[例によって一番最後に話をひっくり返しているので、粗忽に最初のほうの語句に引っかかって慌ててツイートしないように(笑)。]
私は、私は私で他人は他人だ、と思っておりまして、「嫉妬」が理解できません。以前に、婚前・婚外の性交に関して述べましたが(http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20130528/p1)、ほぼ同様の理路で、他人が現在占めている地位を自分が代わって占めることを請い願う感情(envy、嫉み・妬み)は、ほぼ欠落しているようです。
[補注:自分が大切にしているものを奪われることへの警戒 jealousy は常に強くあると思うが、これはまた別の話ですよね。おそらく jealousy は「愛」と深く関係する概念で、AをBに奪われることに対してCが jealous なのだから、「男同士の絆」風の三項で成り立つ関係だと思いますけど、日本語でどう言えばいいのでしょう? 妬みとはちょっと違うし、以下の話は、広い意味では jealousy を 二項対立的な envy へ変換処理することで人間関係を効率化(計量化、ほぼデジタル化)する傾向への違和感をめぐるお話と言いうるかと思います。envy は「交換」の欲望だが、jealousy は転移する。そしてそれは「男同士の絆」(BとCの連帯)で安定するほど生易しいものではないし、まして envy に解消して片づけられるものではないはずです。]
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ともあれ、どうやらこの世の中には、私と他者の間に「交換」が成立する、成立して欲しいという願望が伏流しており、また、ひとはそのように欲望し、そのような「交換」を目指したり、「交換」の不成立に焦燥感を募らせたりするものなのだ(←これが「嫉妬」)、という前提で構築されている制度や観念の体系が稼働しているようなのですが、私には、そういうのは、(同じ比喩の繰り返しになりますが)ドミナントがトニカを志向する、とか、不協和音は協和音への解決を求める、という西洋流和声の説明と同じくらい「他人事」に思えます。
そうするとどうなるかというと、どうやら私は、周囲から「嫉妬に駆られた行動」と見られるような言動を平気で行ってしまうことがあるらしい。
で、そういう摩擦を通じて、「ああ、人はこういうときに、実在しない「嫉妬」を、ある、と見なしてしまうんだな、なるほど」と、またひとつ賢くなる(笑)。
0. 前提 - 学問にもマネジメントが実在する
学者Aがある成果を披露した。それは、彼の積年の研鑽で練り上げられた結果かもしれないし、直近の閃きによる生乾きの仮説かもしれないけれど、ともあれ、学者が研究成果を世に問い、世間に「揉んでもらおう」と考えるのは当然の行動だとひとまず言える。
しかし、彼がどのような時と場でその成果を披露できるか、というと、これは、その人の来歴や現在の社会的・学問的な実績等によって随分と変わってくるし、学問というのもひとつの制度ですから、いつ誰にどこで話をさせるかをマネジメントする部署もしくは人材というのが実在する。(制度的にそういう部署や人材が「設置」されていることもあるし、なんとなく&たまたま今は、そのような仕事が誰かに押しつけられたり、誰かがそういう仕事を買って出ているに過ぎないケースも稀ではない。とりわけ人文科学は規模がちっちゃいので……。)
マネジメント的な視点から、学者Aの成果披露は、できるだけ華々しく、晴れやかに行われるべきであろう、というような判断が成立し、しかるべく手配されたりするケースがあるように見える。(それが学者Aの同意のもとなのか、どうなのか、ということは、不明であることが多い。)
そしてそのようなマネジメント的視点で奔走している人間は、学者Aの成果披露に対する「評判」もまた、自分の責任・管轄領域である、と考えるようになるものらしい。
学者Aの成果披露に対する「評判」に対して、これは適切であり、あれは不適切だ、というようなマネジメント的視点による、いわば「メタ評価」が成立してしまい、マネジメント的立場の者は、成果披露が終わったあとも、この「メタ評価」をどのように処理すればよいものか、いつまでたっても心の安まるときがないらしいように見える。
マネジメント的立場の人間が、己の心を占有している「メタ評価」の呪縛を手っ取り早く処置するための概念として、「嫉妬」説が導入されるのは、まさにこのとき。50年代実存主義用語で言うところの「見る前に跳べ」、60年代新左翼系ポスト構造主義の言う「命懸けの跳躍」である。
1. 「嫉妬」の誕生
マネジメント的立場の人間は、彼の「メタ評価」に照らして不適切と判定されたリアクションを発見すると、ただちに、学者Aに「あれは嫉妬だから気にしないほうがいいよ、悪い人じゃないんだけど、困ったもんだよねえ」と親しげな笑顔に、あくまで会話の円滑さを損なわない程度の憂いを混ぜた口調で囁く。
そして重要なことは、この囁きが、マネジメント的人間の学者Aへの単なる「おもねり」ではなく、学者Aの「度量」を推し量る一種の試練にもなっていることである。
学者Aは、「いや、彼の言うことにも根拠はある」と応じることもできるし、「そうなんだよね、ほんと、困っちゃったよ」と、マネジメント的人間と肩を組み、果ては抱擁せんばかりに意気投合することもできる。単一の正解はない。そしてこのときの反応が、今度は、マネジメント的人間の「学者Aに対するメタ評価」へ繰り込まれていくことになる。
