンシー関流の日本人論のヴァリアントなのかもしれず、そのような共同幻想の構造を、朝日新聞社は20世紀から21世紀へ引き継ごうとしていると見ることができるのかもしれません。)

丸山眞男―リベラリストの肖像 (岩波新書)

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丸山眞男の父は朝日新聞などを渡り歩いた論客で、兄はNHKの音楽・芸能プロデューサー。彼の「戦後民主主義」のシンボルのようなイメージは、東大法学部教授をめぐる「知識人論」(日本版ブルデュー)だけでは論じきれないかもしれません。朝日新聞はややこしそうです、やっぱり。
ラジオの昭和

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