やつし

ああなるほど、場に飛び交う言葉を整理するとそういう構図になるなあ、と思う反面、言葉の応酬の向こう側で、ギャラリーを含めて、本当に知りたいのはここなんだけど、どうなの、と別のところに関心があるのも否めない。そしてそっちへ物事が波及したら困るような立場の人は、だから、フルメンバーであるかのようにアリーナへ出てくると、かえって色々やばいんじゃないのかなあ、とむしろ私はハラハラしているのです。

それはともかく、

批評が「メタ」と相性が悪いのは、どこの誰であっても、「公衆」に身をやつして発言するのが基本で、価値の生成や運用は、そういう場が形成されてこそなんじゃないか、と私は理解しているのだけれど、どうなのでしょうか。

学者という立場からの批評論が、どこか、届いていない感じがするのは、「公衆に身をやつす」行為をすくいあげる手順がしばしばスキップされてしまうからではないか、と、一般論として私はそのように思っています。

そしてその上で、経済活動はそれぞれがそれなりの幸福を得るような「やりくり」であり、不平等の解消を目的として掲げることはできないのではないか、という考え方をまねて、「議論する公共」が、立場や差異の解消を目的として掲げる必要はない、程度に思っておくのがいいんだろうと思っております。だせる範囲でだせるものを出すしかないし、それでいい。

ただしもう一つあって、批評が異種格闘技的な様相している現状を知らずにいきなりそのど真ん中へ降りていったら、そらケガするだろう、とは思う。だからプレイヤーが少ないのだし。来る必要のない人は来なくていい。その程度のものでもあると思う。それでも、やる人はやるんですよ。バカだから……。