今では人文科学にメディア論や社会科学の視点が欠かせないことになって、社会学者が言説分析をして、人類学者の振る舞いは「参与観察」と呼ばれているので、どこがどう違うのか、学科の境界はボーダーレスな感じですが、
ワシが学生だった頃には(笑)、まだ、文学部は本を読むところで、人類学者といえば探検家で、社会学は各種統計資料を読み込み、アンケート調査をしているイメージがあったような気がします。
そうしてそれぞれが「マスコミ」へ進出したときの「文化人」としての生態もそれぞれ違って、文学部の先生といえば物事を断言せずにはいられない評論家、人類学者は珍しい風物を紹介する愉快なオジサン、社会学者は、クールな所見を述べる世相のホームドクターを連想するのですが、
私はいったい誰をモデルにこんなことを思っているのかと反省してみたら、それぞれ山崎正和と小泉文夫と井上俊だから、小泉文夫こそNHK-FMで声を聴いたことしかないけれど、あとは、阪大で講義を受けた印象で、あんまりマス・メディアに媒介されたイメージではないことに気がついた。
各学科で何をやるか、についての予測も、千里に京大探検隊の梅棹忠夫がいて、教室で人間科学部の学生のアンケートが回ってきたり、心理学実験のアルバイトの誘いがあったりした体験にもとづいているのかもしれません。
まだいちおう昭和だったし……。
学科の境目がボーダーレスになった「キャンパス・ライフ」はどんな風になっているのでしょうか。
門外漢が世間に出回る啓蒙書だけを見ていると、
(ちょうど「文化史」がエロの蘊蓄の隠れ蓑として本のタイトルに多用されるのと似た感じに、)
サブカルチャーの社会学は「自分語り」(自分自身の日常がフィールドなんです!)の解放区になっているかのようにも思えてしまうのですが、従来の社会学とどこがどうつながっているのか、どこかに決定的な断層があるのか、そこが知りたい。CSが新左翼なのはもうわかったので、次は社会学。
(あと、ブラスバンドは「サブカルチャー」なのか、そうだとしたら、あるいは、そうは言えないとしたら、その線引きの理論的な枠組みはどういうものなのか、というのが気になります。)
初期CSの仮想敵、リーヴィスのスクルーティニー派文芸批評がどんな風に扱われているかと読み返したら(唯野教授の講義の種本は『文化と社会』のウィリアムズの弟子テリー・イーグルトンだし)、80年代の「キャンパスライフ」(笑)の空気感を思い出した。色々誇張とかはあるけれど。
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リーヴィス先生は、労働者の文化など踏みつぶしてしまいそうなコチコチの保守派かと思ったら、むしろ「苦労人」で、だからかえって身動きがとれなくなった、ということなんですね。共産党系インテリみたいな感じ。