こうして、とりあえず投げかけられた一言に過ぎなかった「嫉妬」の一語は「社会化」し、もはや、最初の発話者を含めた個人の意志を離れて一人歩きしはじめる。
事実としてどうであるか、を離れて、特定のリアクションを「嫉妬」にカウントすることは、そのリアクションへのさらなる応答を停止してよいことを意味するので、学者Aにとっても、マネジメント的人間にとっても、極めて効率的である。こうして、「嫉妬」は「思考の経済」の駒としての除去できない位置価を獲得する。
2. 「腐れ縁」 - 滑らかな社会とその敵
このような事態を観察するときに注意せねばならないのは、学者Aとマネジメント的人間の間に見解の相違が残る場合のみならず、両者が意気投合する場合であっても、学者Aが主観的に把握する世界の見取り図と、マネジメント的人間が主観的に把握する世界の見取り図が融合したり、合致したり、同一化したりする必要はない、ということである。
両者は、特定のリアクションの処遇をめぐる一連のセッションを実施したにすぎず、そのあとも、その前から引き続いて学者Aは「研究」を続けるであろうし、マネジメント的人間は、学者たちの差配にいそしむ。一連のセッションは、一時的に特定のメモリの領域を確保して行われるが、処理が済めば、ただちにメモリ領域を開放して、次の一時処理に充てられるだろう。
ただしセッションの履歴、ログは残る。
セッションの当事者である2つのエージェント(すなわち学者Aとマネジメント的人間)以外の人間は、何らかのインターフェイスを介して、セッションそのものではなく、セッションのログにアクセスすることになる。
つまり、セッションそのものが終了したあとになっても、セッションのログにアクセスした第三のエージェントから、あとでリアクションが発生する可能性が残るということである。これは実にめんどくさい。終わったことを蒸し返されてはキリがないので、第三のエージェントへの対応を考えておかねばならない。これもまた、マネジメント的人間にとっては、「職務」のひとつと認識されているのが通例であるらしい。
なぜ、他の囁きではなくマネジメント的人間の囁きだけが、つまり、学者Aとマネジメント的人間のセッションだけが、優先的に特権モードで走る設計になっているのか?
ここで導入されるのが「あいつとは腐れ縁で……」という言説。一般化すれば、なるほど「学問」は開かれた活動かもしれないが、それをマネジメントするには、プレイヤーとの私的・個人的な関係が別のレイヤーで稼働していなければならず、そのような「縁」は、計量化・法則化できるものではないので、そういうものだと思ってくれ、スマン、である。
本当にそうなのか?
3. 「思考停止」を肯定する - まどろみの世紀へ向けて
再三申し上げている「推薦と査読の文化史」の必要性、学問の周囲で、人と人とがつながるレイヤーを不可視の底へ沈めて良いのか、そのことで生じる不都合を回避する知恵の蓄積が、知識人共同体には装填されているはずだ、というのが私の考えです。
(推薦は、「同じAを志す者としてBはCを推す」という関係、査読は、「同じAを志す者としてBはCを受け入れる/拒否する」という判定の明文化であり、いずれにしても、jealousy の場合と同じく項が3つある。ここでの「同じA」への関係が、文系では偏愛的であり、理系ではクールに方法化されていることを誇大に強調する傾向が日本にはありますが、「同じA」を志向する、という姿勢が良くも悪くも「専門家」を形作り、単なる趣味との違いになるので、そこを誤魔化すのはよくないと思う。そしてまた、XがYを引っ張り上げる、とか、XがYを認める/認めない、という二者の直接対決、親分・子分の盃を酌み交わす行為ではないところが特定の目的集団としての特徴であり、学者のコミュニティをボスが君臨するサル山的な縦社会とは違う関係性で形成しようとする理念をそこに読み取るべきだと私は考えます。)
だから、学問を切り盛りする作法として、おせっかいなマネージャーが出てきて「嫉妬」や「腐れ縁」を振りかざすのは短絡的な対処療法として、排除はできないにせよ、容認するのは難しい。(「売春」がそうであるように、そのような振る舞いを公然化するのは感心しない。)
しかし一方、「嫉妬」や「腐れ縁」を持ち出してくる行動様態は、症例として実に興味深い。
ちょうどラファエロ前派がラファエロ以前の職人の手仕事に戻るところから来るべき世紀へ再出発しようとしたような意味で、
ラファエロ前派から派生した感じもあるアーツ・アンド・クラフト運動は20世紀にモダン・デザインの大輪の花を咲かせるに至る。
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意匠学会が関西意匠学会として1959年に設立されたときは京大美学の井島勉先生が会長だったり、京都とモダン・デザイン論の縁は深そう。(1984年に意匠学会が学術会議研究団体に登録されて、芸術学研究連絡委員会(芸研連)に入ったときの会長は京都教育大名誉教授の伊東一信先生……って、あれ、「東」の伊東で、名前に「信」の字が、と、まあ、そういうことです。)
で、そういうデザインの前衛/アート志向にカウンターを当てる冷静なプロダクト・デザインの社会学、『欲望のオブジェ』は、読んでみたら本当に素晴らしくて、めちゃめちゃ勉強になる!
