古典派ソナタは自ら弾く/聴くことによって主体の現前を迂回した volonté générale の夢を開く(チャールズ・ローゼン『ベートーヴェンを“読む” 32のピアノソナタ』)

[追記あり]

プルーストの喜劇は、1850年からほぼ現在に至るまでの中上流階級の家庭における欧米の文化を代表するものとして、ベートーヴェンのソナタに相当の価値を与えている。客人をもてなしたり、家族で夕食を楽しんだりするのと同様、文化的な生活の一部となっているのである。[……]それなりに恵まれた階級の子供たちにとっては、ピアノのお稽古は、読み書きと比べるとかなり優先度は下がるかもしれないが、読み書きの勉強に次いで重要であった。(11頁)

ベートーヴェンの生前には、ウィーンの公共の場で演奏されたピアノソナタはほとんど存在しなかった。[……]ウィーンでは、一般向け演奏会の発展がほかの欧州諸国より遅れたため、かえって新しい音楽の楽しみ方にふさわしい、効率が良く、効果的かつ近代的な作品がハイドンにより生み出されることになったのである。(13頁)

[……]20世紀後半に至るまで、一般的な音楽愛好家はベートーヴェンのソナタの多くを家庭で慣れ親しみ、ピアノ・リサイタルが頻繁に開かれるようになってからは、時折、素晴らしい公演を聴いて刺激を受けるようになった。録音により家庭での音楽演奏の伝統がついに途絶えてはじめて、ベートーヴェンのソナタは、アマチュアとプロの憧れの架け橋になるという特別な地位を失うことになったのである。(15頁)

ベートーヴェンを “読む”

ベートーヴェンを “読む”

原題は Beethoven's Piano Sonatas: A Short Companion (2001) で、「ベートーヴェンを“読む”」は類書と区別するべく邦訳時に付けられたようですが、内容的には、自分でピアノの前に座って楽譜を「読書」するときのお伴(Companion)として書かれた本なのだろうと思います。

Beethoven's Piano Sonatas: A Short Companion

Beethoven's Piano Sonatas: A Short Companion

私は、今でもピアノの演奏会は、弾くほうも聴くほうも「自分で読み書き」をする人たちが集まる場、いわば、手料理をごちそうになる場なのだと思っていますが、ようやく、その理路を明確に書いた文章に出会った。

シュナーベルの演奏がどうしたこうした、とか、そんな、どっかのマーケットで買ってきた缶詰や冷凍食品を持ち寄る貧乏学生の合宿みたいな話は、ほかでやればいいし、ある日あるときのピアノ演奏の有り様を国家の存亡を賭けた一大事みたいな文体で綴るのは滑稽ですからね。

(文体といえば、「(思想的)受容の道が切り開かれる」とか、「思想的格闘」とか、「勝ち負け」「征服」といった観念で物事を整理・了解する語法は「歴史把握一般」の特徴ではなく、「史記」や「大日本史」の徳川後期から大日本帝国にかけての漢文脈、ヨーロッパでいえば帝国主義時代の国家闘争の政治史とか、それを踏まえた階級闘争史観とかに特有の、特定の時代・領域の文体に過ぎないと思う。そんな風に「歴史学」を矮小化(アイコン化?)して何かを言った気になるのは知性の怠惰である。……と東大系美学者の「内向き」な嫌味への反論を日記には書いておこう(笑)。)

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ときには、お肉がちょっと固いかな、と思うことがあったり、ソースが濃すぎて、全部同じ味になっちゃうなあ、ということもあるけれど、おおむね楽しい会食だったのでまた来ます、ということになったり、色々あって疎遠になったりすることもあるけれど、それも人生。「うちの娘が大きくなったら、ぜひ、この人に習わせたい」という出会いがあるかもしれない。

なかには、会食にもぐりこんで、「この娘は高く売れるぞ、ヒッヒッヒッ」とソロバンをはじく商売人がいたり、かつてのお嬢様もの昼ドラの石丸謙二郎みたいに、戦後のドサクサで家屋敷丸ごと買って、お嬢様を己の所有物にしようと目論むワルモノとか出てきたりもするし、

ミルドレッド・ピアースの娘のように、自分を高く売るためにクラシック音楽を身につける人も出てきたりはするわけですが……。

http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20130613/p1

ベートーヴェンのピアノソナタは、そのようにピアニストのヴィルトゥオーソ性を「売る」ベクトルを内包しながらも、「人身売買」に抵抗する原理を読む者/弾く者に会得させる存在という位置づけで、ブルジョワ音楽文化に装填されたのだと思います。

これは、大作曲家の神話化/脱神話化、というような音楽の国民経済・国家行政(=「読書する公衆」を飲みこんで19世紀後半から20世紀に進行した「平民の国民化」に関わる案件)とは話の位相が違う。

