「聴覚文化」

ぎょっとする言葉ですし、この言葉を「文化資源学」という漢字五文字とセットにすると too much で、いかにも帝国大学が主導する新規国家プロジェクト、二十一世紀の八幡製鉄所みたいな行政文書の外観になってしまうわけだが(そういう外観でああいう話を書く落差が……とか、そんな、ゆるキャラめいたサービスはもういいです)、一方、ラジオドラマのこういう話題は「聴覚文化」の語がしっくり来る、と思いました。

戦後日本の聴覚文化: 音楽・物語・身体

戦後日本の聴覚文化: 音楽・物語・身体

気になる具体的なアイデアが次から次へと出てきて、すごく面白かったのですが、小説の作中人物の分析や書き手の立ち位置(の時期ごとの変化)の見極めが圧倒的に鋭くて、

(作者がこれこれな作中人物を造形した、という虚構世界内の出来事は、その作中人物と同等の性質をもつ人物がその時代に実在したことをストレートには意味しないはずなのに、そこの境目がちょっと曖昧かとは思いましたが、)

でも、そういう文学研究者の強みの反面、市井の音楽の動向については、同世代の「ポピュラー音楽学会オールスターズ」のライブラリ群をそのまま利用する形になっているのが、ちょっと危うい気がしました。

旧稿をそのまま収録のようなので仕方がないかもしれませんが、2013年の本というつもりで読むと、文学研究者の目で、そうした「オールスターズ」の用いた文献を読み直して検証する手間を惜しまないで欲しかった、と思ってしまいます。「音」の文献は自ら分析するけれど、「音楽」の文献はその道に専門家に任せる、という区分けは要らない。彼らが公表しているライブラリは、まだ色々バグがあり、でも、地位や年齢を考えると、もう彼らは自力でメンテしないでしょうから、学問業績は原則としてパブリック・ドメインだという前提で、これからは、使いたい人がどんどん直していかないとダメだと思います。(暫定のすぐ水漏れする汚水タンクは、長持ちするものと入れ替えるべき!)

で、そういう、油断すると足を絡め取られそうな緩い地盤を上手に歩くのは、ものすごい密度で推敲しているに違いない圧縮した書き方と文章力ですよねえ。

ほとんど推敲しないで流して書いてしまう師匠と、〆切に迫られると鉄条網をぶっちぎる感じに論が強引になる弟子の旧阪大ペアとは、そこが違う。

……と思った。「時代は変わった」と恣意的に断言してみる。