人類はみんな兄弟、「音楽の国」に国籍はない

「アジア人」はいかにしてクラシック音楽家になったのか?──人種・ジェンダー・文化資本

「アジア人」はいかにしてクラシック音楽家になったのか?──人種・ジェンダー・文化資本

この本は、肌の色や国籍を問われない「音楽家」になることを目指して東アジアから北米へやってきた人々に関するレポートだったわけですが、

海の向こうへ渡った彼らの消息は、刻々と日本に伝えられていましたよね。小沢征爾の武者修行、ボストンからウィーンへ、というシンデレラ・ストーリーなどなど……。

そう考えると、1980年代の「音楽専用ホール」は、小沢征爾や内田光子の成功が確実なものになったタイミングで、今度は、音楽をやる側だけでなく、音楽を聴く側を「音楽(家)の国」へ招き入れる動きだったのかもしれませんね。ここは、肌の色や国籍を問われない「音楽の国」なのだ、と。

登記上の所在地はまぎれもなく「日本国」のどこそこだけれども、ここは、ウィーンやパリやロンドンやニューヨークと同質の空間なのであって、それが「音楽専用」という言葉の含意であるような気がしてきました。

そして、もはやわたしたちはウィーンやパリやロンドンやニューヨークと同じなのですから、当然のことながら、東京とか名古屋とか大阪とか金沢とか福岡とか仙台とか、そんな、たかだか日本国内の差異などというものは超越しているに決まっている。ここが何県何市何々町○○番地であることなど、何の意味もないのであって、そんなことにこだわっているような人々は、地面にへばりついて、まともに立ち上がることすらできない毛虫や爬虫類のようなものなのだから、見たら目が腐る、という気持ちになるのも、わからないことではない。

『聴衆の誕生』が言う軽やかさは、ひょっとするとそういう種類の夢見がちな人々のことでもあったのでしょう。

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でも、そうだとすると、ひとつ大事なことがひとつある。

たぶんこういう話をするときには、階級都市とか格差社会とか、そういうリアルな社会構造の話を持ち出してもダメなんでしょうね。ちょうどそのように「音楽の国」が起動しつつあった頃に出てきた現代文化研究カルチュラアル・スタディーズが提唱していたように、文化的な差異は、下部構造から「相対的に自立」して、観念の領域に花開くと見るべきなのでしょう。

ギュィ〜〜ンとエレキ・ギターを深夜に爆音で掻き鳴らすことで、世界を救う二十世紀少年が覚醒するように、美しい音楽が私たちを「国籍のない国」へ、ここへ居ながらにして連れて行ってくれるわけで、音楽が終われば、スタートレックのホログラムが消えたみたいに現実へ戻るのであって、「音楽の国」で私たちが何をどのように考えたかということを、現実世界で問題にされても困る、ということになるのでしょう。

ヴァーチャル・リアリティという概念は、しばしば新しいテクノロジーが実現する体験について語られますが、ひょっとすると、東アジアでクラシック音楽の国に生きる人々は、既にしてヴァーチャルかもしれません。

戦後日本の聴覚文化: 音楽・物語・身体

戦後日本の聴覚文化: 音楽・物語・身体

以上、こっちの本を読んで気になったことを我流で膨らませてみた。

「どうでしょう皆さん」(←って誰に言ってる)

「この人たちのことも、カルスタ好みなポピュラー音楽ファンの人たちと、実は症状に変わりはないってことで、仲間に入れてやってはくれませんか。」

「同じ釜の飯を食う仲間、同じ「聴覚文化」じゃないですか。西洋では、こっちはブルジョワ、あっちは労働者と、うるさい区別があるようですが、わたしらは、みんな同じニッポン人じゃないですか。」

「クラシック音楽への逆差別撤廃。大同団結・人民戦線・国共合作、もうなんでもいいから、とにかく、どうかひとつ! こっちはこっちで、色々大変なんですよ、一緒にやれることはやりましょうや。」

(……という感じのレトリックで、昭和の政治家さんは、「くに」をまとめていったんだよね、たぶん。小島信夫を読んだら、今まで使ったことのない、こんな言葉遣いが涌いてきたです。案外、今でも有効な気がする。というか、どうやらみんな、煎じ詰めるとそういうことを言いたいようだ。)

アメリカン・スクール (新潮文庫)

アメリカン・スクール (新潮文庫)

こういう感じに瞳孔が開きっぱなしな感じの「夢」は、本当に苦手で、かなりはっきり「嫌い」ですが、存在する以上、一度は直視することに決めた。同意・同調はしないけどね。