記念碑に刻まれたドイツ: 戦争・革命・統一

記念碑に刻まれたドイツ: 戦争・革命・統一

そういえば、日本には薪を背負って読書する二宮尊徳像があるけれど、音楽の読書=ピアノを弾く姿はおよそ「記念碑」にならない気がする。ベートーヴェンのピアノソナタは、モニュメンタルに表象・記憶されない案件なのだと思います。
ラーニング・アロン 通信教育のメディア学

ラーニング・アロン 通信教育のメディア学

ただし、日本の独習=ラーニング・アローンの歴史を略述する文脈で、井上義和先生は二宮尊徳の生き方に大日本帝国の立身出世至上主義や修身道徳とは違うもの、「もはや蛍雪の悲壮感を突き抜けて痛快」を見いだしていますが。
カールツェルニー 若き娘への手紙

カールツェルニー 若き娘への手紙

ともあれ、ベートーヴェンの高弟にしてリストの師匠がこういう本を書くのがピアノもしくは鍵盤楽器の文化。
西洋音楽演奏史論序説―ベートーヴェン ピアノ・ソナタの演奏史研究

西洋音楽演奏史論序説―ベートーヴェン ピアノ・ソナタの演奏史研究

渡辺裕は、時代(19世紀の前半と後半)と場所(公・私の別)をごっちゃにしてベートーヴェン論で失敗した、という言い方が成り立つかも。この人は文化史的だが社会学的ではなくて、社会の階層分化というようなことを見ないようにする傾向があると思う。「一億総中流」の最後という感じ。
ナショナリズムの歴史と現在

ナショナリズムの歴史と現在

一般に、イデオロギーを突き放して透徹した視線で整理する作業は、博識な左翼学者にやってもらうのが一番正確です。

(ちなみに、ホブズボームはナショナリズムの最盛期を第一次大戦後ウィルソンのヴェルサイユ体制から第二次大戦後の冷戦までと見る。一定の規模がなければ地域や共同体がネーションとして独立できるわけがない、という19世紀までの常識のたがが外れて、「言語」「人種」がネーションの要件として剥き出しになり、いわばイデオロギー化した時期として記述が進みます。そしてポスト冷戦期の民族紛争、文明の衝突については、(あくまでまだその行く末が見えてはいないとしながらも)「もはや」ネーションが形骸化した亡霊のように語られているにすぎないと見ているようです。ひとつの一貫した見通しだと思いますし、この図式に照らすと、「ワーグナーまでのドイツ」と、ポスト冷戦期の「音楽の国」観光キャンペーンをつなげるのは、ナショナリズムが一番肉厚だった時期を「中抜き」したことになり、とりあえず時期を区切った、と呼ぶだけでは済まない基本設計のミスということになってしまいそうなのですが、いいのだろうか? 「音楽の国ドイツ」論は、実は本格的なナショナリズム研究ではなくワーグナー論の副産物であり、その痕跡が構想に抜きがたく残ってしまった。そう認めちゃったほうが楽になるのでは? 出版後の評判の偏った広がり具合で「隠れワグネリアン」をあぶりだす効用があったわけだし(笑)。)

一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル

一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル

社交嫌いで討論する理性を信じないルソーの社会契約論が「一般意志1.0」、情報社会のもはや数理的にしかアクセスできなくなってしまったオタク引きこもり系の膨大なコンピュータネットワークの履歴データベースが「一般意志2.0」を夢見させてくれるとしたら、鍵盤というコンソールを唯一の自分の場所(聖域?)として確保した良家の子女のために量産されて、いまだにその全貌の把握から程遠い19世紀ピアノ音楽の「暗黒大陸」((c)西原稔)は、ブルジョワ音楽文化の無意識=「一般意志1.5」くらいにはなっているかもしれませんね。
ピアノ大陸ヨーロッパ──19世紀・市民音楽とクラシックの誕生

ピアノ大陸ヨーロッパ──19世紀・市民音楽とクラシックの誕生

[追記:ここに書いたことは、以前に「手芸」としてのクラシック音楽と書いたことの実例だ、とあとで気付いたので、リンクを貼っておきます。→http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20120531/p1 ]

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で、楽譜を目で読み、その解析結果をいったん鍵盤上の指先の運動へ迂回的に接続することで得られた音響出力を自らの鼓膜で受け止めるというように、諸知覚・諸感覚混淆的でコンスタティヴかつパフォーマティヴなところがかえって「聴覚的」(参考:http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20130605/p1)なのかもしれない「音楽の読書」(その過程でなるほど音響は発生するが、自らの声を聴く現象学的現前(← deconstructed by Derrida)を迂回するところが黙読的でエクリチュゥゥゥル♪な感じ)という比喩ではなく、瞳で紙面上の文字を追いかけるグーテンベルク的に由緒正しいほうの読書(黙読)ですが、

1頁め。2頁め。読者は思う。ああ、もう終わりが近い。残された分量は2頁もない。このまま終わるのかなあ、と。すると、少しずつ胸騒ぎがしてくる。

東京大学(英米文学)・阿部公彦の書評ブログ : 『憤死』綿矢りさ(河出書房新社)

阿部公彦さんは、本当にいつも美味しそうに小説を読みますよね。