カタチとココロ・制度と感性:カリスマは有望か虚しいか

いかに社交的であろうとも、世の中のうちで私が知りうる範囲は、私が知らない範囲とまだらに混じり合って、それほど広くないと考えるのが理性的だと思うのだが、

自分が知りうる範囲内に「これだ!」と惚れ込む大人物が出現する/そのような「気付き」を得る/ビビッと来る等々があると、

その大人物を押し頂く「わたしたち」と、それ以外の灰色の領域へと、世界が整列されるらしい。

恐いことである。

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そのように惚れ込みうる人物を中心とする3つめの図こそが「世界の真の姿」であり、そのような覚醒・気付きこそが成熟である、というような思考・行動様式は、私見では、「ゲージツ=アート」の世界において1960年前後生まれを境に急速に色褪せたように思う。

「ゲージツ=アート」の古典・規範が成立した時代と今とでは、それを享受する人の数も階層的な範囲も比較にならないほど拡大・拡張しているので、今更、情報のエントロピーの法則に逆らって「世界の真の姿」へ戻るのは、たぶん無理です。

それに、「ゲージツ=アート」と呼ばれる様々な理由で今ではがっちりと制度化されている行為が、感性に訴えかけるある種の質、とりあえず「美」と呼ばれることの多かった「かけがえなさ」を純化して追い求めていた時代が確かにあって、それはたぶん、恋愛の到達点が結婚だ、みたいなイメージに近いと思うのですが、その比喩を敷衍すれば、今ではもう婚活と恋愛は別だと言わねばならない。

3つめの図のようにがっちり組み上げられた儀式や制度が世界のどこかに(あちこちに?)確かにあるし、他方で、2つめの図のように人と人の縁のなかでキラリと光る何かを感じさせる存在と遭遇することがある(かもしれない)けれども、それとこれとは別の話であって、キラリと光る存在が常に玉座を得るべきだ、とか、玉座にある者は類い希なる特別な存在として唯一不可侵だ、とか、そういう風に両者を混ぜ合わせるのは、利点よりも弊害のほうが大きい。

(あるいは、そんな風にカタチとココロを分ける言い方がお好みでないとしたら、めんどくさいから「ゲージツ=アート」クンと、「美」なのかもしれない感性的な「かけがえなさ」チャンは、今ではもう元カレ/元カノ状態、もしくは、円満なのか泥沼裁判の末なのか知らないけれども離婚が成立して「いい友達」状態、縁を切ったわけではないけれども、既にそれぞれの道を歩んでいる、と。これでどうか? せめてそれくらいに緩い関係性で考えないと20世紀、21世紀の話をしている感じにならない。)

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でも、偶然なのかどうなのか、「ゲージツ=アート」のような非日常がフラット化を受け入れざるをえない感じに拡散していくのと反比例するように、同じ頃からどうやら日常の仕事や生活環境のほうは着々と「一億総中流」の幻想を崩すような「階層化」が進行していたと見るほうがいいようで、

階級都市―格差が街を侵食する (ちくま新書)

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面白いことに、ちょうどそんな風な流れの分岐点の1960年前後生まれの人たちが「社会の責任ある立場」に就き、退職までに「大きな仕事」がしたくなりつつある今日この頃、潜在的に「世界の真の姿」に惚れ込む気質を抱えた人が実は案外たくさんいて、長い長い潜伏期間を経て、今こそ力強く「覚醒」する兆候があるのかもしれない。「階級都市」の中心には、燦然と「ゲージツ=アート」が輝いていて欲しいみたい。(一度しかない人生だから、やっぱり大恋愛をして、それを結婚という一大ページェントに仕上げてみんなに祝福して欲しい。私にはそれができるはず!とか。)

しかも、創造する劇場とか、アーツカウンシルとか、大学の地域貢献とか、そのあたりを組み合わせると、どうやら覚醒率が急速に高まるらしい。

「最後の聖戦」だと勘違いして、周囲を根こそぎ巻き込んだりしないことを願う。

端的に言って、これは「万博」型の、立派な旗の下で地域開発する文化行政の最後だと思うんですよ。もう賞味期限が切れるギリギリだから、ここで「地域」の毛細血管まで入り込んで、全部搾り取っちゃおう、みたいなブライダル業界の大作戦。

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ヨーロッパでは19世紀が最盛期だった万博の夢に日本が感染して、実現したのは1970年だけれど、実は1940年=皇紀二千六百年で、実現あと一歩のところまで来ていたらしい。

皇紀・万博・オリンピック―皇室ブランドと経済発展 (中公新書)

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そうして愛知万博では、これを読むまで知らなかったのですが、フミヤとカールスモーキーが「アート」のプロデューサーをするところまで行き着いたらしい(←こういうときこそ、「遂にここまで来た」と言おう!)

アーティスト症候群---アートと職人、クリエイターと芸能人 (河出文庫)

アーティスト症候群---アートと職人、クリエイターと芸能人 (河出文庫)

夢に「覚醒」してしまうオジサマ、オバサマをどうなだめて、長い開発の歴史の負債を処理していくか。「団塊の世代」問題が一段落したら、今度は、格差を輝かせる夢に取り憑かれた人々を「介護」せねばならない季節が来そうな気がします。

たぶんそういう軟着陸のための手間をかけてようやく、日本型「クラシック音楽」が成仏する。

そうして漢文学とそれを前提しながらそこから分かれた仮名文学のように、「極東の洋楽」としか呼びようのないものが「クラシック音楽」から枝分かれできたら、洋楽をあれだけ苦労して取り入れた甲斐があったことになるのだと思うのですが、和製ポップスが山ほどあるからもう十分、なのかどうか、そこだけが少し気がかり。

自分が死ぬまで「クラシック音楽」が保ってくれたらそれで十分、という人のほうが音楽関係者には多いかもしれないのですが……。

(「池田→宝塚→桂のゲージツ大学」という阪急電車以外乗ったことがないんじゃないかと思える環境は、夢に覚醒する気質を抱えたオトナたちのどこを突いたらいいかを習得できるこれ以上ないエリート・コースだと思います。

まあしかし、先の大東亜の聖戦のときにも、オトナたちが「大政翼賛」とか「厚生音楽」とか自ら進んでひとつにまとまって動員されつつ自らを動員していくなかで、それなりに居場所を見つけて学ぶべきことを身につけた若い人たちが戦後のリーダーになったわけだから、世の中、何がプラスで何がマイナスなのか、一概には言えないのでしょうけれど……。)

本当の経済の話をしよう (ちくま新書)

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経済学という教養 (ちくま文庫)

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「公共性」論

「公共性」論

金儲け・金勘定だけでなく、資本主義批判とかそういうのだけでない形に、素人が経済を捉えられるようになっておくのは、もういい歳なのだから大事かもしれない。泥縄式社会学の次はそこかな、と思う。