性愛と公娼

[追記あり]

慰安婦と戦場の性 (新潮選書)

慰安婦と戦場の性 (新潮選書)

事実として何があったのかを追いかける丹念な記述を読みながら、戦場という限界状況を離れて、性愛と娼婦をめぐる原則論みたいなことを考えた。

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(a) 性をめぐるモラルと政策において、一夫一婦制で婚前・婚外の性交渉を道徳的に批判するのみならず、すべて非合法とする、というのが、考えられる一方の極となる最も強硬な立場だと思うのだけれど、おそらく事実としてそのような体制を安定して維持した国・地域は未だかつて存在しない(と思う)。支配階級が「家系」を維持するためにそのようにしていた事例は、あるとされているらしいけれど。(19世紀のブルジョワとか。)

(b) そしておそらくもう一方の極は、親子関係を含めた一切のタブーのないフリーセックス、ならびに売買春をすべて合法化することだが、人類学はインセスト・タブーをヒトの社会性の重要な柱と見ているようだし、妊娠した母子はどうなっていくんだと考えたら、一切無制限というのは非現実的だし、こういう体制を安定して維持した国・地域もまた、未だかつて存在しないはず。

身体には(その身体の「所有者」でさえ侵すことの許されない)固有の尊厳が備わっており、それは換金されたり、記号化されたり、道具化されたりすることによって繰り返し侵され、汚されるという考え方は、売る彼女たちにも買う男たちにも、そして彼女たちの功利的身体観を支持する知識人たちにもひとしく欠落している。

セックスワークについて (内田樹の研究室)

(そして私のことなど誰も興味がないのは知っていますが、私は、この特性をどう形容したらいいのかわからないけれど、愛のないセックスは無理です。外形的に恋人関係にある相手とであっても、いつでもどこでも、とか、そういうことはできない。私は支配するのもされるのも嫌だし、そういう状況は……端的に醒めます。

だから、事実や物語として、欲望のおもむくままであったり、遊びとしてであったりする性交が描かれていると、そういう人がいるのだな、と共感とは違う感慨を抱きながら受け止めさせていただいております。

そうして、そのような事象が物語や芸術には結構出てきますが、それは、「属和音は主和音への強い志向性をもつ」という西欧近代音楽の定型を、そういうものなんだ、なるほどそのように考えれば、すっきり説明がつくなあ、と納得するのに近い。自分がどうかはさておき、ともかくそういう事象が存在する世界に自分が生きていることは認識している、という感じでしょうか。)

(a)と(b)の間のどこかに現実世界があるのだと思われ、一連の「戦場の性」の失言スキャンダルでは、大きな背景として平時の理性的な人間は(a)に近い体面を保っていても、戦争・殺戮の限界状況では(理性のタガが外れた本能むきだしになって?)(b)に近いことを平気でやりかねない動物なのだ、という枠組みがあって、そのように「動物化」してしまったことを「人類への罪」として事後に反省・謝罪せねばならないことになっているように見える。

でも、この大枠の理解が本当にこれでいいのかどうか、ということは、それが戦争犯罪を裁く枠組みとして通用しており、実際にそのような犯罪が証拠で跡づけられる事例があるようなので、これを疑ってはいけないのかもしれませんが、どうなのか、私にはよくわかりません。

近代戦の精密な作戦行動は、都会の「女狩り/男狩り」めいたナンパや合コンとは状況が全然違うはずで、「本能むきだし」だけで作戦遂行が可能なものなのかどうか。むしろ兵士というのは作戦行動の前や後に売買春を行うものなのだ、という説もあるようですし、だとしたらそれは、異常事態ゆえの行為というより、作戦行動を無事に遂行するために戦場にもちこまれた「日常」のサブセットだった可能性を除外できない気がします。

だからもしかすると、戦場だから異常だった、というのではなく、戦場に露呈した日常が問題なのかもしれない。そう考えた方が、20世紀の戦争は「総力戦」として遂行された、という最近の歴史学の説明図式と合致しやすいように思います。

