伝統芸能と同人誌

(1) 伝統芸能の一門会の場合、家元が中央にどんと構えて、門下が脇に控える。そして古典を身につけてようやく「自由」になれるという考えがあるので、伝承の途絶えた演目の復曲とか、新作の移植初演などは家元がやる。

(2) 一方、「業界に新風を吹き込む」新興雑誌とか同人誌は、ツテを頼って既に商業誌などで活躍している「ビッグネーム」の「名前を借り」る。そういう大物さんは、サラサラと書いた小さなものを提供して、「人寄せ」の役を演じて、そうやって確保した場所で、(勘違いかもしれないけれども)「ホントはオレのほうが凄いんだ」と思っている若手や無名の新人が全力で書くことによって、荒削りではあるけれどもパワーのあるメディアになる、と考えられてきた(ような気がする)。

「業界人なら知らぬ者のいないビッグネーム」が「商業誌には書けない力作」で大暴れして「永遠の若さ」を手に入れることを夢見て、一方、これから活動の幅を広げて行く(行かねばならない)中堅・若手が、「このような方々と席を同じくするのは身に余る光栄」という態度で末席に加わる新興雑誌があるとしたら、それはすなわち、(1)の態度を(2)に代入していることになると思うのだが、そこにはどういう場が開かれることになるのだろうか。

順当に考えると、それは、同人誌がしばしば夢見がちな「アナーキーな価値の創造」(それが良いとか悪いとか言うつもりはない)よりも、「新しい流派の立ち上げ」(それが良いとか悪いとか言うつもりはない)に似ていると思う。

洋楽業界では、「派閥を割る」「新会派の結成」「業界再編」といった、狭義の政治(「政局」?)では既にお馴染みのムーヴメントすら、ほとんど表だっては見られない状態が長く続いている、と言えないことはないかもしれないから、これはこれで、アリ、なのかもしれない。

美術や演劇は、こういう「○○派」の集合離散だらけなので、そんなに珍しくないかもしれないが、ともあれ、雑誌を出す、という行為は、おそらく政党政治に打ってでるのに似ている。ジャーナリズムの歴史を考えれば、この態度こそが正統派なのだろうとは思います。

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ただし、現実の政治は、ひとしきりの「再編」を経て、立法府より行政府のあり方に焦点が移っている気配濃厚なご時世なので、そこがどうなのかな、という感じはある。

大同団結して国難に当たるべし、とか、いかにも誰かが(誰もが←学者を含めて!)言い出しそうなご時世だからこそ、逆に、派閥を割る/新たに立ち上げる、そこでそれぞれがてんでバラバラなことを言い続けることに意味がある……のか……。

まだ、そのあたりはよくわからない。

有名人候補者と、何でもいいから名を世に出したい人を組み合わせて、とにかく会派を作っちゃう、という立党ビジネスみたいな動きは、過去20年の「政局」が騒がしかったのに似て、「公刊 publish」という領域を再び活性化するのかもしれないし、あるいはそれはまやかしで、出すこと自体に意義を見いだすかのような「祭り」は過渡的、その先のヴィジョンがないとダメ、なのかもしれないし。