寄付・招待・拍手喝采、広義の贈与をどのように社会へ組み込むか?

「それは言葉の行き違いである」「何を細かいことにめくじら立ててるんだよ」

という風に、言説の水準に問題を落とし込むのは、ひとまず対処療法としてよいのかもしれませんが、おそらく背景にあるのは、

相当の対価を支払う等価交換とは違うしかたでの、ものや情報や権利の譲渡、広い意味での贈与を社会にどのように組み込むかということが、ゼロ年代を支配していた効率化・グローバリズムの掛け声を緩めて世の中の物事を回していくことが(もしくはやりすごして、もしくは、それでは対処できない領域に目を向けて世の中の物事を回していくことが)、いまそれなりに大事だ、という感じがあるのではないかと、少なくとも私は考えております。

「ものを譲る/譲られる」というのは、基本的には当事者間で相互に納得する落としどころに着地すればいいだけの話です。

でも、現状ではいろいろなところで、そのような事態を直接の当事者だけでは処理できないことが起きる。

今の世の中をみていると、個人同士だったらとりあえず好きにやればいいし、団体同士の交渉ごとについては業務フローに流し込めるのだけれども、個人と団体がどのように接触・交渉するか、というところでしばしば事故が起きる。

市場の等価交換であれば、個人を「消費者」として「お・も・て・な・し」するノウハウが洗練の極みに達しているのだけれど、個人と団体が贈与関係を取り結ぶことは、双方にとって「想定外」だったりするケースがあちこちにある、効率的な経営andつながり重視の個人間コミュニケーションの隆盛で、この傾向が目立ち、表面化するようになっているんじゃないのかな、と思います。

贈与関係に入った個人は、もはや「消費者」じゃないんですよ。団体が別様に扱わねばならない、というだけではなく、個人の振る舞いも、「消費者」モードではダメ。

具体的に考えていくと長くなるので、とりあえず入口だけの話ですが、そんな気がするですねえ。

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神社には、何かを建てたときの寄進者の名前が石碑に刻んであったりするじゃないですか。その施設や制度が何らかの贈与によって成立・充実しているときには、贈られた側は、そのことandその人の名前を何らかの形で「刻む」。(記憶に留めたり、記録に残すこともあれば、記念碑に物理的に刻むこともある。)

団体が個人から何かを贈られるというのは、そのように、「もの」や「サービス」だけでなく、その個人の(名前に代表されるような)大切な属性を頂戴することだと思う。

そして逆に、贈る、という行為は、そのように、「もの」や「サービス」だけでない私の(名前に代表されるような)大切な属性を差し出すことだと思う。

記念碑に刻まれたドイツ: 戦争・革命・統一

記念碑に刻まれたドイツ: 戦争・革命・統一

そこで記念碑ですよ。東京に潜在する「念」を探り当てることで世に出た荒俣宏が、朝日新聞書評欄でドイツ・ロマン主義の「民 Volk」の発見を論評するのは、意外というより、出てみれば適任、この本を語るのは彼しかいない、と私は思いました。後出しの reflective (←この語を「再帰的」と訳す最近の社会科学の慣行はどうかと思う、反射・反省概念にはドイツのロマン主義や観念論以来の伝統があるのだし)な事後判断ですが……。そういえば、ワーグナーといえば「自己犠牲」の「救済」だし、その積み重ねのうえに「音楽の国」があるとも言える(かもしれない)。その「身を捧げる精神」をどうエレガントかつ安全に継承するか、おそらくそれが21世紀の再び統一ででっかくなったドイツの課題。
ドイツ・ロマン主義における芸術批評の概念 (ちくま学芸文庫)

ドイツ・ロマン主義における芸術批評の概念 (ちくま学芸文庫)

「我が身(の一番大切な何か)を捧げる」という態度が宗教やイデオロギーを越えて拡散することへ警戒感、色々なことを分離・仕分けすることもまた近代社会の特性のひとつではありますが、それはあくまで分離・整理・仕分けであって、贈与関係の消滅・駆逐ではない。

そして双方が贈与のモード・枠組みで適切に行動していれば、着払いでものを送りつける、とか、受け取った側が、「これは思った以上に面倒なことになった」と動き始めてから慌てる、ことにならないのではないだろうか。(あくまで推測だけれど、「予算の枠内」というときに、当初予算が、滞りなく贈与を遂行するにしては「見積が甘かった」ところがあるんじゃないかという感触もある。私の身近でも、「もの」としての質・量以上に、これを所有することの責任は重いらしい、と最近ようやく気づいて色々模索している団体の例がありますし……。)

等価交換と同じかそれ以上に「心して臨まねばならないこと」なのだと思う、贈与は。そして贈与の制度設計は、結構あっぷ・つー・でーとな案件なのだと思う。

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こういう場合、日本人は、注意する側も、注意される側も、必ずケンカ腰になってしまう傾向があるようである(もちろん例外はあるだろう)。その点、外国人のお客は、何とも洒落ている(これも当然例外はあるだろう)。

東条碩夫のコンサート日記 11・24(日)日生劇場開場50周年記念公演 「フィデリオ」

コンサートに集まる、というのも、実は何かを「買い物」しているわけじゃなくて、並んで座る「お客様」になる、というときの「お客様」という意味は、コンサートの成り立ちを考えると、「わたしたちがお金を出し合うことでこの行事が実現している」なわけですから、ドネーションをしてくださった方が本番に招かれている、のニュアンスがある。このニュアンスを踏まえて振る舞うかどうか、そのためにはどうするか、という話なのだと私は思います。

上の記事では直接話題になっていないですけれども、拍手とブラボー問題も、お客さんが出演者をどのように讃えるか、という話ですから、同じ路線の話だと思う。

(隣同士に座った当事者間で、ちょっとした行き違いをエレガントに解決する術や作法が、最近は衰弱しており、気になることは、個人間で解決するより、主催者やホールという「団体」に上告もしくは丸投げするのが「効率的だ」、という発想があり、それが結果的に事態をギスギスさせているのだという気がする。)

文明・文化の周囲を市場原理の等価交換で覆い尽くすことは、おそらく、当面無理であり、仮にそのようにしたいと思う人であっても、現実にそこに贈与関係が成立している(してしまっている)ことを無視すると、良くない症状・兆候が出る、ということだと思います。

贈与は、駆逐されるべき未開や前近代ではなく、等価交換(採算を合わせること)を補う、しょーがなしの代替え案でもない。人が贈与関係を円滑に成立させることなしには、おそらく文明・文化は安定しない。

参考:

(いずれも年の初めに父が死んだ前後の作文だが、肉親の葬儀というのは、儀礼を学ぶ大事な機会であったということになるのでしょうか。)