そして性愛をめぐる「日常」は、おそらく1940年代と現在とではかなり違う。

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橋下徹という人のスキャンダルが、「ホンネ剥き出しすぎ」とか「国内向けで、海外の目を意識しなさすぎ」とか言われるのは、彼の発言を批判もしくは嫌悪する人にとっても、心情的には(これだけ騒ぎが大きくなると誰もそれを公言できないかもしれませんけど)擁護できると思っている人にとっても、とりあえず婚前・婚外の性交は、事実としてありふれた光景になっている、という「現在の感覚」がまずあって、でも、それを公然と、ましてや海外へ発信されるとはなんたることかと眉をしかめる人と、いやいや、よくぞ言ってくれたと秘かに拍手を送る人がいる、みたいな構図になっている気がします。

70年代四畳半フォークはしばしば同棲する男女の設定になっていたと聞きますし(詳しくないので間違っているかもしれませんが)、80年代からゴールデンタイムのテレビで不倫のドラマをよくやっていますし、90年代以後、「萌え」というキーワードでロリコンが一大産業になったりしているのだから、今更、一夫一婦制でこれと決めた相手以外とのセックスは認めがたい、などと言う人は化石のようなものだよね、という生暖かい空気があって、そのなかで、そのことをおおっぴらにいうのは是か非か、やっぱり、そこを政治家がいっちゃあダメでしょう、みたいな感じになっているようです。芸能人が「不倫は文化だ」と言うのはエンターテインメントの範疇だけれど、自治体の首長がそんなこと言うのはドン引きだ、横山ノックの悪夢が蘇る。もう、この話はおしまい、さっさとテレビのスイッチを切りましょう、みたいな感じだと思う。

(そしてこれは、マスメディアに放埒な物語が流通しているほどには、一夫一婦制とか恋愛とかへの信奉が世間では崩れていない、ということかもしれない。)

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赤線地帯 [DVD]

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一方、何故かあまりこの件でマスコミの議論には正面切って出てこないようなのですが、日本には1958年まで、ということは半世紀前まで公娼制度があったんですよね。いわゆる「赤線」。

「赤線」の営業は、東京タワー竣工(1958年10月)の半年前まで、「ALWAYS三丁目の夕日」の集団就職の子が上京する直前まで続いていたようです。

ALWAYS 三丁目の夕日 通常版 [DVD]

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そして現在でも、ことさらわたくしが言うまでもないですが、日本には私娼がいる。非合法だけれども、黙認と呼ぶには公然すぎるくらいあからさまに私娼がいて、私娼がいる地域へ遊びに行く、という風習が今もある。

日本売春史―遊行女婦からソープランドまで (新潮選書)

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(新入社員が先輩に連れられて、とか、同僚と一緒に、とかいう話も耳にしたりする。「一生同じ釜の飯を食う」という人間関係にはそういうことが含まれてしまうものなのか、公然なのだけれども外へは漏らさない「本音」を共有するイニシエーションなのか、こればっかりは、そんな身分になったことがないので、よくわからないのですが、いずれにしても、性交に金銭の授受が介在するとアウトである、とか、女性を商品化することは男性の性的暴力である、という近代的な説明「だけ」で解決することではなさそうに見えます。)

そしてそのような状況についての定見が示されないままに、一足飛びに政治家が、先の戦争中のいわゆる「慰安婦」制度を肯定したり、他国の軍人さんに民間の性産業の利用を奨めたりすると、売買春の合法化、つまりは、一度は廃止した公娼制度の復活、あるいは私娼の容認・合法化を狙っている、という以外に解釈のしようがないから、それで、日本にはものすごい政策を掲げる人がいるものだ、と話題が駆けめぐったんじゃないだろうか。

橋下という人は、場合によっては、共同で政党の代表になっているもう一人の作家さんがかつて提唱(放言?)した東京へカジノを作る話とセットにして、公娼制度の復活を党の公約に掲げるくらいのことをやりかねない感じは確かにあると思うのですが、どうなんでしょう。飛田の顧問弁護士をやっていた話が出て来たらしいですから、そこのところを記者会見で質問してもよかったんじゃないか、という気がします。

それこそ「戦後レジームの見直し」、憲法を変えて自衛隊を国防軍に改組するどころではない世界の趨勢への挑戦ですから、政党が華々しく散っていく最後の闘いの争点として、いっそ、やればいいのに、と思わないこともない。非合法だから旨味がある、と思って性産業に携わっている方々とかも、ひょっとするといらっしゃるのかもしれなくて、そういう方々がどのように動くのか、ということを含めて、おそらくとんでもなく状況が荒れるだろうとは思いますが……。

