1970年代のクラシック音楽番組

テレビという記憶: テレビ視聴の社会史

テレビという記憶: テレビ視聴の社会史

1960〜1965年生まれで、小学生の頃、テレビのある種の「黄金時代」を体験した世代はテレビに特別な愛着があるらしい、ということが聞き取り調査でも確認できるようですね。

前のエントリーに書いたようなこと(http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20130503/p1)が、もうちょっと詳しく整理して書いてありました。

少し上の世代は特定の番組をピックアップして輝かせる「作品論」(教養主義の残照か?)で事足れりと思っちゃうし、少し下の世代には、テレビが仮想データベースと照合しながら「動物的」に情報処理されてしまう。「テレビへの愛着」というけったいなものは、上下5年くらいの薄い世代だけに発症してしまった珍現象として、自分らで処理しないとしかたがないようです。

(三谷幸喜とか町山智浩という人たちは、舞台や映画という外の足場を確保しながら、いちはやく立ち位置の見極めができたから、ああいう仕事をやれたんでしょうね。あるいは日本政治思想史と音楽評論で慎重に両側に足場を組んでいる片山杜秀とか。で、小谷野敦の私小説はテレビ語りでも苦戦する……。)

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そして中学・高校へ進むと個人の嗜好が分かれていくらしい。

で、今は何でも検索するとわかってしまう時代ですから、すごいですね。

NHK教育で夕方18時代に「ピアノのおけいこ」(月・水)「ヴァイオリンのおけいこ」(火)という番組があったはずだと思って調べてみたら、私が見ていたのは、

  • 1978年度(月・水18:30〜19:00) 弘中孝(前期)、宮沢明子(後期)
  • 1979年度(月18:00〜18:30)井上直幸(初級)、(水18:00〜18:30)井内澄子(中級)
  • 1983年度(月18:00〜18:30) 館野泉(前期)、中村紘子(後期)
  • 同(火18:00〜18:30) 江藤俊哉

ということがわかった。79年の井上直幸のときは、武満徹に「こどものためのピアノ小品」2曲を委嘱して、本人が出てきたりもしていましたね。

78、79年は中学1、2年で、ピアノを習ったりしてクラシック音楽という妙なものにハマってしまって、学校で話の合う同級生がいない寂しい「帰宅部」状態だったので、夕方からテレビを観ていたようです。暗い思い出です。(中2の夏に高槻(当時はまったく知りませんでしたが、佐藤しのぶさんの生家からそれほど遠くなかったみたい)から今の家に転居・転校して、その日のうちに吹奏楽部にスカウトされて、社会復帰(?)しますが……。)

83年の番組を観たのは、高校三年でクラブ活動しなくなって、早く帰宅していたからでしょう。「○○のおけいこ」という番組はこの年度で終了することになって、それで中村紘子、江藤俊哉の登場になったようです。中村紘子のクラスには、今思えば大学の音楽部・ピアノ部の人だったのでしょうか、明らかに音大目指してる感じの中高生に混じって、何でもバリバリ弾くアマチュア大学生が出ていた。江藤俊哉は年度末の総仕上げにオーケストラを呼んで生徒にメンコンを弾かせたり、やりたい放題だった(笑)。

(海野義雄の芸大ガダニーニ事件は2年前の1981年12月で、江藤俊哉はニュースでよくコメントしていましたね。1983年というと、1972年生まれの諏訪内晶子様は小学生ですから、まだ江藤門下にはなっていないか。チャイコフスキーコンクール優勝の7年前。1971年生まれの五嶋みどりが渡米して、メータ&NYフィルと共演したりした翌年ですね。「ブーニン現象」前夜、1980年にポゴレリッチがショパン・コンクール予選落ちで色々言われて、1981年にスカラ座が目も眩むような指揮者・出演者・演目で初来日して……、ホロヴィッツが吉田秀和に「ひび割れ」を指摘されたのが1983年。)

その頃、TBS(テレビマン・ユニオン)の「オーケストラがやって来た」(1972年〜、放送時間は1978年4月〜1983年3月最終回までは日11:00〜11:30)の公開録画が高槻であったのを観に行ったのは、前に書いたような気がしますが、全番組のタイトルをリストアップしている方がいらっしゃって(http://www003.upp.so-net.ne.jp/johakyu/naozumi.htm)、

