「大衆(マス)」という観念は思考の焦点が不活発だ

絵画で言う遠近法は描画の「視点」(観察の「立ち位置」)をどこに設定するか、の議論であって、「焦点」(観察が向かう先)の議論ではない、という理解で合っているでしょうか?

遠近法の消失点は、対象をどこから見るかによって数や位置が変わってくるわけで、遠近法絵画は視点を意識しながら描かざるを得ない。(それを叩き込まれた前提があるから、視点を複数化するキュビズムが出てくる。)

で、ルネサンスの画家はカメラ・オブスキュラという装置を使ったりしながら遠近法を研究したそうですが、装置の性質上、近いものは鮮明で、遠くのものほどぼやける、中心にあるものは鮮明で、周囲はぼやけるわけですから、「焦点」は「視点」に連動しており、独立変数ではなかったのではないか、という気がする。

(遠くのものや小さなものを際立たせるのは、おそらく、光学的な動機に回収できない「意味づけ」の問題になるのだろうと思う。手のとどかないところにいる天使、彼女の左手の指輪がこの絵では極めて重要なのだ、とか。)

一方「焦点」という概念に、人はいつどうやって親しむようになったのか。

カメラ・オブスキュラが発明のヒントになったとされる写真機や、連続写真のパラパラ映写であるところの映画が出てきたから、という理解で合っているのかなあ、と思うのですが、どうなのでしょう。

AがBに話しかけている場面なのだけれど、カメラ(レンズ)の焦点は話しているAではなく、話しかけられているBにある、とか、そういうの。

愛する人が交通事故で死んだことを主人公が知る場面で、その台詞は事故現場に群がる群衆のエキストラの会話のなかに出てきて、カメラは、その言葉を聴いた主人公の驚きの表情を捉えている、とか……。

「焦点」を自在に操作できる視覚表現に私たちはあまりにも当たり前に慣れて、今では劇場、舞台でもそれに似た効果が出るような演出が工夫されているように思いますが、ベタなやり方としては、群衆のなかで主人公にだけピンスポットが当たったりするわけですね。

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いや、なんでそんなことを急に考えたかというと、

「Mass(塊/群れ)」という言葉をヒトの集団に対して使用すると、その言葉を使った人は、対象となっているのが自分と同類の生物であるにもかかわらず、そのひとりひとりを個別化して、そこへ焦点を当てる意志は金輪際ありません、という書き手の構えを露呈してしまうことになるから、結構キツいよなあ、と思ったのです。

とりわけ、ソーシャル・メディアなどと呼ばれる、個々人がアイデンティファイできることが売りの場で、「マス」という言葉を使う人って、なんか、ものすごい腕力を行使している感じになる。

「焦点」のある視覚表現の歴史みたいなものを考えたときにも、おそらく、そんな風に、「常に焦点があたる人物」と「決して焦点が当たらないその他大勢」を峻別するのは、古典的ハリウッド映画(ライティング等の技法を総動員して主演女優の顔が輝く)とか、せいぜい20世紀のまんなかぐらいまでの視線のあり方で、21世紀じゃないよなあ、という感じがする。

カメラの「焦点」の発見と、「大衆」(それを構成する個々人には「焦点」が当たらない)という概念の創出は、なにか関連があるのかなあ、と思いついたんですよね。

そしてしかし、特定の主人公を一点凝視するような焦点のありかたは、既に写真というのは19世紀半ばにあってあれは20世紀じゃないですし、19世紀の舞台は、世紀半ばのパリのグランド・オペラも世紀終わりのロシアのバレエも「群衆」のスペクタクルを駆使して、そのことによって主人公を際立たせる傾向を強めているから、やや古めかしい「焦点」の結び方ではないか、という懸念がある。

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「焦点」を主役から外す技法というのがあるわけですよね。

コンヴィチュニー(また出ました、申し訳ない)は、それをしつこく丹念にやることに命を懸けてる感じがあるオッサンですよね。長大なアリアがはじまると、必ず歌っていない周りの人間がなにかやり始める。ト書きがその場面に他の人物を想定していないときは、黙役を登場させることも辞さない。(「椿姫」の2幕でアルフレードの妹(メガネっ娘)が出てきたり、とか。)