どうせ散りゆく最期と覚悟を決めて、突っ込んでみてはどうか。

売買春は、恋愛の美しい物語の底を抜いてしまう悪魔のように忌まわしい「(社会)風俗」という表象レヴェルの話ではなく、制度の設計と維持をどのようにしていくか、ということが(非合法でも公然と存在してしまう、という状況を踏まえて)シビアに問われる「社会問題」だと思う。今もそうだし、ひょっとすると、ずっとそうであり続けるのかもしれない。

これはたぶん、(橋下くんが弁明していたみたいに)自分がそれを肯定するかどうか、という話では決着しない。

対外的な戦争犯罪とそれへの現在の政治家としての態度・認識と切り離したところで、内政問題としてそういうことを立論できるのではないか。(もちろんこれは、橋下クンを擁護するのではなく、彼がきっちり根こそぎ終わってくれるためのストーリーとして考えたお話で、きっとそんな議論の展開にはならないんだろうなあ、良くも悪くも、と思いますし、「政局」的な観測として、彼はもう長くないかもしれませんが、

われわれ自身のなかのヒトラー

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この際だから「われわれ自身のなかの橋下徹」が浮き彫りになるところまで日本的ポピュリズムと向き合おうとするのであれば、公娼の是非論だと思う。)

通天閣 新・日本資本主義発達史

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歴史的に「報道」の力が弱く、「橋下的なもの」について世間の風向きを見ながら右往左往することしかできないままで終わりそうな気配がある放送メディアは性愛や娼婦の問題もうまく扱えなくて、こういう風に、飛田新地と絡まる新世界の「資本主義発展史」は、(橋下氏を首長におしいただいている自治体の大学の先生の手で)分厚い「書物」で論じられることになる。
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そして……、家のお手伝いさんに「筆下ろし」されて、京都帝大在学中に祇園のお茶屋通いを覚えて、人形浄瑠璃と上方歌舞伎にどっぷりはまって、映画における性表現にのめりこんでいく武智鉄二の生き方は、生涯の真ん中あたり、ちょうど実家が破産した頃に公娼制度がなくなったのと無関係ではない気がするのですが、藝能と公娼の関係は、現在の私娼のありようを視野に入れて考えようとすると、どいうことになるのでしょう。
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武智鉄二は、2度目の「白日夢」の主役に抜擢した愛染恭子を高級料亭などへ連れ歩いて、ちょうど中村扇雀(現坂田藤十郎)らを育てたときと同じように、彼が考える「人間としての超一流」に仕立てたいと思っていたらしい。その目論見が成功したかどうか、そのようなやり方が妥当か往年の旦那遊び風の単なるアナクロニズムか、判断は分かれるだろうけれど、少なくとも、内田樹がセックス・ワークにおいてあらゆる関係者から等閑視されているとした「身体の尊厳」について、この人は(おそらく経験にもとづく)独特の考えを持っていたように見えます。

[追記]

批判といっても公娼の是非、婚前・婚外性交の是非、というところまで踏み込んだ報道にはなっていないらしい「欧米」の舞台と映画についてのおさらい。

ヴェルディ:歌劇「椿姫」全曲[Blu-ray] [DVD]

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デュマ・フィスの原作小説は1930年代のパリの実録だけれど、ヴェルディのオペラは1700年頃に時代を移して初演されたらしい。「リゴレット」で公爵から手込めにされた娘は自殺同然の死を迎えるし、「オテロ」のデズデーモナは実際には浮気してないことになっている。ヴェルディのオペラを見ても、同時代に娼婦がいるのかどうか、わからないようになっているし、婚前・婚外の性交は酷い結末を迎える。「現代的」とされる演出のうち、コンヴィチュニーのヴィオレッタはあばずれ感満点だが、娼婦なのかどうなのか、はっきりしない。カーセンのヴィオレッタは金を貰っている「プロ」で、このあたりのヒロインの設定のしかたの違いは、全体の演出プランとリンクしていると思う。

ラ・ボエーム デラックス版 [DVD]

