冊子 folio とペラ紙 ephemera(ローター・ミュラー『メディアとしての紙の文化史』)

「活字離れ」という嘆きは一面的で事態を正確に捉えていない、と言われることがあるけれど、「本」と「紙」を区別すると、そのあたりがすっきりするようです。

メディアとしての紙の文化史

メディアとしての紙の文化史

「白い魔術」(←原題 Weisse Magie の直訳)は、まだまだ色々出てくるようですが、読んでいる途中。

二つ折りの紙(folio)の裏表に活字をびっしり印刷して束ねたものが「本(冊子)」で、今そこから人が離れつつある、と言われるのはこれですね。ほぼこれが、グーテンベルクな世界と重なる。

一方、「一枚紙(ephemera)」は、お金や手形や書類にもなるし、手書きの文字や絵を記して流通することもあるし、ティッシュペーパーとかそういうのもある。

対象と定めた人物が「作者」を名乗って刊行された「本」を一次文献と呼び、そこから二次・三次文献が派生する「書物の世界」を「言説空間」とみなして思考を進める研究スタイルが伝統的な文学部のやり方だけれど、

その「作者」が実際にやったのは、「本」の版下を作成するために、紙の束に文字を書きつけたり、タイプライターを打ったり、ワープロ(パソコン)のキーボードやそれに付属するプリンタを操作する行為なのだから、そのような、いずれは「作者」となるであろう人物が実際にやったことに直接関連する物件を「一次資料」と呼び、その人物が何をやったのかを知る間接証拠をその周辺に配置する考え方もある。この場合は、大量の「一枚紙」の山に分け入ることが珍しくない。

哲学は「本」を読んで、歴史学は「紙」の山をまさぐる。美学は「本」寄りで、芸術諸学は「紙」の山をまさぐる部門を含む、とか、そんな感じでしょうか。

日本の起源 (atプラス叢書05)

日本の起源 (atプラス叢書05)

與那覇氏は、もう自分は「本」の世界を泳ぐの中心で行く、と決めちゃった感じで、東島氏は、「紙」の山にもぐって、そこに人と人の「つながり」を探り当てようとしているように見える。與那覇氏が、「「中国の統治における「紙」の重要性」を論じている「本」」を紹介する、という光景があったりする。

大栗裕は、生前にほとんど作品が「本(楽譜)」として刊行されなかった人ですが、「紙」の山にもぐらないと見えてこない音楽(家)って、案外多いわけですよね。芸能史、民俗・民族音楽、ポピュラー音楽まで視野を広げれば。

楽譜を使うタイプの音楽であっても、譜面台に「冊子(folio)」を置くとはかぎらず、ペラ紙(ephemera)でパフォーマンスが成立することは珍しくない。エフェメラル・ミュージック?(大栗裕は、手書きの譜面を製本して依頼主へ納品するスタイルなので本とペラ紙の中間だし、20世紀は、「紙」以上に、溝を掘った円盤が重要にはなりますが。)

「近代日本の楽譜」プロジェクトは、ephemeral な領域まで届くのだろうか?

「本」の山を泳ぐのは「読書」(=勉強)で、「一枚紙」をさばくのは「事務」(=業務)と呼ばれるのはどうなのか、とか、そんなことも考えてみたくなりますね。最近のニッポンの大学は、「読書vs事務」の仁義なき戦い(?)の最前線のような印象があるのですが……、「一枚紙」に印刷されるための原稿を用意する仕事はすべて「事務」かというと、これはちょっと違いそうだし、「書記長」が権力のトップである体制がちょっと前までユーラシア大陸の東側では優勢だったし……。

夫婦善哉 正続 他十二篇 (岩波文庫)

夫婦善哉 正続 他十二篇 (岩波文庫)

蝶子と柳吉の住む世界は、柳吉の実家の帳簿の山のある商家とか、蝶子が裏紙をたばねた小遣い帳とか、電報とか、電柱の張り紙とか、法善寺の辻占とか、ephemeral な紙はそれなりに出てくるし、サロン蝶柳は新聞記者の溜まり場になるけれど、「本」は一冊も出てこないかもしれない。これはリアルなのか、それとも虚構的なのか……。