  • 1979年12月16日放送「朝比奈のフルコース」
  • 同12月30日放送「本年最後!朝比奈隆の第九」

これですね。朝比奈・大フィル。中2の冬で、もう吹奏楽をやりはじめており、たぶん、ピアノ以外の楽器に興味が涌いたのでしょう。「新世界」のスコアを買ってきて、ピアノで弾けないものかと無理矢理コンデンスしたりしていたので(第1楽章はどうにか最後まで書き上げたけれど、全然上手くいかないことがわかって放置)、翌年最初の放送

  • 1980年1月6日「小澤征爾 翔べ新世界へ」

はひどく真剣に観ていた覚えがあります。

(「題名のない音楽会」は、ちょっと暗い印象があり、あまり観ていない。日曜の朝早い時間帯だし。)

NHKの黒柳徹子と芥川也寸志の「音楽の広場」のことは、ネット上にあまり情報がないみたいですね。ときどき芥川さんが自作を指揮してかっこよかった。東フィルで、最初は尾高さんがレギュラーで、あとのほうでは、コバケンとか井上道義が出てましたよね。

これも一度高槻で公開録画があって、立川澄人が「のみの歌」を披露したのを聴いた覚えがあるのですが、時期がよくわかりません。朝比奈の第九を聴くより前だと思うのですが、「音楽の広場」が土曜の深夜にやっていた頃でしょうか(1976年4月〜1978年3月 土22:30〜23:10)。だとしたら、普段はこんな時間まで起きていなかったはずで、そういえば、収録のあった回の放送日だけ夜更かししたような気もします。小4〜小6の時期ですね。ウィキペデイアによると1978年4月〜1981年3月は土21:10〜21:45で、これをよく観ていたのではないかと思う。1981年4月〜1984年3月は金19:30〜20:00。

(週末の夜のNHKということで言うと、1972年9月から日曜夜にやっていた「刑事コロンボ」は1974年夏頃から土曜夜の放映(ほぼ月1回)が定着したようですが、「音楽の広場」はそのあとだったのでしょうか。右翼っぽい寄宿学校の「祝砲の挽歌」(1976年1月10日(土))とか、自宅に映写室がある「忘れられたスター」(1977年1月3日(←月だが正月))とか、どうやら私が「コロンボ」を観た最初は第4シーズンごろからのような気がします。大河ドラマを見始めるのと同じ頃。1976年は海音寺の「風と雲と虹と」(音楽:山本直純)、1977年は司馬遼の「花神」(音楽:林光)。)

1982年、高校2年の秋にザ・シンフォニーホールができて、朝日放送が深夜にオープニング・シリーズを収録・放送して、尾高・札響がショスタコーヴィチの5番を熱演していたのが妙に印象に残っています。

浅田彰『構造と力』、中沢新一『チベットのモーツァルト』が1983年。夕方にとんねるずの番組がはじまって、「セーラー服を脱がさないで」が1985年の夏。MBSでダウンタウンの4時からの心斎橋二丁目劇場中継番組がはじまったのが1987年4月。このあたりの、世の中と一緒にテレビのなかが落ち着かない感じになっていくのが(=テレビの「この時間帯はこういう番組」というのが夕方を含めて崩れて、「子供の頃によく遊んだ空き地がビルになっちゃった」のを実感するのが)「80年代」で、自分が高校生だった1983年頃までは、なんとなく「70年代」の続き、というような漠然とした印象をもっております。そして70年代から80年代を橋渡しする音楽番組というと、普通は「ザ・ベストテン」(1978年1月〜、TBS木21:00〜22:00)ですが、当然その前から脈々とあるテレビの「表街道」の歌謡曲番組と、子供の世界では将棋に近い「裏街道」かもしれないクラシック番組(大人の位置づけとしては「教養番組」?)が当人のなかでどう折り合いを付けていたのかということは、まだよくわかりません。

(だからどうした、ということではないのですが、ビデオ録画とか、「スーパーマリオ」の家庭用ゲーム機が普及するのが1980年代の半ば頃だと思うので、あながち、それほど主観的に過ぎる印象ではないような気もします。高校時代のブラバンの演奏はカセットテープしか残っていないけれど、大学の吹奏楽団は演奏会をビデオ撮りしていたし……。

與那覇潤が「江戸時代」的と呼ぶヌクい感じがあるのは、戦後全般というより1970年代かもしれない。60年代生まれだと、そういう日本型社会民主主義の環境のなかで育った自覚があるけれど、70年代以後に生まれた人は、物心ついたころからボーダーレスなのかもしれない。そしてそれは、よく言われるバブルの恩恵を被ったか、そこに乗り遅れたか、という「失われた20年」の件より、心性としては大きいかもしれませんね……。世の中にセーフティネットなんていらん、(というより、そんなものは知らないし、意味がわからない)みたいな。)