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ミミ(ことルチア)はほぼ間違いなく売春していると思われるが、舞台上では、貧乏と結核のほうへドラマの焦点をいわば逸らして、売春が問題として展開されることはない。(ミミを男慣れした女性とあからさまに設定してしまうと、このオペラ映画のネトレプコになってしまう。)「トスカ」がスカルピアの女になる契約は実行されないし、この契約を受け入れない彼女の強さが場面の焦点にはなるが、このとき彼女は決定的な勘違いをしており、ドラマは、勘違いが生み出す宙づり・サスペンスへ移行する。(そういえば、「蝶々夫人」や「トゥーランドット」も、ヒロインの信念・思いこみがドラマを駆動する形になっている。)プッチーニは、売春と婚前・婚外性交をドラマの環境(ミリュー)として受け入れることでヴェリズモの時代に対応しているけれど、いつでも視線をそこから逸らす。

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スクリューボール・コメディ(男と女がいいムードになると必ず邪魔が入るパターン)は、ベッドシーンの描写が禁じられていたハリウッド映画が生み出した大発明だ、とよく言われるけれど、
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1950年代になると、ヒッチコック映画のなかのグレース・ケリーは、必ず夜中の暗い部屋のなかで男と二人きりになる。しかも「ダイヤルM……」では背中のあらわな下着姿だし、「裏窓」では、彼氏の部屋にネグリジェ(お泊まりグッズ)を持参している。ただし、「ダイヤルM……」で部屋にいる男は殺しの請負人。「裏窓」の恋人は事故で片足を骨折して、車いす状態なので、後世のメロドラマに出てくるようなめくるめくベッドシーン(甘いBGMつき)がそのあと展開したのであろう、という風には想像しがたい。夜中に部屋で男と女が積極的に愛し合うのは「泥棒成金」のみで、ただしこれも、相手が怪盗・大泥棒という設定なので、現実離れしたお伽噺みたいなもの。結局、普通の男女が婚前・婚外に性交する話はひとつもない。
ローマの休日 [DVD]

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ほぼ同時期の「ローマの休日」で、王女と新聞記者が水に飛び込んでずぶ濡れになったあと、翌朝までの時間経過の演出・編集処理は、男女が性交したことを暗示しつつ見せないときの手法(「泥棒成金」の花火はその卓抜な例だと言われたりする)とよく似ている。50年代のハリウッド映画は、とりわけ「スター女優」を起用した場合、婚前・婚外性交を描けないけど描きたくてウズウズしているように見えなくもない。そんな時代の、グレース・ケリー、オードリー・ヘップバーンと並ぶ「セックス・シンボル」がマリリン・モンローで、彼女はイメージと実像のギャップに引き裂かれた人だったことが知られている。

日本の公娼廃止は、1950年代ですらこのようであった物語環境で育った米兵さんが指導することで議論がはじまり、1958年に実現したことになる。当然ながら、新大陸には日本の徳川時代に相当する公娼制度はない。

卒業 [DVD]

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「愛のむきだし」の最後はこの映画のラストシーンへのわかりやすいオマージュになっていたけれど、「卒業」の場合、女の子が別の男と教会で結婚式をあげる真っ最中で、男の子は、前のほうで隣家のマダムに誘惑されて「男になった」ことが描かれているので、アメリカン・ニュー・シネマがそれまで描けなかった何を見せようとしたか、はっきりしてますよね。タクシーの後部座席に並んで座った二人は、なんともいえない表情をしていますが、「お伽噺」ではない世界を経験して一緒になった二人にとって、これは、必ずしも晴れやかなハッピーエンドではないかもしれない。

橋下徹は「ヤンキー的」と形容されることがありますが、彼がアメリカのヤンキー(←同語反復的だが)と「本音」で話が通じると思っちゃったのは、60年代以後の若者文化(サブカル?)的な価値観が、欧米にあまねく浸透しているかのように勘違いしたんじゃないだろうか。

日本にフジヤマ・ゲイシャ・ハラキリを幻視するのをオリエンタリズム、その反対に、西洋の地中海的古典古代・キリスト教・騎士道・民主共和制の混淆を理想の世界と憧れる日本のインテリの心性をオクシデンタリズム、と言ったりしますが、パシフィック・オーシャンの向こう側に自由の国がある、というヤンキー的な憧れは、どう形容したらいいのでしょう。トランスパシフィック・シンドローム略してTPSか?