[補足あり]
- 作者: 東浩紀
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1998/10
- メディア: 単行本
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刊行から15年目に初めて読んでみたら、最後は「思想は転移する」という話で、そのことに気付いた著者が、これはマズいと直ちにコンセントを引っこ抜いてコンピュータを強制停止するみたいに終わっていた。
そういえば「うた」も転移するのだろうか(笑)。
「上がりじゃないのよ学位は」
私は書いたことがない/灯りの消えた大学で/D5の奴に説教されても/ツレが査読誌載ってても怖くなかった/満期退学が増えるのを/不思議な気持ちで見てたけど/私書いたりするのは違うと感じてた
私は書いたことがない/冷たい学会大会で/いろんな人とすれ違ったり/自説主張受けとめたり投げ返したり/そして友達はアカポスで/特任ばかりが増えたけど/私書いたりするのは違うと感じてた
上がりじゃないのよ学位は ハッハー/次だと言ってるじゃないの ホッホー/資格じゃないのよ学位は ハッハー/きれいに通ればいいけど/ちょっと悲しすぎるのよ学位は ホホホー
私は書いたことがない/ほんとの研究していない/誰の前でもひとりきりでも/心の奥の野望は隠していたから/いつか対象にアプローチ/私の世界が変わるとき/私書いたりするんじゃないかと感じてる/きっと書いたりするんじゃないかと感じてる
上がりじゃないのよ学位は ハッハー/ポストがあるならいいけど ホッホー/ゴールと違うの学位は ハッハー/肩書きだけならいいけど/ちょっと悲しすぎるのよ学位は ラララー
増田聡 on Twitter: "「上がりじゃないのよ学位は」フルコーラスできたので備忘のため以下に書いておきます。これでカラオケでも歌える"
この替え歌をtwitterに投函したのは博士号を取得している大学の先生で(=井上陽水とは広い意味で同郷とみなされ得るが、学位を蹴飛ばす中森明菜的不良性の薄いどちらかといえば松田聖子派なのかもしれないので)、だからこの「うた」は、若き日の東浩紀が転移した言葉を使うとしたら、「私の声を私が聴く」という現前の哲学の言葉ではないことになりそう。
たぶんこれは、このようでありえたかもしれない「幽霊」の声。学位を取得してしばらくすると、幽霊を幻聴するらしい。私は学位を取ってはいないし、霊感ゼロなので、幽霊の圏外ですけれど……。
今検索して新訳が文庫で出ているのをはじめて知った。
- 作者: ジャック・デリダ,林好雄
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2005/06/08
- メディア: 文庫
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そして先日、自宅の本の整理をしてみたら、自宅にこっちの従来訳が2冊あった。買ったけど読まずに埋もれて、買ったことすら忘れていたものと思われる。
- 作者: ジャックデリダ,高橋允昭
- 出版社/メーカー: 理想社
- 発売日: 1970/12
- メディア: 単行本
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東浩紀『存在論的、郵便的』は、読んでみたら、思考の臨界点を突破する作文競技に果敢にエントリーすることで(しかもお題は難易度最高とされる70年代のデリダ!)、競技会の会長と当時目されていた柄谷行人(といっても競技会員は浅田彰と二人だけで他はすべてゲスト=非会員、この不思議な競技会のお膳立てをしたフィクサーは柄谷ではなく浅田だったのではないかという気がする)を偉くする大作戦に思えた。熱烈なファンレター。でも熱い思いを当人に突っぱねられて、それでこの人は、他人を偉くする批評を止めた。零細な現代思想を見限って、市場規模の大きいサブカルへ転進した、と見るよりも、「偉い人」のお先棒を担ぐ営業マンを止めて、自営業を始めた、とみたほうが、話として面白そうですね。
上の「うた」を配信した人が見いだしたことになっている「おじさん」とか、彼が指導を仰いだ「師匠」が着実に偉くなっているのと対比すると、何かを言ったような気になれそうだし。郵便は面白い。
[補足]
大学であれ文壇・論壇であれ、新しい人材の登用には何らかの「一本釣り」、これと思う人材への勧誘ならびに当該コミュニティへの推薦を伴うのが一般的であるようです。(だから私は、誰かに「推薦の文化史」を書いて欲しいと強く思うのです。)
ただし、戦前旧制高校世代が自らの勧誘もしくは推薦によって迎え入れた弟子もしくは後輩を一生面倒みようとしたのに対して、戦後新制高校世代は、入口の扉を開ける手助けをするだけで、その後のキャリア形成に対しては無力であり、それがしばしば、後輩もしくは弟子との間の心理的トラブルに発展した例が少なくないように見えます。
蓮實重彦と四方田犬彦の間にあると言われる軋轢、あるいは、東大教養部が中沢新一を助手に採用しようとした際の騒動は、何らかの形で、このような事情が関与していたのではないかと思われます。
戦後世代の「父」もしくは「兄」は、どこかの段階で「子」もしくは「弟」の梯子を外す(あるいは「子」もしくは「弟」が梯子を返上せざるを得なくなる)。そして「子」もしくは「弟」は孤児になる。80年代に「アンチ・オイディプス」、「象徴界の失効」、「闘争ではなく逃走」、「父の自壊により、地の果て至上の時へ」といった言葉が飛び交ったのは、単に、高度消費社会に浮かれただけではなかったのかもしれません。
大学院改革の90年代に、「子」もしくは「弟」の側からの働きかけで「父」もしくは「兄」の再生が試みられたのは、こうした光景を前提とした、一種の補償行為だったのでしょう。(当時『批評空間』という雑誌に掲載された柄谷行人、浅田彰と東浩紀の2度のやりとりは、「子/弟」から「父/兄」への心を込めた贈り物の「贈り物」性が、「父/兄」によって「くだらないこと」であるとして徹底的に否認され、凄惨な様相を呈したわけですが……。)
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上で引用した「うた」が学位の価値の切り下げを訴えているのは、自嘲というより、「子」から「父」へ、「弟」から「兄」への気遣いであり、そのような気遣いがしばしば「誤配」されることへの苛立ちが滲んでいると解釈すべきなのかもしれません。
90年代には「世紀末」の観念が100年ぶりに蘇って、象徴交換が緩やかに死につつある、という幻想が跋扈しました。そして2000年代以後、今度はグローバリズムの名の下に象徴交換を再浮上させるべきである、というミッションに人々がとらわれているのですから、「父/兄」から「子/弟」へ、あるいはその逆の、といった贈与のサイクルの修復には、たぶんまだしばらく時間がかかる。交換と贈与をいいかげんに混ぜたらひどいことになるのが目に見えているし、どこをどうするのか、順番に考えなきゃいけないのでしょうし、何にせよ、学位が涙と互換なところへ暮らすのは哀しいことだ。
だから「推薦の文化史」を誰か書け、と言っているのに。