いわゆる「音楽の空間性」

18世紀以前の描写音楽や19世紀のオペラと標題音楽、世紀末の巨大な世界観音楽、そしてプッチーニ「ボエーム」第2幕のパリやドビュッシーの「祭り」、「ペトルーシュカ」のペテルブルク、ヴォーン・ウィリアムズの「ロンドン交響曲」など諸々の「都市の音楽」(大栗裕「大阪俗謡による幻想曲」もいちおうここに入るか?)のなかには、音がリアルな、あるいは想像上の広い空間に展開している、とイメージさせる書法の系譜がある。

ウェーバー「魔弾の射手」で農民のワルツが遠ざかっていくところなんかが、そのあとベルリオーズの幻想交響曲などにつながって……、という風に、1970年代からドイツの音楽学でひとしきり論じられたと記憶するのだが、

その後、英語圏の学者が「車輪を再発明」して、それを視聴覚の感性学者が捕捉して、自然科学、認知心理学などと結びつけながら面白がる、というお決まりのコースで、この話題は順当に流通し、消費されているのだろうか?

とりあえず、そういう効果をわからずにオペラやオーケストラを指揮する奴はヘボだ、という程度に演奏家たちの間では常識化していると思うのだけれど。

(「ピーター・グライムズ」の嵐の効果を小説論における焦点人物概念と結びつけて論じるのが「ニュー」だ、という感じの発表が音楽学会で行われている現状では、大丈夫なのかなあ、とちょっと心配ではあるのだけれど……。)