あの人は、せっかく広い空間を使うのに、主役「だけ」に焦点が当たって、その周囲がピンボケなのは、舞台が冷たいと感じるんだろうと思います。

偶然なのか、何か間接的な同時代性があるのか、日本の80年代以後のお笑いも、そういうのは「寒い」と考えるようで、カメラが色んなところへ半ば即興で動くようになりましたし、今では、ドラマでもそういう手法が普通に使われる。(もはやNHKの朝ドラですら、そんな感じであるらしい雰囲気ですよね。)

あらゆる芝居がアンサンブルへ向かっている感じなのかな、という気がします。

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言葉に「私」を投入しても、その「私」が主人公をこれと見定めてひたすら追っかけるだけだと、あんまし情景は生きてこない。(要するにステディカムですよね(ERだ)。あれはやっぱり酔って、不安を煽りますよ……。「自分探し」な90年代感が強すぎる。)

むしろ、1960年代のブライアン・ラージが映像化したブリテンを見ると、固定カメラで、原則として歌ってる人に焦点があるのだけれども、群衆シーンを次から次へとすごい角度から撮っていて、技術の限界を発想力で乗り越えようとしているような感じがあり、きめ細かなモンタージュの手間を厭わなければ、焦点の活発な移動ができないわけではないことがわかる。

映画でも、そういう風に画面が生き生きしたのが、ありますよね。そして舞台表現としても、20世紀初頭のバレエ・リュスは、群衆を使ったことが新しかったのではなくて、群衆の個々人をバラバラに動かしたことが斬新だとされたらしい(「ペトルーシュカ」とか)。

だから、なるほど「焦点」のある視覚表現は、写真・映画っぽく、モダンな感じではあるのだけれども、一点凝視的な焦点のありようは、実は20世紀というより19世紀後半のスタイルであって、「mass(大衆)」という観念は、視点とともに焦点をキョロキョロ自由に動かせばいいのに、20世紀になっても一点凝視の姿勢を守ろうとする結果、観察者が決して焦点を当てない/当てたくないネガティヴな対象、一種の補集合として生成されちゃった幻影なのではないか、と思いたいのですが、さすがにそれは、強引な立論でしょうか?

大衆の反逆 (ちくま学芸文庫)

大衆の反逆 (ちくま学芸文庫)

大衆嫌悪は20世紀の保守主義というより、19世紀末頃の「昨日の世界」、たまたま論者たちの幼少期だったというだけで実はそれほど古くから存続しているわけではない過去の一時期への郷愁が母胎になっている気がしてならない。フランスでもスペインでもロシアでも、この頃は反動の嵐が吹き荒れたみたいだし。

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十把一絡げに人間集団を語る論法は、「自分がそこへ混ざりたくない集団」、見たくないものが視界の脇に見えてしまってああ嫌だ、生きるって大変ね、やれやれ、でも稼がなきゃ生きてはいかれない、のニュアンスを帯びがちで、ハルキのリトル・ピープルだって、政治的に正しく各国語に翻訳可能な調整を施してはいるけれど、基本がナルシストさんですから、やっぱりそのニュアンスが忍び込んでいる感じがする。

集団・集合としての振る舞いは統計的・確率論的にしか語れないけれども、その要素としての個々人は、普通に会って話のできる個人である。それはさほど不思議でも恐ろしいことでもないし、たとえば「お祭り」というのは、その種の体験の典型として、昔から続いているんじゃないのだろうか。

21世紀にもなって、いまだに「マス」なんぞという言葉を平気で使い、この世の中には恐ろしい怪物が今もうごめいているんだぞ、と脅迫するような連中を信用してはいかん、ということです。

音楽史 影の仕掛人

音楽史 影の仕掛人

あとがきによると、当初は、音楽史の魅力的な脇役たちを紹介する企画だったのが、結局、脇役という以上に魅力的だから、「仕掛け人」(ただし「影の」)というタイトルなったらしい。光と影、という階級社会っぽい感じがあったほうがヨーロッパ的なのかなあ、と思いつつ、むしろそれは、「脇役が脇役として堂々としている」という切り口で押し切ることができなかった、残念な限界なのかなあ、という気がしたりもする。

でも、とりあえず、イグナツ・プレイエルやフォン・メック夫人を主題的に物語る日本語の本は画期的ではあるでしょうか。