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テレビ美術においてもモダン・デザインは大事らしいし。
- 作者: 三原康博,テレビ美術研究会
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参考:http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20121220/p1
つまり職人の「手」を持ち出すことで「頭でっかち」を切断するラファエロ前派以後のデザイン論みたいに、「嫉妬」という心の動きが実在し、その点において、ヒトは学者といえども動物である、との立場を採用し、ここに何らかの人工的な操作・設計、もしくは遡行的内省が介入する余地はないと割り切ってしまうのは、もしかすると、いわば「ニーチェ前派」なのかもしれないと思うのです。あたかも19世紀末の高感度な人たちがそれまでの悪しき観念論を嫌悪して新世紀のさわやかな朝の目覚めを切望したように、こんどはそれから百年経って、この「短い20世紀」に跋扈した「言語論的転回」の人工知能を一掃して、「嫉妬」と「腐れ縁」が織りなす21世紀の動物的学問へ舵を切り、19世紀以前へ戻ろうというわけだ。「神は死んだ」は間違いだったので撤回します、神はいる、だから、人間は人間の分際へ戻れ、と。なるほど、それも一興。
そういえば、岡田暁生も3.11直後にそんなことを預言者めいた口調で語っていたが、「嫉妬」と「腐れ縁」は、一神教的でありたい学者さんたちが21世紀の日本に生きるとこうなる、というひとつの類型かもしれません。
- 作者: 坂本龍一,片山杜秀,吉岡洋,佐々木敦,大石始,石田昌隆,三上敏視,輪島裕介,川崎弘二,毛利嘉孝,谷口文和,山崎春美,長谷川町蔵,三井徹,加藤典洋,岡田暁生,椎名亮輔,高橋悠治,ピーター・バラカン,大友良英,三輪眞弘
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なぜか京都は、最近このあたりの問題系にご執心な学者が目立つよね。21世紀の京都学派は「嫉妬」と「腐れ縁」で行くのかな。学問とは、妄言を語る教祖と、その周囲で彼の世話を焼く者とのコンビ芸であり、これが、情報社会の荒波に「人の絆」を排他的かつ社交的に存続させる秘訣である、と。
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高度情報社会は「思考停止」をやってはいけないことに分類して、あっちこっちの既得権へ批判の矢を放つわけですが、むしろここで、最先端なのかもしれない学者とその周囲の滑らかなコミュニケーションが示唆するメッセージは、
「ただちに思考を停止せよ」「そうして20世紀を切断せよ」
と解読できる。「考えるのを止めろと感性学者は言った」というわけですから、究極の逆説、なかなかに刺激的です。阪神大震災とオウム真理教騒動から13年、当時若手or院生だった現在40〜50歳の関西の学者たち(たぶん村上春樹が結構好き)は、今こんな風になってます!
4. 永遠の眠りに就く前に、仮眠をとってリフレッシュしよう!
日本は歴史的には仏教国ですし、私は仏教徒なので、耶蘇の心身二元論、霊魂(崇高にして唯一絶対)と肉体(互換性の高い汎用の器であり、こんなモノに封じ込められているから「オレ」が「奴ら」と「交換」される危険にさらされるのだぁぁぁ!の思想が生まれるのでしょう)の相剋とか、別世界の出来事にしか思えませんし、なんだかこれは「西洋」を部分的にしか取り入れていない劣化コピーに見える。やるなら、もっとちゃんと「近代化」すればいいのに、と思うわけですが……、
要するに実は思い切り形而下の生理現象みたいなもので(笑)、皆さん、仕事や子育てに忙しかったり中年で老化がはじまったりで、考えることに疲れているんだろうと思う。
休んだらいいんじゃないか。あんまり大げさに思考停止しないほうがいい(ヒステリックに原発即刻全廃を夢想しても急には無理)。
とにかく、日中からまどろんでしまって、あたりを「影の存在」が大手を振って跳梁跋扈、はやめときましょう。
「近代化」に疲れたオトーサンの息抜きとしては、たとえば、「日蝕はアマテラスがお隠れになるいつものアレ、ストリップダンスで一騒ぎしたら元に戻る、イイ感じにリフレッシュ!」くらいの定例祭祀でどうか。戦後日本神話音楽の決定打、大栗裕と伊福部昭ですよ(←我田引水)
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(で、系譜学 genealogy や遡行 retrospective の使い方は、これで合ってるのかしら)
光文社は古典の新訳を次々出すね。
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